とある魔術の禁書目録7 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 一テキスト中に現れる記号について一 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行4?文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録7   伝説の魔術師が記した、天使を召喚することができるという驚異の魔道書『法の書』が、解読法を知るシスターと共にさらわれた。  学園都市でぼけ一っと日常を過ごしていた|上条当麻《かみじょうとうま》には、それはまったく関係ない出来事——のはずだったのだが、“不幸”にも何故かその救出戦に加わることに……。  しかもさらった犯人は『|天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきよう》」、つまり|神裂火織《かんざきかおリ》が|女教皇《ブリエステス》を勤めていた宗派だというのだ……!  インデックスが所属する『イギリス清教』、今回の依頼主の『ローマ正教』、そして神裂火織がかつてトップにいた『天草式』。  三つの魔術組織が上条当麻と交差するとき、物語は始まる——! [#改ページ] 鎌池和馬 のんびりやっている内にもう七冊目です。このコメントの下についてる刊行リストみたいなものも、そろそろ空白の方がなくなってきているみたいですね。ちょっとしみじみな鎌池です。 イラストー|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。ココ数ヶ月は「仕事絵を描く→寝る」の繰り返しです。起きてる間にやる事が一つしかないのは気楽といえば気楽ではありますが……暇が欲しい。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録7 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 行動開始 The_Page_is_Opened.    第一章 学園都市 Science_Worship.    第ニ章 ローマ正教 The_Roman_Catholic_Church.    第三章 イギリス清教 Anglican_Church.    第四章 天草式十字凄教 AMAKUSA_style_Remix_of_Church.    第五章 行動終了 The_Page_is_Shut. [#改ページ]    序 章 行動開始 The_Page_is_Opened.  |聖《セント》ジョージ大聖堂。  大聖堂と名のつくものの、その正体はロンドンの中心街にある、たくさんの教会の一つにすぎない。そこそこ大きな建物なのだが、ウェストミンスター寺院、聖ポール大聖堂など世界的観光地と比べると格段に小さく見える。無論、イギリス清教始まりの場所と言われるカンタベリー寺院などとは比較にならない。  そもそも、ロンドンには『聖ジョージ』と名のつく建物はいくらでもある。教会はもちろん、デパートやレストラン、ブティックに学校などなど。おそらく街の中だけでも数十はあるだろう。それどころか、フルネームの『聖ジョージ大聖堂』でも一〇以上あるかもしれない。『聖ジョージ』は国旗のデザインにも|関《かか》わるほど有名なワードなので無理もないのだが。  その聖ジョージ大聖堂は、元々『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の本拠地だった。  これは良い意味ではない。教会の人間のくせに汚れた|魔術《まじゆつ》を使い、イギリス国内の魔術結杜とそこに所属する魔術師の|徹底的《てっていてき》な|繊滅《せんめつ》・処分を業務とする『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の面々は、イギリス清教の中では鼻つまみ者だったため、イギリス清教総本山と呼ばれるカンタベリーから|左遷《させん》される形で与えられたのが、この聖ジョージ大聖堂なのだ。  しかし。  |窓際《まどぎわ》の一部署にすぎなかった『|必要悪の教会《ネセサリウス》』は、ひたすら|黙《もくもく》々と成果を上げ続けた。  そしてそれらの行為は英国国教という巨大な組織の中で|信頼《しんらい》と権限を積み上げていく事となる。今でもイギリス清教の正式な心臓部はカンタベリー寺院だが、実質的な頭脳部は完全に聖ジョージ大聖堂へと明け渡すほどの事態を招いていた。  そういう事情もあって、ロンドンの最中心部からやや外れたこの大聖堂が、国を統べる 大宗派の核となっていた。  赤い髪の神父、ステイル=マグヌスは朝のロンドンを歩きながら困惑していた。  街の景色自体に変化はない。築三〇〇年を軽く越す石造りのアパートが道の左右に建ち並び、その古い街並みの中を携帯電話を持った会社員|達《たち》が忙しく歩いている。伝統の二階バスがゆっくりと走る横では、同じく伝統だったはずの赤い電話ボックスが作業員によって|撤去《てつきよ》されていく。歴史の新旧が入り乱れる、いつもの光景だ。  天候にも異常はない。ロンドンの朝は今日も突き抜けるような青空だが、この街の天気は四時間程度で切り替わるほど予測しづらいので傘を持っている人も多い。そして蒸し暑かった。|霧《きり》の都と|謳《うた》われるロンドンだが、夏場は崩れやすい天気が一つの問題になる。断続的な雨が周囲の湿度を上げた所で、さらに近年目立つフェーン現象や熱波が壮絶な猛暑を演出するのだ。|小奇麗《こぎれい》な観光名所にだって欠点はあるものである。もっとも、ステイル|達《たち》はそういう欠点も含めてこの街を選んで住んでいるのだから、それは気にならないのだが。  問題なのは、彼の|隣《となり》を歩いている少女だ。 「|最大主教《アークピシヨツプ》」 「んん。|折角《せつかく》地味な装束を|選《え》ったのだから|仰々《ぎようぎよ》しき名前で呼ぶべからずなのよ」  簡素なベージュの修道服に身を包んだ、見た目は一八歳ぐらいの少女が日本語で|呑気《のんき》な声を出した。ちなみに本来、聖職服に使える色は白、赤、黒、緑、紫の五色と装飾用の金糸のみと決められているため、彼女はこっそり違反してたりする。  その衣服が自分を街に溶け込ませていると思っているのは、当の本人だけだろう。光り輝くような白い肌に、透き通った青い|瞳《ひとみ》。そのまま宝石店に売りに出せるような黄金の髪は、とてもではないが|雑踏《ざつとう》に紛れ込む事など許さない。  それは異様に長い髪だった。まっすぐ伸びた髪はくるぶしの辺りで一度折り返し、頭の後ろにある大きな銀の髪留めを使って固定した後に、さらにもう一度折り返して腰の辺りまで届いている。ざっと身長の二・五倍もの長さがあった。  ロンドンの、しかも朝のランベスの混雑具合は世界的な|騒々《そうぞう》しさを誇っているが、それでも 彼女の周囲だけは音のボリュームがグンと下がっているようだった。決して|騒音《そうおん》を許さない、静粛令を出された聖堂の中に似た空気さえ感じ取れる。  イギリス清教第零聖堂区『|必要悪の教会《ネセサリウス》』|最大主教《アークピシヨツプ》。  ローラ=スチュアート。  イギリス清教のトップは国王である。その側近のローラ……|最大主教《アークピシヨツプ》の役目とは『|普段《ふだん》は多忙な国王に代わって、イギリス清教の指揮を執る事』だ。  イギリス清教という組織は、年代物の弦楽器のようなものだ。  つまり道具の『持ち主』と、その使用と手入れをする『管理人』が存在する。どんなに優れたヴァイオリンも使わなければあっという問に弦はたるみ共鳴胴は傷み|奏《かな》でる音は|錆《さ》びていく。 それを防ぐための|仮初《かワそ》めの演奏家がローラなのだった。  しかしこれもウェストミンスター寺院と|聖《セント》ジョージ大聖堂の関係と同じく、現在では書類上と実質的な立場は逆転しており、その命令権は彼女の手の中にあった。  そんな絶大な権限を持つ|最大主教《アークピシヨツプ》は、特に護衛もなく朝の街並みをトコトコと歩いている。  ステイル|達《たち》は今、聖ジョージ大聖堂へ向かっている。そして、そもそもあらかじめこの時間に大聖堂に来いと指定してきたのは彼女のはずで、本来ローラは大聖堂で待っているはずなのだが……。 「わたしにも帰るべき家ぐらいありけるのよ。まさか年がら年中あんな|古《ふる》めき聖堂の中になど取り|籠《こも》らないわ」ローラは雑音を感じさせない足で道を進み、「歩みつつも語れるのだし、時の|掠《かす》りといこうじゃない」  すれ違うのは会社員が多い。ロンドンでも最大級のウォータールー駅の近くだからだろう。 シスターや神父の姿だけならそれほど珍しくもない。ローマほどではないが、ロンドンも公園ぐらいの間隔で教会が立っていたりする。 「まあ、構いませんけど。しかし、わざわざ大聖堂に呼び出すほどの用件なら、周りに聞かれたくない話なのでは?」 「気にしてるの? 小さし男なのね。|寧《むし》ろこのわたしと共に歩める状況を|耽楽《たんらく》せんとはできないの? 婦入の|臓悔《ざんげ》を聞きたる神父には『遊び人』という意味もあろうけど、少しは冒険してみる気はないのかしら」 「……」  ステイルは少しだけ難しい顔をした後に、 「一つだけ尋ねてもよろしいですか」 「硬き事ね。なに?」 「|貴女《あなた》はどうしてそこまで|馬鹿《ばか》なしゃべり方をしてるのですか?」 「……?」  イギリス清教の|最大主教《アークピシヨツプ》は、まるでシャツのボタンの掛け違えを指摘されたかのように、最初はキョトンとして、次にピタリと動きが止まって、最後に顔を真っ赤にすると、 「な、え、あ! お、おかしいの? 『|日本語《ジヤパニーズ》』とはこんな感じといふものではないければかしら!?」 「あの、失礼ですがもう何を言ってるか分かりません。古語としても狂ってます」  道行くスーツの人々には日本語は通じていないはずだが、|何故《なぜ》だか周囲の|喧騒《けんそう》がヒソヒソ声となってローラに集中しているように感じられた。 「く、く。……文献やテレビジョンなどの参考資料を元に、色々と勉学に励みて、さらには本物の日本人にもチェックを入れてもろうたのに……」 「はぁ。本物の日本人って一体|誰《だれ》なんですか?」 「つ、つちみかどもとはるのヤツなのよ……」 「……、あんな義理の妹にメイド服を着せて|悶絶《もんぜつ》しているような危険人物を日本人の基準点にしないでください。アジアはそこまで奇妙な世界ではありません」 「さ、さにあったのね。しからば誤りたる口ぶりは改めねば———って、いかん!?」  ローラが叫ぶと、歩道で休んでいた|鳩《はと》の群れが一斉に飛び立った。 「? どうかしたんですか」 「く、クセになってしもうて言葉遣いを直せないのよ」 「……まさかと思いますが、今までそんな|馬鹿《ばか》な言葉遣いで学園都市の代表と協議してきた訳じゃないですよね?」  ビクッ、とローラの肩が動いた。『い、いや、案ずる事はないわよ。だ、|大丈夫《だいじようぶ》大丈夫。|確《たし》けし確けし』と言っていたが、その声は|震《ふる》えていたし変な汗が|頬《ほお》を伝っていたし目は泳ぎまくっていた。  ステイルは|煙草《タバコ》臭いため息をついて、 「とにかくそれについては大聖堂に到着してからゆっくり話しましょう」  二人は、|密《ひそ》かに|神裂火織《かんざきかおり》が入り浸っている日本料理店の角を曲がって先へ進む。 「い、いや、ゆるりと話す必要はないわよ。何もおかしき所などないのだから」 「くだらない事を言っていないで『仕事』の話を進めてください。あー、日本語に自信がないなら英語に戻せば良いじゃないですか」 「く、くだらな……。じ、自信がなしとかそういう訳ではさにあらずなの。いやあれよそう今日はたまたま調子が|悪《あ》しきだけ」挙動不審いっぱいな態度でローラは言ってから、「仕事の方は……と、|其《そ》の|先《まえ》に」  彼女は修道服の胸元からメモ用紙のような紙を二枚と黒マジックを取り出した。ルーンのカードを使うステイルには、それを何に使うかはすぐに分かった。 「きゅっきゅーっと♪」  ローラは口で言いながら、黒マジックで紙に何か模様のようなものを描いていく。おそらく護符や陣といった所だろう。式典などで大勢の前に立つ時には同じ人類かと疑うほど|荘厳《そうごん》な表情を見せる|最大主教《アークピシヨツプ》だが、こうしていると授業中にノートの端にラクガキをしている女の子にしか見えない。いつでも荘厳としていて欲しいと彼は思う。  ステイルは|煙草《タバコ》をくわえながら、わずかに|眉《まゆ》をひそめる。彼はあまり、このマジックの音が好きではない。 「きゅっきゅきゅっきゅきゅーきゅっきゅっきゅきゅきゅっきーきゅきゅきゅーきゅーきゅーきゅきゅきゅきゅきゅーきゅっきゅっきゅっきゅきゅきゅっきゅーきゅーきゅきゅっきゅっきゅっきゅっきゅーきゅーきゅーきゅーきゅーきゅーきゅーきゅーきゅきゅきゅ♪」 「……、あの。一応確認しますけど、何をやっているんですか?」  ステイルは歯を食いしばり、ぶるぶると小刻みに|震《ふる》えながら問い|質《ただ》した。  こめかみに青筋が立つが、ここは我慢の時なのだった。 「ほんの少しき|配慮《はいりよ》なのよ。ほら」  ローラは二枚の紙に同じ模様を描き終えると、その片方をステイルの手に押し付ける。 『あっあー。音聞きはできとろうかしらー?』  と、ステイルの頭の中へ直接、声のようなものが聞こえてきた。彼は確認するようにローラの顔を見るが、やはり彼女の小さな口は動いていない。 「……通信用の護符、ですか?」 『声に出さねど思うだけで音聞きできようものなのよ』  ふむ、とステイルは手の中のカードに視線を落とす。ステイルが周りに聞かれるとまずい、と進言した事にわざわざ対応してくれたらしい。 「で、何でまた心の声まで|馬鹿《ばか》口調なんですか?』 『えっ? ま、待ていなのよステイル! わ、わたしは今、|英国語《クイーンズ》で語らいてるわよ!』  声もなく慌てる様子に、開店前の喫茶店の前で丸まっていた猫がビクッと震える。ステイルはため息をついた。|最大主教《アークピシヨツプ》としての威厳とか、そういう冷静さは持ってないのかと思う。 『では通信・変換時に誤訳しているんですね。まぁ気は抜けますけど意味は通じますし、このまま先に進みましよう』 『く、く……。ごほんっ!では始めたるわよ』  何か言いかけたローラだったが、|呑《の》み込んで仕事の話題へと移っていった。 『ステイル。|貴方《あなた》は「法の書」の名は知り足るわね』 『|魔道書《まどうしよ》の名ですか。著者は確かエドワード=アレクサンダーだと思いましたが』  エドワード=アレクサンダー。またの名をクロウリー。  二〇世紀最高の|魔術師《まじゆつし》と呼ばれ、同時に二〇世紀最低の魔術師とも呼ばれた男だ。常軌を逸した|苛烈《かれつ》で異常な言動から幾度となく様々な国から国外退去処分を受け、多くの芸術家|達《たち》の創作意欲を刺激し、そしてありとあらゆる魔術師を敵に回した伝説の男。史実では一九四七年一二月一日に没したとされている。その死と共に世界中の|緊張《きんちよう》の糸が一気に|緩《ゆる》んだとさえ言われるほど敵と波乱と問題に満ちていた人間だったと言える。  強大な|魔術師《まじゆつし》の死後も、彼の弟子や正統後継者を名乗る人間も少なくなく、そうした人間が織り成すmagick系魔術の対策のために今もクロウリー専門の調査機関がある。また、この手の伝説的人物にありがちなウワサとして、『彼はまだ生きている』といった話も良く耳に入る。 『それがどうかしましたか。確か「法の書」の原典は今、ローマ正教のバチカン図書館にあったと|記憶《きおく》していますが』  禁書目録の少女が一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を詰め込む際に、彼は護衛として|一緒《いつしよ》に世界各地を飛び回った。有名な魔道書の一〇〇冊ぐらいなら、どこの|誰《だれ》が保管しているかぐらいは覚えている。もちろん内容の方は|覗《のぞ》いていないが。 『そうよな。クロウリーは一九二〇年から一九二三年までの間、イタリアのシチリア島にて活動しとったのよ。「法の書」はその時の落とし物という訳なの』ローラは歴史の教科書をめくるような声で、『さてステイル。それでは「法の書」の特徴は知りえるかしら』 『……』  特徴。 『確かに、あのクロウリーの著作という事で|信愚性《しんびようせい》の有無を問わず様々な学説[#「様々な学説」に傍点]がありますね。 「法の書」は彼が召喚した守護天使エイワスから伝え聞いた、人間には使えない「天使の術式」を書き記したものだとか。「法の書」が開かれた|瞬間《しゆんかん》に十字教の時代は終わりを告げ、全く新しい次の時代がやってくるとか。……意思なき天使から話を聞き出すのは不可能にしても、後者の方は気になりますね。そして——』  イギリス清教の予測では、それは絶大な威力を誇る魔術の使用方法が書かれた魔道書という説が濃厚だった。  しかし、この話を聞いた者は皆、一つの疑問に突き当たる事だろう。  |何故《なぜ》、『予測』止まりなのか?  禁書目録の中には、確かに『法の書』の知識も入っているはずなのに。 『誰にも解読できない[#「誰にも解読できない」に傍点]、という事でしたね。元々、魔道書は様々な暗号を使って書かれるものですが、あれは別格だとか。禁書目録も解読を|諦《あきら》め、暗号解読専門官であるシェリー=クロムウェルすらサジを投げたそうですが』  そう、『法の書』は誰にも読めない。禁書目録の少女に言わせれば、あれはもう既存の言語学で解読できるようなものではないとの事だった。よって、彼女の頭の中には未解読のままの『法の書』の暗号文章がそのまま詰め込まれている。  ローラは愉快げに笑ってから、 『では、その|何人《なんぴと》たりとも読めん「法の書」を解読できる人間が現れんとしたら、どうする?』 『……、何ですって?』  ステイルはローラの顔を改めて見た。彼女が冗談を言っているようには見えない。 『その者はローマ正教の修道女で、オルソラ=アクィナスと言うさうよ。あくまで解読法を知りけるだけで、|未《ま》だ本文に目は通しとらんようなの』 『どういう事ですか』 『|件《くだん》のオルソラは部分的な写本を参考に解読法を探さんとしたそうなの。目次と序文の数ページだけしか手元になかったのよ』  確かに、『法の書』の原典は厳重に管理されているため、そう簡単に閲覧する事はできないだろう。それに禁書目録のような人間でもない限り、|迂闊《うかつ》に原典を手に取るのは危険だ。 『ローマ正教は……現在、勢力争いのための|戦力《カード》が不足していますからね。となると、「法の書」でも使って巻き返しを図ろうとしているんですか。ヤツら、「法の書」を単なる新兵器の設計図ぐらいにしか見ていないのか……』  ローマ正教は世界最大の十字教宗派と言われているが、『グレゴリオの聖歌隊』という三〇〇〇人を超す大人員で作られる最大級の戦力をとある|錬金術師《れんまんじゆつし》によって|撃破《げきは》されているため、現在はその力が弱まっているという情報もある。だとすれば、彼らがトップの座を守るため、『法の書』の知識を使い『グレゴリオの聖歌隊』に代わる新術式でも考案・採用して、失った戦力の巻き返しに|躍起《やつき》になろうとしても労かしくはない。 『いや、連中が戦力増強のために「法の書」を利用する可能性はあらずのようね。少なくも|直《ただ》ちにローマ正教が「法の書」を用いてどこそこを攻撃せしめる事はないから安心なさいな』 『?』 『ふふん。色々事情がありけるのよ、色々とな』  ローラはやけに自信たっぷりに言うが、何か根拠があるのかとステイルは|眉《ほゆ》をひそめる。イギリス清教とローマ正教の間で『法の書』使用禁止の条約でも結んであるのかとも考えたが、(……、ならば|何故《なぜ》ローマ正教はオルソラを使って『法の書』の解読を行う必要がある?)『心配性なのね、顔に出とるわよん。|大丈夫《だいじようぶ》ったら大丈夫って言ってるのに』 『しかし……』 『あーあーやかましいやかましい。ひらさらローマ正教が仮に「法の書」を使わんと|企《たくら》んでた所でとてもかくても今のままじゃ実行は不可能よ』  どうして? とステイルが間う前に、 『「法の書」とオルソラ=アクィナス。この二つが|一緒《いつしよ》に盗まれたさうだから』 「そんな……|誰《だれ》に!?」  ステイルは思わず口に出していた。突然の大声に、駅へ向かう会社員|達《たち》の目が一斉に彼の方へと集中する。 『予測はついてるから後は|其《そ》の始末をつけてみよというのが私があなたに伝えし今回のお仕事。 まあ大方、相手は日本の天草式十字|凄教《せいきよう》で|間違《まちが》ん事ないと思うけど』 『天草式……』  現在はステイルの同僚である|神裂火織《かんざきかおリ》。彼女が以前、|女教皇《トツプ》を務めていた日本の十字教勢力だ。  が、ステイルは彼らを十字教宗派と認めていない。神道や仏教などが混ざりすぎて、十字教としての原型を|留《とど》めていないのだ。 『天草式は宗派としては、ローマ、イギリス、ロシアなど国家宗教に比べれば格段に小さしものよ。それだのにこの世界で|繰《く》り|回《まわ》し出来たのは、神裂というイレギュラーな存在がいた|為《ため》。 大黒柱としての神裂を失いたる彼らがその代わりとなる新たな力として「法の書」を求めても何ぞ不可思議なる事もないじゃない。何せ「法の書」は、使えば十字教のパワ!バランスを突き崩やす一冊なんだから』  オルソラ=アクィナスと『法の書』が天草式の手に渡ったとなれば、彼らがいつそれを使ってもおかしくはない。むしろ、使わない方が不自然だ。 『しかし!』ステイルは声を荒らげ、『「法の書」はバチカン図書館の最深部に安置してあったんでしょう。今の天草式は力を欲するほど小さな[#「力を欲するほど小さな」に傍点]組織です。その程度の宗派が、あそこへ侵入できるとは思えません。僕はあの禁書目録の護衛として実際にバチカン図書館へ足を|踏《ふ》み入れた事があるから分かります。あそこの警備は死角も抜け道もない、まさしく壁です!』 『|然《だ》から、「法の書」はバチカン図書館などにはなかったの』  は? とステイルの表情が止まった。  彼の横を、観光用らしき馬車がぱかぱかと|蹄《ひづめ》の音を鳴らしながらすれ違う。ご|丁寧《ていねい》にも馬車の後ろにはナンバープレートがついていた。 『ローマ正教は国際展示会を開くため「法の書」を日本の博物館に移送していたのよ。「神の子」が血を流しながら上ったと言やる、ローマにありしラテラノ聖堂の「聖なる階段」が|何故《なぜ》一般にまで公開されているか、知らざる訳じゃないでしょ?」  歴史上や聖書上の物品を、数年に一度、教会が公開する事がある。  理由は簡単で、多くの信徒から寄付金を集めたり、新たな信徒の募集をかけるための『客寄せ』だ。ローマ正教は三〇〇〇人を超す大人員で作られる『グレゴリオの聖歌隊』という最大級の戦力を失ったため、新術式の考案や人員の補強など、あらゆる方面から少しでも多くの力をつけようとしている。 『新たな信徒』が欲しいなら、十字教徒のいない場所で活動をした方が効果的だ。日本などはおあつらえ向きといったところだが、同時に支配力も弱まる。そこを|狙《ねら》われたのだろう。 『|馬鹿《ばか》げている……。そんな危険な物を見世物にした挙げ句に横から|掠《かす》め取られるだなんて、ローマ正教はどこまで恥をさらせば気が済むんだ』 『くっく。そりゃ当人が一番自覚しておるでしょうよ。地の利ありとはいえど、極東の小宗派に|其処《そこ》までやられたローマ正教の誇りはズタズタよ』 『はぁ。それで、ヤツらは恥も外聞もなくこちらへ協力の打診をしてきたって訳ですか』 『いいえ。|小奴《こやつこ》どもは己が手で事を収めたいみたい。自分|達《たち》だけで解決すると言うて、この情報を聞き出だすのに苦を労したんだから。そこが最後のプライドたるといった所でしょうけど、はっきり言いやれば現実見ろ|馬鹿《ばか》って感じよね』 『? 僕達はローマ正教からの要請があって「法の書」とアクィナスの救出を手伝うのではないんですか?』 『向こうは|渋《しぶ》りていたわ。まあ、オルソラ=アクィナスが本当に「法の書」を解読できるなら|此方《こちら》も|放《ほふ》らしておけないし』 『……恩でも売っておくつもりですか? あの神職貴族ども[#「あの神職貴族ども」に傍点]が借りを返すような連中だと?』  ステイルはくだらなそうに言った。  過去に欧州を支配していた名残か、ローマ正教の———オカルトについて何も知らない大部分の一般信徒は別として———自尊心の高さは折り紙つきだとステイルは考えている。特に強硬派に所属する頭の固い司祭だの司教だのになると、|邪魔者《じやまもの》はおろか協力者に対してまで『協力しようとするその哀れみが気に食わない』などと書い出す者まで現れる始末だ。 『かような|旧教《カトリツク》を腐らせたる———というより、「旧」などと付けさせてしまった———|愚図《ぐず》どもに|施《ほどこ》しを与えてやる気なぞ毛頭ないわよ。それよりまずし事がありけるの』 『何か?』 『|神裂火織《かんざきかおり》と連絡が取れんのよ』  ローラは最低限の言葉だけを告げ、ステイルは即座にその意味を悟った。  神裂は元・天草式のトップだ。現在は離反しているとはいえ、彼女は今でも天草式の人間を思っている。その天草式の面々が問題を起こし、今まさに世界最大宗派、総員二〇億人を超すローマ正教と敵対すると知ったら、神裂は一体どんな行動を起こすか。  神裂は世界でも二〇人といない『聖人』で、その存在は核兵器にも等しい意味を持つ。彼女の|手綱《たづな》をイギリス清教が手放してしまい、あまつさえローマ正教の人間を討ってしまったらどういう事になるか……。 『あの性格なれば後先考えずに手を出したる可能性は極めて高いわ。並かそれ以下ぐらいの腕ならまだしも、神裂クラスとなりたると|流石《さすが》に、ね』  ローラは面白くないとばかりに大きく息を吐く。 『神裂が下手を打つ前に、|落《かた》を付けて欲しいのよ。|其《そ》れが最優先。方法は|何《いず》れでも構わないわ。 「法の書」とオルソラを救出するか、交渉に|依《よ》りて天草式を降伏させるか、あるいは神裂ごと天草式を力で排除して事を収めるか』 『あの神裂と、戦えですって?』 『場合が場合ならね』ローラは簡単に言った。『ウチからの人員は小分けして日本にいるローマ正教の捜索隊のもとへ送る手はずとなっとろうのよ。でも、|貴方《みなた》は別働隊として、始めに学園都市と接触して|頂戴《ちようだい》ね』  ステイルは頭の中の疑念を|吐《は》くように口から|煙草《タバコ》の白煙を出す。  別働隊として動く、という部分にではない。  元々、|魔術師《まじゆつし》ステイル=マグヌスは団体行動に向いていない。性格的な面はもちろん、使用する魔術が炎に特化しているため、下手に全力を出すと周囲の味方まで炎や煙に巻いてしまう危険性があるのだ。  彼の扱う『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』は展開するカードの枚数によって強さが極端に変動するという不安定な一面を持ってはいるものの、その名に恥じぬ実力を誇る。摂氏三〇〇〇度の炎の塊が自在に踊って、鋼鉄の壁すら軽々と溶かして敵へ|襲《おそ》いかかるその姿は、相手から見ればまさしく死神そのものだろう。何せ、ある少年の右手という例外を除けば、いかなる手段を用いてもその|進撃《しんげき》を止める事などできないのだから。|数多《あぽた》の魔術結社をたった一人で焼き払ったその戦績は壮絶の一言に尽きる。  なので、問題はそこではなく。 『これは|教会諸勢力《ぼくたち》の問題でしょう。そこで|何故《なぜ》、|科学側《かれら》の手がいるんです?』 『禁書目録』  ローラは人名……というより、道具名[#「道具名」に傍点]を言った。 『|魔道書《まどうしよ》の、それも「法の書」の原典がおでましとなれば、専門家の手は必要でしょ。|向《かれ》こ《ら》|うにはすでに話をつけたるから、|遠慮《えんりよ》なくさらいて構わないわよ。条件の一つとして、管理人[#「管理人」に傍点]を同伴させる事になっているけどね』 『……』 『何ぞ。久々にあれと仕事ができようと言うに、あまり|嬉《うれ》しげでないわね』 『いえ』様々なものを|呑《の》み込んで、ステイルは表情を消す。『……管理人というのは、例の幻想殺しですか』 『ええ。せいさい有効に使うといいわ。あ、|弑《しい》ては|駄目《だめ》よ。あっちは借り物なんだから』 『学園都市所属の人間を、魔術師同士の争いに巻き込んでしまって|大丈夫《だいじさつぶ》なのですか?」 『|其《そ》の方は色々と小細工を|為《な》せば大丈夫よ。というより、先方の交換条件につき外せんわね。いちいち交渉を長引かせている時聞はないのよ』 『そう、ですか』  学園都市のトップも、そして|隣《となり》を歩くローラも、いまいち考えている事は分からない。何か水面下のやり取りがあるのだろうから、|下《した》っ|端《ぱ》のステイルが口を出すべきではないのだろうが。 『それからステイル。これを持ちておいて』  ローラは地味な修道服の|袖《そで》の中から小さな十字架のついたネックレスを取り出すと、それを無造作にステイルへと放り投げた。彼は信仰の象徴を片手で受け取りながら、 『|霊装《れいそう》の一種ですか? 見た所、それらしき加工は見られませんが』 『|件《くだん》のオルソラ=アクィナスへのささやかなる贈り物という所かしら。その者に出会いし機会があらば適当に渡しといてね』  ステイルはいまいち意図が|掴《つか》めなかったが、ローラは特に詳しく説明を続けるつもりもないらしい。言外に語られる|台詞《せりふ》は『良いから|黙《だま》って仕事をしろ』といった所か。  と、二人の足がピタリと止まった。  ロンドンでも一、二を争う巨大駅から徒歩一〇分の場所にある、大聖堂と名のつくそれほど大きくもない教会が、彼らの前にそびえ立っていた。  |聖《セント》ジョージ大聖堂。  |魔女《まじよ》狩りと宗教裁判の暗い歴史が|凝縮《ぎようしゆく》された、フランスの伝説的聖女ジャンヌーーダルクをも焼き殺した暗黒の聖域。  ステイルの一歩前へ進んだローラの手が、重たい扉のノブへそっと|触《ふ》れられる。 「さて」  ローラは重い両開きの扉を開けて振り返り、神父を中へと招く。  彼女はカードを通さず、口を動かして|澄《す》んだ声を出した。 「詳しき説明は、中で掛け合いましょうか」 [#改ページ]    第一章 学園都市 Science_Worship.      1 「だからなー、二学期というのは忙しいんだぞー。|大覇星祭《ぜいはせいさい》に|一端覧祭《いちはならんさい》、遠足に宿泊学習に修学旅行、芸術|鑑賞祭《かんしようさい》に社会見学祭に大掃除祭に期末試験祭に追試祭に補習祭に涙の居残り祭とお祭りづくしなのだからなー。そのための準備にみんな忙しいから仕方がないのだぞー」  九月八日。  午後の学生|寮《りよう》の通路で、|土御門舞夏《つちみかどまいか》はのんびりした口調で言った。彼女はインデックスと同じか少し幼いぐらいの|年頃《としごろ》で、奇妙な事にメイド服を着ている。さらに|謎《なぞ》な事に、ドラム缶型の清掃ロボットの上にちょこんと正座していた。清掃ロボットはプログラムに従って前へ進もうとしているようだが、舞夏がモップを前方の床に突き刺すようにして動きを封じているため、機械はぶるぶると小刻みに|震《ふる》えているだけだった。 「でも暇だよ退屈だよつまんないんだよとうまは構ってくれないし遊んでくれないし」  そんな土御門舞夏を前に、インデックスは口を|尖《とが》らせて体を左右に揺らしながら抗議した。 銀色の長い髪と純白のフードがつられてなびき、細い両腕に抱かれた|三毛猫《みけねこ》はフードを|彩《いろど》る金糸の|刺繍《ししゆう》のキラキラが気になるのか、前脚でバタバタとパンチを繰り出している。  インデックスにも、|上条当麻《かみじようとうき》が最近何となく忙しそうなのは分かっていた。しかし、学園都市の中では彼女の話し相手は上条しかいないのだ。  もちろん、上条当麻はインデックスを学生寮の一室に閉じ込めている訳ではない。部屋の|合鍵《あいかガ》はもらっていたし、現に彼女は上条が学校に行っている間、暇を|潰《つぶ》すためにあちこちを散歩していたりする(とはいえ、駅の自動改札や指紋・静脈・生体電気認証キーロックなど、ちょっとでも機械っぽいものが|絡《から》むと何もできずに逃げ帰る日々を送っているのだが)。  ところがこの街、学園都市は変なのだ。  東京西部を一気に開発して作り上げた科学都市は、人口の八割が学生だ。上条が学校に行っている時間は|姫神《ひめがみ》や|小萌《こもえ》なども学校に行っているらしい。よって、インデックスが新たな話し相手探しに出かけたところで、街は不気味なほどにガラーンとしているだけだ。一応この一週間で彼女なりに街を探索してみた結果、洋服店のお姉さんは商品の入れ替えをしている時以外は割と気さくに話してもらえる事に気づいたインデックスだが、これは何か違うと思う。  そんな中で、土御門舞夏という人物は例外申の例外だった。  時間帯によって人の出入りが極端に変動する学園都市の中で、彼女だけは時間に|縛《しば》られず、朝や昼でもたまに街でその姿を見かける事がある。コンビニ、デパート、公園、パン屋、駅ビル、学生|寮《りよう》、道路に学校など、場所も問わない。  |舞夏《まいか》はなおも前へ進もうとする清掃ロボットを|掌《てのひら》でべしべし|叩《たた》きながら、 「|上条当《かみじようとま》麻にも上条当麻の事情があるんだから迷惑かけちゃ|駄目《だめ》なんだぞー。大体、あっちだって好きでほったらかしにしている訳ではないんだからなー。学校というのは色々と大変なところなのだぞー」 「むう。分かってるけど……。じゃあ、どうしてまいかはガッコーに|縛《しば》られてないの?」 「ふふん、私は例外なのだよー。メイドさんの研修は実地が基本だからなー」  |土御門舞《つちみかど》夏の通う家政学校は、単に時代|錯誤《さくご》なメイドを養成している不思議学校ではない。 道路のガム|剥《は》がしから多国間の首脳会議まで、あらゆる局頁て主人を「補佐』するためのスペシャリスト育成を目指している。そのため舞夏の『実地研修』は様々な場所で行われているのだ。もっとも、|全《すべ》ての生徒が舞夏のように『実地研修』に出かけている訳ではない。これは一定の試験を突破して、『見習いにしても見苦しい様は見せない程度の腕を持っている』と判断されたエリートのみが特殊ステップとして初めて進めるものなのだ。  と、そういう汗と涙の事情を知らないインデックスは|可愛《かわい》らしく小首を|傾《かし》げて、 「メイドになればいつでもどこでも出かけて良いの? ガッコーにも縛られない? とうまのいるキョーシツに研修行っても|大丈夫《だいじようぶ》なの?」 「いや、メイドさんというのはそういうものじゃー……」 「じゃあ私もメイドになる! そしてとうまのクラスに遊びに行くかも!」 「その|台詞《せりふ》は索敵だけどメイドさんの道は厳しいのだぞー。毎日毎日男にお昼ご飯を作り置きしてもらっているような家庭的スキルゼロの女の子には難しいなー」 「じゃあとうまをメイドにする! そしてとうまに遊びに来てもらうかも!」 「その台詞は素敵すぎて涙が出てくるから|上条当麻《かみじようとうま》には言わないのが優しさだぞー」  むーむー、と暇人少女インデックスは|頬《ほお》を|膨《ふく》らませて高速で体を左右に揺さぶっていたが、 「うん、そうだね。悪いけど、君がメイドになる時間もヤツをメイドにする時間もないんだ」  不意に、白い少女の背後から声が聞こえた。  は? とインデックスの思考が|一瞬《いつしゆん》空白になる。彼女の前にいる|舞夏《まいか》には、インデックスの背後に立つその人物の姿が見えるのだろう。|驚《おどろ》くというより、|怯《おび》えるような色が顔に浮かぶ。 (|誰《だれ》が……)  白いシスターが声に出して振り返ろうとする前に。  大きな手が、彼女の口を粘着テープのように押さえつけた。      2  どこにでもいる平凡な高校生[#「どこにでもいる平凡な高校生」に傍点]、上条当麻は夕暮れの街をとぽとぽと歩いていた。  ドラム缶型の清掃ロボットが彼の横をすれ違い、電柱代わりの風力発電のプロペラが都会カラスを追い払うようにくるくると回っている。オレンジ色の空にはアドバルーンがいっぱい浮かんでいて、その下にぶら下がっている幕は単なる布状の看板ではなく、最新鋭の|超薄型《ちよううすがた》画画だった。『備えあれば|憂《うれ》いなし |大覇星祭《だいはせいさい》の準備 がんばりましょう!————|風紀委員《ジヤツジメント》』とかいう表示が縦長の電光掲示板みたいに下から上へ流れている。  大覇星祭とは言ってしまえば大運動会だ。学園都市は百万人単位の学生を抱えており、それら|全《すべ》ての学校が参加するとなればそのスケールも自然と大きいものとなる。おまけに彼らは皆、何らかの力に|覚醒《かくせい》した超能力者である。さらにおまけのおまけに『能力者同士の大規模干渉のデータ採集を目的とする隠などと学園都市理事会が提唱しているため、この日限りは能力の全力使用が推奨され|普段《ふだん》では見られないような能力者|達《たち》の激突が見られるのだ。例えば彼らのサッカーやドッジボールは、消える|魔球《まきゆう》に燃える魔球、凍る魔球と何でもありだ。  期間中の一週間は学園都市が一般開放され、テレビカメラの中継も入る。普通のスポーツでは絶対に|観《み》られない|馬鹿《ばか》で派手な試合展開はかなりの視聴率を得るらしい。|風紀委員《ジヤツジメント》が大覇星祭の準備に力を入れているのは、そういう理由からだ。学園都市の数少ない全国公開日を使って、少しでもイメージアップしておきたいという|狙《ねら》いもある。対テロ特別警備という名目で、能力開発関連の施設に重点的に|警備員《アンチスキル》などを配置して一般客に見せたくない区画の立ち入りを禁止するという念の入れようだ。 「う、うだー」  と、言うのがこの一週間での周りの声を聞いた限りの話だった。  |上条《かみじよう》はとある事情から|記憶《きおく》喪失になっているため、|大覇星祭《だいはせいさい》の事は知らない。が、どうにも話を聞く限り、相当自分にとって危険度の高いイベントであるのは予測がついた。能力の使用は原則として自由……どころか積極的に使わないと救護班のお世話になるぞ、というのが大覇星祭だ。つまり、事と次第によっては|騎馬《きば》戦などで火の玉や|雷撃《らいげき》や真空刃などが飛び交う恐れもあるのだ。  上条は己の右手を見た。そこには|幻想殺し《イマジンプレイカー》という能力が宿っている。|魔術《まじゆつ》だろうが超能力だろうが、不思議な力が|絡《から》んでいるものなら触れただけで打ち消す事ができる能力だが、これ一つで何十人もの能力者が入り乱れる激戦区へ突撃したいとは思えない。 (……何でまた、自分が|修羅場《しゆらば》になるようなイベントの準備のためにへとへとになるまで働かなくちゃならないんだ……)  その準備にしても、校庭で見物人用のテントを組み立てた所で女体育教師から『ごっめーん♪やっぱテントいらないじゃん』と苦笑いで両手を合わせられたり、テントを片付けた所で女ミニ教師から『あーっ! 何やってるんですか上条ちゃん! テントはやっぱりいるって連絡入りませんでしたかー?』とか怒られたりした。不幸だ、の一言で片付けるには何かが釈然としない。  上条は|無駄《むだ》働きの連続で疲れ切った体を引きずるようにして学生|寮《りよう》に向かっていた。 「あ。そういや冷蔵庫の中、空っぽじゃねーか」  すぐ目の前にスーパーマーケットが見えるが、一度寮に帰らないとお金がない。また行って帰ってこないといけないのか、と上条はぐったりしながら帰路に着く。  安いバスケットシューズは底が硬く、道路を歩くたびに足へ疲れが|溜《た》まっていく。  と、学生寮の入口近くまでやってきた時に、不意に頭上から女の子の声が聞こえてきた。 「あー。かっ、かかかっかっ、上条|当麻《とうま》だ上条当麻ー」  ん? と上条が顔を上げると、七階通路にある金属の手すりから、|土御門舞夏《つちみかどまいか》が上半身を乗り出して右手を振っていた。いつも通り清掃ロボットの上に正座した状態であるため、ものすごくバランスが危うく見える。左手はモップを握り、それで床を突いている。どうも、前進しようとしている清掃ロボットの動きをそれで封じているらしい。 「よ、よよ用事があったの急用があったの。というかお前は携帯電話の電源切ってるだろー」 「?」  言われてポケットの中のGPS機能つきの携帯電話を取り出すと、確かに電源は切れている。ボタンを押して画面を確かめると、|土御門舞夏《つちみかどまいか》からばんばんメールが送られてきていた。  そういえば舞夏の声は間延びしたものだったが、少しその顔が青ざめているようにも見える。  |上条《かみじよう》は首を|傾《かし》げたが、とにかく急いでエレベーターに乗る。  自分の部屋のある七階に到着すると、舞夏はモップの戒めを解放した。清掃ロボットはのろのろした動きでエレベーターへと近づいてくる。いつもインデックスと|一緒《いつしよ》にいるはずの|三毛猫《みけねこ》が、|何故《なぜ》かポツンと通路に座ってぺたりと耳を伏せている。三毛猫はしょんぼりしたままインデックスの持ち物であるはずの〇円携帯電話を|唾《くわ》えていた。  清掃ロボットが上条の前に到着すると、舞夏は再びモップを前方の床へと突き入れ固定し、「|緊急《きんきゆう》事態だ緊急事態だぞ。銀髪シスターが何者かにさらわれちゃったー」 「は?」  上条は思わず声を出した。舞夏は白く青くなった顔で、 「だから|誘拐《ゆうかい》だよ人さらい。通報したら人質殺すって言われたから何にもできなかったの。ごめんなー上条|当麻《とうま》」  銀髪シスターというのはインデックスだろう。舞夏が冗談を言っているようにも見えない。そして、インデックスには誘拐される理由などいくらでもある。  彼女は一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を頭に|記憶《きおく》している魔道書図書館だ。世界中の|魔術師《まじゆつし》はその知識を欲しているし、現に一度、それが目的で八月三一日に誘拐|騒《さわ》ぎが起きている。 「ちょっと待て。何がどうなったか、順番に説明してくんないか?」  聞いてみると、舞夏はぽつりぽつりと説明を始めた。  舞夏が学生|寮《りよう》に『研修』でやってきたのは二時間前。そこで掃除をしていた所、七階通路で暇そうにしていたインデックスと出会って、世間話をしていたらしい。その世間話に割り込むように、突然インデックスの背後から|誰《だれ》かが彼女の口を|塞《ふさ》いで、連れ去ってしまったとか。 「去り|際《ぎわ》に、誘拐犯が封筒を渡してきたのー。そこに色々書いてあって……」  ダイレクトメールに使われるような、横に細長い封筒を舞夏は手渡してきた。彼女の声は、多少以上に|震《ふる》えていた。単なる恐怖だけでなく、自分が何もできなかった事に対して負い目があるのだろう。  上条は一度だけ封筒に目を落としてから、 「いや、|闇雲《やみくも》に動いて下手に状況悪化させるよりずっとマシだよ」  その言葉は舞夏を安心させるためのものだったが、彼女は余計に困ったような表情を浮かべた。ジリジリと肌を焼くような緊張感は、普通に学校生活を送っているだけではあまり縁がないのだから無理もない。 「そんで、その|馬鹿《ばか》野郎はどんな感じのヤソだった?」  舞夏はちょっと考えるように頭上を見上げてから、 「うーん。まず身長が一八〇センチを超えててなー、白人さんっぼかったぞ。でも日本語は上手だったし、見た目だけでどこの国の入かまでは分からなかった」 「ふんふん」 「それで神父さんみたいな格好でなー」 「ふん?」 「神父のくせに香水臭くて、肩まである髪が真っ赤に染まってて、両手の十本指には銀の指輪がごてごて付いてて、右目の下にバーコードの|刺青《タトウー》が入ってて、くわえ|煙草《タバコ》で耳にはピアスが満載だったー」 「……、おい。すっごく見覚えあるぞ、その腐れイギリス神父」  |舞夏《まいか》は『?』と首を|傾《かし》げる。|上条《かみじよう》は改めて封筒を調べた。中には一枚の|便箋《びんせん》が入っている。  そこには、定規を使って書いたようなシャーペンの字で、 『上条|当麻《とうま》 彼女の命が惜しくば 今夜七時に 学園都市の外にある 廃劇場『|薄明座《はくめいざ》』跡地まで 一人でやってこい』  とか書かれていた。 「……。今時、定規で筆跡隠しかよ」  今日び、定規で筆跡を隠した程度で身元が割れないと本気で考えているのだろうか。CDの表面をレーザー光で読み取る技術を応用した、個人差のある細かい『指先の|震《ふる》え』を文字の溝から調べる|鑑定《かんてい》方法もあるし、何より学園都市には|読心能力者《サイコメトラー》なども珍しくない。  本人は|真面目《まじめ》にやっているつもりだろうが、ここまで来ると|狙《ねら》って笑いを取ってんのかと上条は少し|呆《あき》れてしまう。 (ナニ考えてんだか。一足遅い夏休みでももらって遊びにきたのかあの|馬鹿《ばか》)  舞夏の話をまとめる限り、インデックスを連れ去ったのは彼女の同僚のステイル=マグヌスだと思う。が、彼がインデックスの命を|脅《おびや》かす事など絶対にないはずだ。むしろ、彼女を守るためなら敵地だろうが|要塞《ようさい》だろうが迷わず|突撃《とつげき》するような人間である。  |緊張感《きんちようかん》が一気に|削《そ》ぎ落とされた。  こうなってくると、本気で落ち込んでいる舞夏があまりに無残すぎる。 「あー、|大丈夫《だいじようぶ》だぞ舞夏。多分この犯人は|俺《おれ》やインデックスの知り合いだ。だから心配しなくても———」 「は、犯人は知り合いだったのか!? 動機は|歪《ゆが》んだラブなのかー?」 「あ、え? いや、そういう意味じゃねーんだけど……。でも歪んだラブはありそうだな」  余計に顔を真っ青にする舞夏を見ながら、上条はため息をつく。  封筒を振ると、中からさらに折り畳まれた紙切れが出てきた。広げてみると、それは学園都市の外出許可証と関連書類だった。すでに必要事項は記入済みだ。一体どこでこんなの手に入れたんだろう、と上条は首をひねる。確かにこれがあれば堂々と正面から学園都市の外へ出られるが、入手するには一定のステップを|踏《ふ》まなければならないはずなのに……。  |上条《かみじよう》は脅追状の|馬鹿馬鹿《ばかばか》しさと、それに反比例して妙に手の込んだ準備に|呆《あき》れ返る。  しかし、本当にあの神父は何を考えているんだろうか?      3  廃劇場『|薄明座《はくめいざ》』の跡地は学園都市からほんの一キロほど離れた場所にある。  |潰《つぶ》れてから三週間も|経《た》っていないからか、建物には傷んだような場所は見当たらない。内装の調度品が片付けられているためガランとしていて、掃除もしていないのでそこかしこにホコりが積もっているが、まだ『|廃嘘《はいきよ》』という感じはしなかった。きちんと掃除をして調度品を再び持ち込めば、すぐさま活気を吹き返しそうな印象すらある。  イメージするなら『冬眠している建物』という感じだろう。もしかすると、取り|壊《こわ》さないで次の買い手を探している状態なのかもしれない。  インデックスとステイルは何もない舞台の上にいた。舞台・観客席をワンセットとした、体育館ほどの広さを持つ大ホールには窓がなく、照明器具も取り外されているため、光源は開け放たれた五つの出入り口から差し込む夕暮れの光しかない。  |薄夕闇《うすゆうやみ》に落ちる舞台の上で、インデックスは女の子座りしていた。  むっすー、と。彼女はほっぺたを|膨《ふく》らませて、 「|卑怯者《ひきようもの》」 「返す言葉はないし、必要もないかな」  ステイル=マグヌスは少女の敵意ある視線に|一瞬《いつしゆん》だけ|怯《ひる》みかけたが、決してそれは表に出さない。くわえ|煙草《タバコ》の先に|点《つ》いた火が、薄闇の中でゆっくりと上下する。白い煙は揺らいで流れ、『禁煙』と書かれた|壁際《かべぎわ》の表示板を|撫《な》でては消えていく。 「大体状況は分かってもらえたと思う。もう一度説明が必要か、とは問わないよ。君の|記憶力《きおくりよく》を考えれば、二度繰り返す事に意味などないだろうからね」 「……イギリス清教の、正式な|勅命《ちよくめい》」  インデックスはここに連れて来られてから受けた説明を、もう一度思い出す。  |誰《だれ》にも解読できないはずの『法の書』を解読できる人間が現れたという事。  その者の名はオルソラ=アクィナスという事。 『法の書』を解読すれば、十字教のパワーバランスを崩す『天使の術式』を手に入れられるかもしれない事。  その『法の書』とオルソラが、日本へやってきた折に何者かにさらわれた事。  犯人は天草式十字|凄教《せいきよう》らしき事。  ローマ正教の人間が、『法の書』とオルソラの救出を目的に活動を始めている事。  そして元・天草式トップであり現在はイギリス清教に所属している|神裂火織《かんざきかおり》との連絡が取れなくなり、|不穏《ふおん》な動きが予測される事。  イギリス清教は表向きローマ正教に協力するという形で本件に|関《かか》わるが、最優先事項は神裂火織が余計な|真似《まね》をする前に問題を片付けるのだという事。 「その正式な『お仕事』に、一般人のとうまを巻き込む訳?」 「実は僕も何で巻き込まなくちゃいけないのか少し疑問でね。まあ、上のご指名というヤツさ」ステイルは|煙草《タバコ》の端をゆらゆら揺らし、「その上、これでも僕|達《たち》は難しい立場にいてね。 学園都市所属の|上条当麻《かみじようとうま》ヘストレートに協力を求めると『科学サイドが|魔術《まじゆつ》サイドの問題に首を突っ込んだ』とみなされかねない。あくまで学園都市内部で起きた問題なら『自衛』と言えば苦しい言い訳にはなっただろうけど、今回は違う。彼が首を突っ込むためには、それ相応の動機付けが必要となった訳だ」  そのための、|誘拐《ゆうかい》。  つまり、上条は『法の書』やオルソラなどは関係なく、あくまで『さらわれたインデックスを助けるために』学園都市の外に出てくる事になる。そこで『たまたま』天草式の人聞と出会ってしまい、仲間であるインデックスを助けるためにやむなく戦う羽目になった、というのが大義名分となる。  当然ながらインデックスは魔術サイドの人間だが、現在、学園都市とイギリス清教の間でいくつかの取り決めがされていて、彼女の身柄は一時的に学園都市が預かる事になっている。学園都市に住む上条当麻が、そこに預けられたインデックスを助けてもおかしくない。 「大体話は分かったけど、やっぱり納得はできないかも」 「そうかい?」 「うん。こんな回りくどい事しなくたって、とうまは『助けて』って言ったら助けに来てくれるもん。どんなに危ない場所でも絶対来てくれるから、逆に|頼《たの》みづらいんだけど」 「……、そうかい」  ステイルは小さく笑った。  幼い娘が好きな男の子の話をしてきた時の父親のように、小さく笑った。 「それで、これからどうするの? 『法の書』とオルソラ=アクィナスは天草式の手に落ちてるんだよね。だったら、天草式の本拠地まで行くっていうの?」  少女の声に真剣味が宿る。それは、上条当麻が関わる以上、彼の危険を少しでも軽減させるために情報を集めておきたいという気持ちによるものだろうか。 「いや、状況は少し変わってる」ステイルは苦そうに煙を吐いて、「つい一一分前に、ローマ正教と逃走中の天草式が激突したらしい。オルソラ救出戦だね」  インデックスは目を細める。  通信用に使っているのは煙草の煙だろう。何度か細い煙に魔力がまとわりつくのをインデックスは見ているし、そのたびに白煙は風もないのに不自然な揺れ方をした。|狼煙《のろし》は洋の東西を問わずあらゆる地域・時代で使われてきた遠隔通信手段であり、彼女の頭の中にも狼煙を使った古今東西の術式がいくつも収められている。 「それで成功したなら、私がここにいる必要はないはずなんだけど」 「その通りだ。が、明確に失敗した訳でもないよ。双方共に死者は出なかったが、どうも乱戦になったらしい。『法の書』の方は知らないが、オルソラはその|隙《すき》を突いて逃げ出したそうだ」 「? ローマ正教の方にも戻っていないの?」 「そういう事になるね。現在行方不明だから、再び天草式の手に落ちる危険性もある」 「……、それはまずいかも」  人質が抵抗すれば暴力で|黙《だま》らせるのが|誘拐犯《ゆうかいはん》というものだ。まして『逃亡』した後にもう一度捕まったとなれば、反抗心を|削《そ》ぐために何をされるか分かったものではない。  そうなると、こんな所でじっとしている暇はない。今もローマ正教と天草式は逃げたオルソラの捜索・争奪戦を繰り広げているはずだ。 「できれば|上条当麻《かみじようとうき》にも急いで欲しいものだが、今さら書き置きの命令内容を変更する事もできないしね。ローマ正教側からの協力者が来る前に彼とは合流したかったが……」  ステイルが言った時、開けっ放しだった大ホールの出入りロの一つに、人影が現れた。 「……残念ながら、僕|達《たち》も彼を待たずして動き始めなきゃならないみたいだ」  その人影は、ローマ正教側の協力者だった。      4 「なんか最近、結構街の外に出てるよなー。……できればのんびり見物してみたいもんだけど」  |上条《かみじよう》は学園都市の『外』———外壁沿いの道を歩きながら|眩《つぶや》いていた。外壁の高さは五メートル以上と高く、幅も三メートルと厚い。 (しかしまぁ、|大覇星祭《だいはせいさい》の準備期間中ってやっぱ警備が甘いのかもな)  上条は遠く離れた出入り口をチラリと振り返る。二三〇万もの人間が参加する大覇星祭はその準備のスケールも大きく、街の外からもたくさんの業者が出入りする。|普段《ふだん》は警備の厳しい学園都市だが、今だけは甘くせざるを得ない[#「今だけは甘くせざるを得ない」に傍点]状況なのだ。上条は外出用の書類を持っているのだが、そのチェックもいつもよりぞんざいだったような気がする。  そんなこんなで、|三毛猫《みけねこ》を|土御門舞夏《つちみかどまいか》に預けた上条は街の外を歩いていた。  時計を見ると、午後六時過ぎ。約束の時刻までまだ一時間近くある。  問題の『|薄明座《はくめいざ》』だが、場所を特定するのに手間取った。携帯電話のGPSマップには、|潰《つぶ》れた建物の名前は載っていなかったのである。情報更新が早すぎるのも考えものだと上条は思った。そこでコンビニの棚で|色槌《いろあ》せていた『更新の遅い』東京の観光ガイドの本を買って調べようと思ったのだが、ポケットを探ると財布がない。どうも|舞夏《まいか》と話したすぐ後に街の外へ出てしまったため学生|寮《りよう》にある財布を取り忘れたのだと気づいた|上条《かみじよう》は、店員さんが少し引いてしまうぐらい両目を見開いて立ち読みに|徹《てつ》する事にした。 (ええっと、あっちの道を歩いてそっちの大通りを渡って……ううっ! い、今すぐこの場で全部忘れそうだ。インデックスは一体どんな頭をしてやがんだ……〉  ぼんやりと考えながら、上条はすぐ近くにあるバスの停留所を見た。 。待ち合わせ場所である『|薄明座《はくめいざ》』跡地は一キロほど離れた地点にある。放課後でへとへとという事も考えれば冷房の効いたバスに乗って向かいたい所だが、|生憎《あいにく》と持ち合わせがない。 (ちっくしょー……あー、バスで行く行かないより冷房の効いたトコに入りたい)  停留所は小さく、ベンチが二つと|雨除《あめよ》けの屋根がついているだけだった。ただし老朽化が進んでいるのか、プラスチック製の屋根は所々がバキバキと割れていた。  と、その停留所に|誰《だれ》かがいる事に気づいた。  外国人らしい。上条と同じぐらいの身長の少女だ。彼女は時刻表のくっついた停留所の看板を、超近距離から食い入るように眺めている。そのままピタリと動きが止まっている所を見ると、読み方が分からないのかもしれない。  服装は何を考えているのか、この猛暑の中で真っ黒な修道服だった。当然、|長袖《ながそで》長スカートである。良く見ると、服の肩口やスカートの|膝上《ひざうえ》二〇センチの高さで横一線するように銀色のファスナーがついていて、袖やスカートは着脱式になっているらしいが、彼女は|馬鹿《ばか》みたいなフル装備だった。両手は白色の|薄《うす》い手袋に|覆《おお》われ、髪も見えなかった。インデックスがつけているようなフードの|他《ほか》に、頭全体を覆い隠すようなウィンプルが完全に髪を隠していたのだ。布一枚で簡単に髪を隠せるという事は、おそらくショートカットなのだろう。  上条は彼女の様子を横目で見ながら、 (む、シスターさんだ。……まさかインデックスの知り合いのジェノサイド修道女とかじゃあるまいな)  世界中のシスターさんが猛抗議してきそうな偏見だが、上条はこの夏休みだけでもステイルだの|土御門《つちみかど》だのといった面々にとんでもない目に|遭《あ》わされている。上条としては、ヘンテコな修道服を着た女の子には警戒せよという感じなのだが、 「あのー……」  シスターさんの方から話しかけられた。とてつもなく|丁寧《ていねい》な日本語で語り始める。 「恐れ入りますが学園都市に向かうためには、このバスに乗ればよいのでございましようか?」  丁寧な上にヘンテコだった。  上条は立ち止まって、改めてシスターさんの方を振り返った。顔以外の全部の肌を隠しているシスターさんだが、逆に盛り上がった胸やくびれた腰が浮いている(というか見ようによってはわざと強調させているようにも感じる)、奇妙な人だった。 「いや、学園都市行きのバスはねえよ」 「はい?」 「だから、学園都市は『外』との交通機関を切断しちまってんの。つまりバスも電車も通ってない。乗り入れ契約してるタクシーなら入れるけど、普通に歩いていった方が安上がりだぞ」 「そうでございますか。それであなた様は徒歩で学園都市から出てきたのでございますね」  シスターさんがすらすら言うので|上条《かみじよう》は振り返ってみたが、ここからではゲートは見えない。 改めてシスターさんの方を見ると、彼女は|袖《そで》の中からごそごそと何かを取り出した。安っぽいオペラグラスだ。こちらで確認したのでございますよ、とシスターさんは笑って言う。  と、ボロボロの停留所に合わせたようなオンボロのバスがやってきた。  炭酸の抜けるような音と共に、バスの自動ドアが開く。 上条はバスに乗る気はないので停留所から少し離れる事にした。シスターさんの方を振り返りながら、 「とにかくバスに乗っても学園都市には行けねえから。許可証持ってるならそのまま歩いてゲートへ行けばいいよ。多分七、八分ぐらいで着くと思うけど」 「これはこれは。お忙しい中、ご助言いただき、まことにありがとうございました」  |漆黒《しつこく》のシスターさんはにこにこと笑いながらぺこりと頭を下げて———  ———そのままバスに乗り込んでしまった。 「って、おい!バスに乗っちゃ|駄目《だめ》だっつったろ五秒前に!」 「あ、はい。そうでございましたね」  |停《と》まっているバスから長いスカートを両手で|摘《つま》んでいそいそと降りてくるシスターさんに上条は、 「だからな。学園都市は『外』との交通機関を切断してるんだよ。だからバスも電車も|繋《つな》がってないの。街に入りたければ歩いてゲートへ行って来い。分かったか?」 「確かに。すみません、何度も何度もご迷惑をおかけしてしまって」  苦笑いと共にシスターさんは上条にぺこりと頭を下げつつ、彼女はそのままタラップを|踏《ふ》んでバスの中へと吸い込まれていく。 「こらぁ!! テメェこっちの説明を笑顔で全部聞き流してんだろ!?」 「え? いえ、決してそのような事はございませんよ」  再びいそいそとバスから降りてくるシスターさん。運転手は迷惑そうな顔のままバスの自動ドアを閉め、乱暴にバスを発進させていった。  ぽけーっとバスの後ろ姿を見送っているシスターさんを見て、上条は猛烈に心配になってきた。目を離したら一〇分で迷子になりそうな気がする女の子なのだ。  が、シスターさんはそうした上条の|危惧《きぐ》など一切気づいていない様子で、 「おや、何かイライラしているように見えるのでございますね。|飴玉《あめだま》などはいかがでございましようか?」 「いや別にイライラしてねーけど。|飴《あめ》? 何これ、オレンジ味?」  なし崩し的にオレンジ色の飴玉を受け取ってしまった|上条《かみじよう》は、まさか捨てる訳にもいかないので適当に口の中に放り込んでみる。  と、 「にっがぁ!? 何だこれ、明らかにオレンジじゃねえ!」 「はぁ。|渋柿《しぶがき》キャンディだそうでございます。詳しい話は良く分からないのでございますが、|喉《のど》が渇かなくなる効果があるとか」 「……。あー、それ|唾液《だえき》が出やすいからな。でもこの炎天下で元々体の中に水分が少ない場合は何の意味もないから」 「まぁ。水分が足りていないのでございますか。それならそうと言っていただければ、お茶の用意はございますのに」 「何で修道服の|袖《そで》の中から|魔法瓶《まほうびん》が出てくるのかとかもう聞かなくていいや。そっちはホントにありがたいかも。中身は何なの?」 「麦茶でございますよ」 「おっ、もらうもらう」  上条は素直に喜んだ。やっぱり真夏にはキンキンに冷えた麦茶ですなー、と適当な感想を浮かべつつシスターさんから魔法瓶のフタ兼カップを受け取って、 「——って熱う! 何で麦茶なのに|沸騰《ふつとう》してんだ!?」 「はぁ。確か、熱い時に熱い飲み物を用意するのがこの国の|嗜《たしな》みでございましよう?」 「おばーちゃん? そうか、おばーちゃんだな! さっきから何か言動が怪しいと思ってたらおばーちゃん的思考回路の持ち主なのか!?」  上条は叫ぶが、シスターさんはにこにこと善意の笑みを浮かべるばかり。  今さらカップに注いでもらったお茶を捨てる訳にもいかず、上条はぶるぶる|震《ふる》えながらマグマのようなお茶を飲み干していく。 「……、さんきゅー。あとそれから、ちょっと質問するけどさ。シスターさんは学園都市に行きたいって言ってたよな?」 「はい、はい」 「えっと、さっきも言ったけど、街が発行してる許可証はちゃんと持ってんのか?」 「許可証、でございますか?」  案の定、きょとんとした顔だった。学園都市のグートを通るには、街が発行する許可証がいる。理由はわざわざ説明するまでもないだろう。  そう伝えると、シスターさんは困ったように|頬《ほお》に手を当てて、 「その許可証というのは、どこでもらえばよろしいのでございましょうか?」「……、ごめん。一般の人はどんな努力をしても発行してもらえないぞ。街の生徒の肉親とか、商品・資材の搬入のための業者とかなら可能性はあるけど、それでも審査はあるし」 「はぁ。それでは、もう|諦《あきら》めるしかないのでございますね」  シスターさんはしょんぼりと肩を落とした。が、しつこく食い下がる様子がない所を見ると、別に必ず学園都市へ行かなければならないという訳でもなさそうだ。 (でもこればっかりはどうしようもないしなぁ……)  |上条《かみじよう》はちょっと罪悪感に駆られたが、ふとシスターさんが『それでは』と言って学園都市のゲートの方に向かって歩き出している事に気づいた。 「だからァああああ!! 許可証がなきゃ街に入れないって……聞けよテメェは!!」  言われてみれば、という感じでシスターさんは立ち止まって振り返る。  ついさっきまでほのぼのと笑っていたくせに、シスターさんの顔がみるみる|曇《くも》っていく。  何かものすごく困ったような顔をするシスターさんに、上条は思わず|怯《ひる》みかける。実は許可証がなくても、|魔術師《まじゆつし》なんかは無礼講でポンポン壁を飛び越えたりするのだが、このシスターさんにはそんなスキルはなさそうだ。  と言っても、この場で上条からシスターさんにしてやれる事はない。学園都市へ入るには、とにもかくにもまず許可証が必要なのである。それにインデックスの件もある以上、あまりこんな所で|無駄《むだ》に時間を使っている余裕もない。指定の時間に指定の場所へ行けなくなる事態だけは|避《さ》けなければならないのだが。 「なぁ。お前はどうして学園都市に行きたいんだ?」  はぁ、とシスターさんはちょっと首を|傾《かし》げて、 「実は私、追われているのでございます」  と言った。  上条は、周りの温度が少し下がるのを感じた。 「追われ……?」 「はい。ちょっとしたいざこざがありまして、ただいま絶賛逃亡中なのでございます。学園都市は教会諸勢力の手が及ばない所だとお聞きしているので、できればそこへ逃げ込みたかったのでございますが」 「教会……。なぁ、それってもしかして魔術師|絡《がら》みなのか?」  上条が言うと、シスターさんはびっくりした顔で、 「|何故《なぜ》、魔術師の存在を認めているのでございましょう?」 「その反応は、ビンゴって事か」上条はため息をついて、「学園都市、か。本気でお前が追われてるんだとしたら、街に入った程度じゃ|完壁《かんペき》とは言えねーぞ。っつか、それぐらいじゃ気合入ってるヤツはバンバン侵入してくるし」  インデックスという少女を取り巻く環境を知っている|上条《かみじよう》としては、学園都市の中に逃げ込んだ程度で|魔術師《まじゆつし》が引き下がらないのは嫌というほど理解している。 「それでは、どうすれば———」  シスターさんはやや泣きそうな顔になる。上条としても魔術師と呼ばれる人々がどれだけ危険かは何となく知っているつもりなので、このまま放っておくのは気が引けるのだが、 「———バスの路線図を読む事ができるのでしようか?」 「何個前の話題だよ! しかも路線図ってなんか新ワードが追加されてるし! 学園都市に入る入らないの話はどこ行った!?」  上条は叫ぶ。  キョトンとした顔の、言動が巻き戻されるシスターさんに上条は本気で頭を抱える。  シスターさんが本当に魔術師に追われているなら、ここで無視するのはまずいと思う。とはいえ、上条の方にも悠長にしていられない事情がある。|誘拐《ゆうかい》された(らしい)インデックスが心配だ。どうにも|胡散臭《うさんくさ》い話ではあるが、かと言って|流石《さすが》にそのまま無視する訳にもいかないだろう。どっちか片方を切り捨てるなんてやりたくないし、あーもうどうすれば良いんだッ!! と上条は頭を|掻《か》き|雀《むし》ろうとした所で、ふと気づいた。 (あれ。……、じゃあシスターさんと|一緒《いつしよ》にインデックスの所に行けば良いんじゃ?)  名案だと思った。  脅迫状には一人で来いとか書かれてた気はするけど。      5  ステイルとインデックスは|薄明座《はくめいざ》の大ホールから出て、元はチケット売り場だったらしきロビー跡地を歩いていた。  彼らの少し前を、|漆黒《しつこく》の修道服を着た少女が先導していた。 |歳《とし》はインデックスより一、二歳幼いぐらいで、髪は赤みの強い茶髪———いわゆる赤毛で、エンピツぐらいの太さの三つ編みがたくさんある髪型だった。着ている修道服は指先が隠れるほどの|長袖《ながそで》なのだが、それに反してスカート部分は|太股《ふともも》が見えるほど短い。見ると、スカートの縁にファスナーのようなものがついていた。どうも、着脱式のパーツを外した状態にあるらしい。かなり細い方に入るインデックスよりも、さらに腰が細い少女だ。  身長はインデックスと同じ。だが、パカパカと馬みたいな足音の元を|辿《たど》ると、彼女の足には三〇センチもの高さのコルクの厚底サンダルが|履《は》かれていた。一七世紀のイタリアで|流行《はや》った、チョピンと呼ばれる|代物《しろもの》だ。  彼女はローマ正教のシスターで、 その名を、アニェーゼ=サンクティスと紹介した。 「状況はもうメチャクチャ。情報も|錯綜《さくそう》しちまってオルソラはどこへいったのやら、って感じですか。『法の書』の方も確保したって情報は上まで上がってきやしませんし、こっちもヤバめな感じですよ」  この場に日本人はいないのだが、アニェーゼは|流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。 「一応、さらわれちまったオルソラを輸送してた天草式への|奇襲《きしゆう》は成功って事になんですけどね。ウチの|誰《だれ》かがオルソラを救出したはいいものの、そいつが本隊に合流する前にまた天草式にかっさらわれちまったんです。それで彼女を再び取り戻すと、さらに天草式の別働隊にかっさらわれて……ってな感じの繰り返し。索敵の包囲網を広げすぎたのが|仇《あだ》んなりましたね。総合的な人数が多くても、一部隊一部隊の人数が少なくなっちまってたんで、そこを付け込まれました。そんなこんなで何度も何度も何度も何度も奪還・強奪を繰り返してる内に、いつの間にか追っかけてたはずのオルソラがどっかに消えちまってたって訳なのですよ」  アニェーゼの敬語は粗雑さと|丁寧《ていねい》さが同居していた。仕事中に実地で学んだとしたら、彼女は日本の刑事や探偵などと会話する内に言葉を覚えたのかもしれない。  と、そんな事を考えていたステイルに、アニェーゼはくるりと振り返る。短いスカートがひらりと舞って、白い|太股《ふともも》が|一際《ひときわ》大きく|露《あらわ》になる。 「何か? ああ、すいませんね。|英国語《クイーンズ》もできるんですが、どうしてもイタリア語のなまりが残っちまうのですよ。普通ならあんま気にしないんですけど、相手がイギリス人の場合だけは例外という事でお願いいたします。言葉は地元の方には|敵《かな》いませんからね」  ステイルは特に気にした様子もなく口元の|煙草《タバコ》を揺らしながら、 「いや、別に気にしていないよ。何ならこちらがイタリア語に合わせても構わないけど」 「それはやめてください。イギリスなまりの母国語なんて聞いちまったら吹き出しちまって仕事になりません。こういうのは、共通の外国語である日本語を使うのがいんですよ。お互いに言葉遣いが変なら[#「お互いに言葉遣いが変なら」に傍点]ケンカになんないですから」  ぱかぱか、とアニェーゼの厚底サンダルが馬の足みたいな音を出す。  確かに一理あるのだが、彼女は|この国のジヤパニ住人《ーズ》には何語で話しかけるつもりなんだろうか、とステイルはいらぬ心配をした。そもそも現地の人に使えないのならその国の言葉を覚える必要はどこにあるのか疑問だが。  インデックスはさっきから|黙《だま》ったまま、一言も声を発しようとしない。  むっすー、と。ご機嫌斜めにつき|沈黙《ちんもく》中、という少女の顔をステイルはチラリと見て、それから再びアニェーゼの方へと視線を戻す。 「それで、治宅から『法の書』とオルソラ=アクィナスを拝借したっていう天草式だけど、君|達《たち》にとってそれほど脅威的な勢力なのかな」 「そりゃ言外に『ローマ正教は世界最大宗派のくせに』って言ってますね。いや実際、返す言葉はありませんよ。数や武装ならこちらが上なんですけどね、連中は地の利を生かして引っかき回しやがるのですよ。|日本《ここ》はヤツらの庭ですから。数字の上で不利なはずの相手に手傷を負わされるってのは結構頭にきちまうんですがね。悔しいですが、ヤツらは強いです」 「……、となると、簡単には屈しないって訳か」  ステイルの声はわずかに苦い。 『武力を見せつけて言葉でねじ伏せる』というのが最速かつ平和的な解決方法だと思ったが、相手が交渉に応じない程度の戦力を持つとなれば、後は泥沼の戦いを行うしかない。  天草式との|戦闘《せんとう》が長引けば長引くだけ、|神裂《かんざき》が横から首を突っ込んでくる危険性は高まる。 こうなったら|半端《ほんぱ》な容赦は|全《すべ》て捨て、彼女に勘付かれる前に|電撃《でんげき》戦で天草式を一気に撃破した方が、話はスムーズに進むかもしれない。  ローマ正教の目的は『法の書』及びオルソラ=アクィナスの救出であって、天草式の|殲滅《せんめつ》ではない。目的のものさえ戻れば、ローマ正教はそこであっさり手を引くだろう。  後はいかにして、天草式の戦意を失わせるかだ。 「僕は日本の十字教史には|疎《うと》いから良く分からないんだけど、天草式の連中はどんな術式を使うか分かるかな。それによって、探索や防御のための陣や符を用意できるかもしれない」  ステイルは今まで元・天草式の神裂と行動を共にしていたが、彼女の術式を分析しようという気にはなれなかった。何せ相手は世界で二〇人もいない『聖人』だ。仮に解析できたところで常人である彼に利用できるものではない。どんな人間でも、長さが五〇センチしかない定規で太陽と地球の距離を測ろうとは思わないだろう。  神父に質問されたアニェーゼも困ったように、 「実は……こっちも正確には天草式の術式は解析できちゃいないんです。ザビエルの|耶蘇《イエズス》会が元になってんならヤツらもローマ正教の傍流という事になるんでしょうが、もはや|匂《にお》いも残っちゃいません。チャイニーズやジャパニーズなど|東洋系《オリエンタル》の|影響力《えいきようりよく》が強すぎるんです」  それを聞いても、ステイルは特にアニェーゼを責めたりはしない。昨日の今日ぶつかっただけで仏教や神道が混ざっている事を|掴《つか》めただけでも、まあ上々の分析力と言えるかもしれない。  ステイルはアニェーゼからインデックスへ意見を求めるように、視線を移す。  こういう場面では、軽く常人の一万倍以上もの知識量を誇る彼女の|独壇場《どくだんじよう》だ。  純自のシスターはさも当然と言った口ぶりで、 「天草式の特徴は『|隠密性《おんみつせい》』だよ。母体が隠れキリシタンだからね。十字教を仏教や神道によって|徹底的《てつていてき》に隠して、|儀式《ぎしき》と術式を|挨拶《あいさつ》や食事や仕草や作法の中に隠して、天草式なんてものは初めから存在しなかったように|全《すべ》ての|痕跡《こんせき》を隠し通すの。だから天草式はあからさまな|呪文《じゆもん》や|魔法陣《まほうじん》を使わない。お皿やお|茶碗《ちやわん》、お|鍋《なべ》や包丁、お|風呂《ふる》やお|布団《ふとん》、鼻歌やハミング……こうした一見どこにでもある物を使って|魔術《まじゆつ》を行うんだよ。多分、プロの魔術師でさえ天草式の儀式場を|覗《のぞ》いた所で正体は分からないと思うよ。だって、普通の台所とかお風呂場にしか見えないはずだもん」  ステイルは口の端の|煙草《タバコ》をゆっくり上下させ、 「となると、偶像のスペシャリストといった所かな。ふむ、近接|格闘戦《かくとうせん》より遠距離|狙撃戦《そげきせん》の方が得意そうだね。グレゴリオの聖歌隊のような大規模なものでない事を祈りたいけど」 「ううん。天草式は|鎖国《さこく》時にも諸外国の文化を積極的に取り入れていて、洋の東西間わず様々な剣術を|融合《ゆうごう》させた独自の格闘術も身に付けているの。彼らは日本刀からトゥヴァイハンダーまで何でも振り回せると思う」 「……、文武両道か。面倒な連中だ」  ステイルは|忌々《いまいま》しげに吐き捨てた。ちなみにいつの間にか会話の輪の外に追いやられたアニエーゼは|爪先《つまさき》でロビーの床を軽く|蹴《け》っていじけ虫になっている。床を蹴るたびにいちいち短いスカートがひらひらと揺れた。ぱかんぱかん、と少し間の抜けた足音が|響《ひび》く。  煙草を|唖《くわ》えた神父はアニェーゼの方へ振り返り、 「それで、『法の書』及びオルソラ=アクィナスの捜索範囲はどこまでなのかな。僕|達《たち》ものんびりしていられないだろう。どこを捜せば良い?」 「あ、はい。捜索はこちらで行ってんで|大丈夫《だいじようぶ》です」  話題の中心に戻ってこれて、アニェーゼは少し慌てたように姿勢を正し、 「入海戦術はウチの専売特許でね、今も二五〇人体制でやってます。今さら一人二人増えた所で何も変わりやしませんし、命令系統が違うんでかえって混乱しちまう恐れもありますんでね」 「……? それなら、どうして僕|達《たち》はここに呼び出された?」  ステイルがわずかに|眉《まゆ》をひそめると、アニェーゼは口の端を|吊《つ》り上げて笑い、 「簡単ですよ。ウチらに調べらんないトコを調べて欲しいんです」 「例えば? 日本にイギリス清教が直接管理する教会などない。僕達に断らなければ探索できない場所など、せいぜいイギリス大使館ぐらいのものかな」 「いいえ、学園都市ですよ」アニェーゼはパタパタと片手を振って、「場所柄を考えれば、ありえん話じゃないでしょ。オルソラが学園都市に逃げ込んじまえば、天草式は彼女を追えません。いや、追いづらい、ぐらいかもですね。だからあなた達には学園都市へ連絡を入れて欲しんですよ。ウチらローマ正教は学園都市との|繋《つな》がりがないんで面倒ですし」 「確かに……。しかし、それなら前もって教えてもらえると助かったかな。ちょっと昔の僕に良く言って聞かせてやりたい気分だよ」  インデックスが学園都市に預けられている事から分かる通り、学園都市とイギリス清教は細い糸で繋がっている。せいぜい国交のようなものが「ある』か『ない』かぐらいの意味しか持たないが、全く『ない』ローマ正教よりは一応『ある』イギリス清教が連絡を入れた方が波風は立たないだろう。 「……けれど、だとすれば面倒な所へ駆け込まれたもんだ」 「あくまで可能性の話なんで。我らがオルソラ|嬢《じよう》に、そんぐらいの分別がつく心の余裕があんのを祈りましょう。で、連絡っつか確認にはどんぐらいの時間かかります?」 「ああ、電話一本……とはいかないか。一度、|聖《セント》ジョージ大聖堂の方へ連絡を入れて、そこから中継して学園都市ヘラインを繋がなくてはならないから……|緊急《きんきゆう》と言っても七分から一〇分はかかるかもしれないね。ちなみに学園都市への侵入許可となるとさらに面倒になる。技術的に忍び込むのは可能なんだが、役所的に考えるとそれは|避《さ》けたい所だしね」 「とりあえず確認だけでいんで、もちっと早くしてもらえっと助かりま———」  言いかけた所で、不意にアニェーゼの動きが止まった。  彼女の視線を追うと、ロビーの先には建物の出入りロがある。ガラスでできた両開きのドアが五つも並んだ、大きな入場口だ。 「何だ? 一体どうし———」  ステイルは問い|質《ただ》そうとした所で、やはり彼の動きが止まる。 「?」  最後にインデックスが二人の視線を目で追い駆けた。  ガラスの入場口のさらに向こうには、元は駐車場に使われていた、アスファルトの広場がある。建物の大きさに反して、極端に小さな空間だった。今では固められた地面の|隙間《すきま》からたくましい雑草が伸びている以外は何もないはずなのだが———何もないはずの駐車場跡地に、何かがあった。  というより、|誰《だれ》かがいた。 「あ、とうまだ」  インデックスは見慣れた少年の名前を告げて、 「お、るそら=アクィナス?」  アニェーゼは、少年の|隣《となり》を歩いている|漆黒《しつこく》のシスターの名前を言った。  名を呼ばれた彼らは、まだ|薄明座《はくめいざ》の中にいる|魔術師達《まじゆつしたち》の存在に気づいていないようだった。      6  少しだけ時間は|遡《さかのぽ》る。  夕暮れの涼しい時間帯とはいえ、|上条《かみじよう》は夏場に三キロの徒歩という重労働を|馬鹿《ばか》にしていた。 (れ、冷静に考えたら今日は体育とか色々あってへとへとなのでした……)  財布を|寮《りよう》に忘れっ放しの上条には、当然ながら移動手段など徒歩しか残されていない。  ちなみに、彼の隣を歩いている黒いシスターお姉さんもお金を持っていなかった。一体どんな方法を使ってバスに乗る気だったのか、とても気になる上条|当麻《とうま》である。  そんなこんなで汗だくボロボロで上条は残暑厳しい九月の道を三キロも歩いて薄明座の前までやってきたのだが、 「あの……シスターさん? あなたはこの炎天下でそんな真っ黒な服着てるのに何でニコニコ笑顔で汗一つかいてないんですか」 「はぁ。肉の苦など心の痛みに比べればどうという事はございませんから」 「……、何だこのマゾシスター」 「あの、ところでバス停までは後どのくらい歩けばよろしいのでございましよう?」 「まだバスネタ引っ張ってたんか!? だからこれからイギリス清教の人間に合わせるっつってんだろ! ひょっとしてさっきからずっと人の話をスルーしっ放しだったのかよ!?」 「あら。失礼ですが、あなた様はかなりの汗をかいているのでございますね」 「ちっくしょう! 話題が戻ったり進んだりして会話しづらいU」 「ほらほら、今|拭《ぬぐ》ってあげますので動かないで欲しいのでございますよ」 「え、何が? ちょ、待っ、ぶっ!?」  シスターさんが|袖《そで》の中から取り出したハンカチで上条はいきなり顔を拭われた。ただのハンカチの分際で布地は高級そうなレースだし何かほんのりあったかいし|薔薇《ばら》みたいな|匂《にお》いがする。 上条はそれから逃れようとしたが、意外に強い力で顔を押さえつけられて逃げられない。 「はいはい。終わったのでございますよ」  にっこー、と光すら放ちそうな笑みを浮かべてシスターさんは上条の顔を見る。 「……。いや、ありがとうな」  |上条《かみじよう》はぐったりしながら|薄明座《はくめいざ》跡地の|敷地《しきち》へと足を|踏《ふ》み入れる。  建物は遠目に見ても巨大な事が分かるのに、正面にある駐車場は職員専用かと思うほど極端に小さかった。駅の近くだし、すぐ|隣《となり》に立体駐車場があるからだろう。一応、二メートル程度の高さの金属板と鉄パイプで敷地は完全に囲まれているのだが、作業員が行き来するための出入り口が強引に広げられていた(太い|鎖《くさり》と|南京錠《ナンキンじよう》が地面に転がっている)。  狭い駐車場には、建設用の重機などはなかった。薄明座の建物も、スプレーによる落書きやガラスの|破壊《はかい》などの|痕跡《こんせき》はない。もう次の買い手が決まっていて、|誰《だれ》かが定期的に管理にやってきているのかもしれない、  上条|達《たち》が近づいていくと、薄明座は体育館より一回り大きいぐらいの建物で、形はきっちり四角形だというのが分かった。どこか有名な劇場を|真似《まね》ているのかもしれないし、単に建築デザインが面倒だっただけかもしれない。 (さってと、連中は中かな。外は暑いし)  上条は薄明座の入場口へと目を向ける。両開きのガラスのドアが五つも並んだ大きな出入り口だ。板や何かで|塞《ムさ》いである様子もない。|廃櫨《はいきよ》というより休業中みたいな感じだ。  と、そんな事を考えている上条の前で、五つ並んだドアの一つが手前に開いた。 「ありゃ?」  上条は思わず声を出した。  中から出てきた三人の男女の内、二人は見覚えがある。インデックスとステイルだ。  最後の一人———インデックスより幼そうな外国人の少女だけ、上条は見覚えがない。着ている服は、バス停で出会ったシスターさんと同じ黒い修道服だ、ただし、この少女はファスナーを外してスカート部分のオプションを切り取っているのか、極端なミニスカート状態になっている。足元へ視線を移すと、なんと靴底が三〇センチもある木のサンダルを|履《は》いていた。  と、インデックスは上条の顔を見るなり、 「とうま、そこのシスターさんとはどこで会ったの?」 「……、のっけからそれか。っつーかこっちも主にお前の横に突っ立ってる凶悪神父に聞きたいんだけどな、何でまたこんな手の込んだ|誘拐《ゆうかい》ごっこなんかやってんだ。そしてこの炎天下ん中三キロもぐだぐだぐだぐだと余計に歩かされた理由もぜひ問い|質《ただ》したい! 是非だ是非! 是が非でもと書いてな!!」  叫ぶ上条に、ステイルは面倒臭そうな顔で、 「ああなんだ。狂言だっていうのはバレていたんだね。君をここへ呼んだのは人捜しを手伝って欲しかったからだよ。禁書目録はそのための|囮《おとり》に使っただけだ。ちなみに現場責任者はこちら。ローマ正教のアニェーゼ=サンクティス」  ステイルが適当に|煙草《タバコ》の端で指すと、厚底サンダルのシスター少女が『ど、どーもです』と頭を下げた。日本人はしょっちゅう頭を下げる、という事前情報は知っていたのだろうが、動きが|大袈裟《おおげさ》すぎてホテルマンみたいに見える。  突然見ず知らずの人に矛先を変えられて、|上条《かみじよう》はわずかに|鼻白《はなじろ》んだ。現在上条|当麻《とうま》は絶賛お怒り中だが、まさか面識ゼロの人間にそれをぶつける訳にもいかない。  と、ペースを崩された上条ヘステイルは畳み掛けるように、 「悪いが君の|世迷言《よまよいごと》に付き合っている時間はないんだ。さっきも言ったけど、君をここへ呼んだのは人捜しが目的だ。今も二五〇人体制で捜索しているが一向に見つからなくてね、時は一刻を争っているんだ。人の命が|関《かか》わる間題だから速やかに協力して欲しい」 「泄迷言って……。協力を求めてるくせにゲストって感じのいたわりが一切ないし! くそ、何だよもう! 人の命が関わるってどういう事だ、…からちゃんと説明しろ! っつか|素人《しろうと》の|俺《おれ》なんかに人捜しのスキルなんてねーぞ! そんな大事な事を高校生なんぞに任せんじゃねえよ!」 「ああ、|大丈夫《だいじようぶ》大丈夫。君の|隣《となり》にいるシスターをこっちに引き渡してくれれば良いだけだから」  はい?と上条は目を点にする。  ステイルは心底つまらなそうに|煙草《タバコ》の煙を吐いてから、 「だから、君の隣にいるシスターが行方不明の捜し人だよ。名前はオルソラ=アクィナス。はいお疲れ様。いやあ良く頑張ってくれたね。上条当麻、君はもう帰って良いよ」 「……、あの。|狂言誘拐《ドツキリ》かまされて、出所の怪しい学園都市の外出許可を片手に街から出てきた挙げ句、四〇度弱の炎天下の中を三キロも歩き続けたわたくしめの立場は?」  上条は|俯《うつむ》いてぶつぶつと言い出した。が、 「だからお疲れ様と言っているじゃないか。何だ、カキ氷でも|奢《おご》って欲しいのかい?」  傭いて|歯軋《はぎし》りをする上条当麻に、インデックスがあわわわわと顔を青くする。  ブツン、と上条のこめかみの辺りから面白い音が聞こえ、 「これまではさ。馬が合わないと知りながらも仲良くやっていこうとは思っていたんだ。本当だぞ。本当に思っていたんだぞ? ああ、今この|瞬聞《しゆんかん》まではな!!」 「じゃれてないでさっさとオルソラをアニェーゼに引き渡せ。何だ、君はもしかして構って欲しいのか。あいにくと僕は君の寂しさを埋める事はできないし気持ちが悪いからしたくない」  マジギレした挙げ句にそれをあっさりとスルーされた上条は、燃え尽きたようにその場で崩れ落ちてしまった。 「う、ううううううラうう。今日はもう晩ご飯を作る気力もありません。インデックス、今日のご飯はおざなりなお持ち帰りのブタ丼に決定ね」 『えっ!? とうま!!』と叫ぶ食欲少女を無視して上条は真っ黒シスターお姉さん改めオルソラ=アクィナスの方へ振り返って、 「……そういや、お前|誰《だれ》かに追われてるって言ってたけど、この『人捜し』と関係してたのか? ま、お仲間と合流できたんならもう|大丈夫《だいじさワぷ》だろうけど」  |上条《かみじよう》が声をかけると、オルソラは|何故《なぜ》かビクンと体を|震《ある》わせた。それは抑えようとして失敗したような、小さな震えだった。  彼は首を|傾《かし》げる。どうも、オルソラは上条ではなくステイル|達《たち》を見ているようだ。  と、ステイルはつまらなそうに片目を閉じつつ、 「ふむ。不安になる必要はないさ。僕達イギリス清教も仕事が終わればさっさと|撤退《てつたい》する。ま、その程度の警戒心は持ってしかるべきだとは思うけどさ」  部外者である上条にはみんなまとめて『教会の人』とか『|魔術《まじゆつ》世界の住人』とひとくくりに見えてしまう。  が、彼らは彼らでロ!マとかイギリスとか色々と細分化したり敵対視したりしているのだろうか、と上条は考えていたが、 『いやいや。そうそう簡単に引き渡されては困るよなぁ?』  不意に、野太い男の大声が聞こえた。  声は不自然にも、上条の真上から飛んできた。上条達が夕空を見上げると、七メートルほどの高さで、ソフトボールぐらいの大きさの紙風船がふわふわと浮いていた。  紙風船の|薄《うす》い紙がひとりでにビリビリと振動し、先程の男が声を作り出す。 「オルソラ=アクィナス。それはお前が一番良く分かっているはずよな。お前はローマ正教に戻るよりも、我らと共にあった方が有意義な暮らしを送る事ができるとよ』  |瞬間《しゆんかん》。  ゾフ!! という鋭い音と共に、上条とオルソラを遮るように地面から一本の剣の刀身が飛び出た。頭上に意識を|誘導《ゆうどう》させられていた上条達にとってはまさに死角からの不意打ちに近い。  さらに二本、オルソラを囲むように、ゾンギン!! と地面から剣が飛び出す。  飛び出した剣は、サメの背びれが海面を引き裂くように、地面を一直線に滑った。三本の剣がそれぞれ突っ切ると、地面はオルソラを中心とした、一辺ニメートルの正三角形に切り抜かれる。 「あ——————ッ?」  ずず……、と重力の消える感覚にオルソラが恐怖というより戸惑いに近い声をあげる。だが、それが明確な悲鳴になるより早く、正三角形に切り抜かれたアスファルトごと、オルソラの体が暗い地下へと落下していく。 「天草式!!」  アニェーゼが叫んで手を伸ばそうとしたが、もう遅い。オルソラの体は暗い|闇《やみ》の底へと|呑《の》み込まれてしまっている。上条は慌てて穴の縁へと走り、|忌々《いまいま》しそうに舌打ちする。 「下水道かよ……ッ!」  頭上の紙風船は熱を帯びた、しかし要点を忘れない声で、 『ローマ正教の指揮官さえ追っていれば、オルソラ=アクィナスがどこへ逃げようが|誰《だれ》に捕まろうが、いずれはここまで連れて来られると|踏《ふ》んでいたのよ。まったく地下を|辿《たど》って待ち構えていた|甲斐《かい》があったというものよなあ!! 』  |上条《かみじよう》には状況が全く|掴《つか》めない。  下水道に|潜《ひそ》んでいたのは誰なのか。いきなりオルソラをさらった理由は何なのか。  しかし、これだけは分かる。  連中は、いきなり問答無用で刃物を使って人間を奪った。それも話を聞く限り、突発的なものではなく、事前に計画を立てて、ずっとずっとひたすらにチャンスを待ち続けて。 「くそ!!」  上条は正三角形に切り抜かれた穴の中を|覗《のぞ》く。暗いので遠近感が掴みづらいが、それほど高くはないと感じられた。彼は飛び降りようと穴へ向かって、 「待って! |駄目《だめ》だよ、とうま!!」  インデックスが思わず叫んだ|瞬間《しゆんかん》。  ギラリ、と。|闇《やみ》の中から、何十もの刃の光が|閃《ひらめ》いた。  夕日のわずかな光を照り返すのか、オレンジ色の光がギラギラヌラヌラと下水道の中で|蠢《うごめ》いた。刀身の光を浴びて、地下に|潜《ひそ》む者|達《たち》の輪郭だけがうっすらと浮かび上がる。それは例えるなら|錆《さび》付いた刀や|斧《おの》を構える山賊が、細い山道の|脇《わき》の草むらでじっと息を殺して|犠牲者《ぎせいしや》が通りかかるのを待っているような光景を思わせた。  ぶわり、と熱風のような殺意の塊が|溢《あふ》れ出し、|上条《かみじよう》の顔へ|直撃《ちよくげき》する。  |一瞬《いつしゆん》、確実に動きを封じられた上条の|隣《となり》でステイルはルーンを刻んだカードを取り出した。  四枚のカードを自分の周囲の地面へと投げて配置し、 「|我が手》には炎《TIAFIMH》、|その形は剣《IHTSOTS》、|その役は断罪《AIHTROTC》———ッ!」  ステイルが叫んで|煙草《タバコ》を真上へ指で|弾《はじ》き捨てる。煙草の軌跡を追ってオレンジ色のラインが引かれ、次の瞬間、そのラインに従うように炎の剣が彼の手から飛び出した。  新たに生まれた強力な光源に、下水道の|闇《やみ》が一気に|拭《ぬぐ》い去られる。  ステイルは炎剣を大きく振りかぶったが……そこで動きが止まってしまった。  炎の剣によって照らし出された下水道の中には、|誰《だれ》の姿もなかった。拭われた闇と|一緒《いつしよ》に、あれだけたくさんあった人の気配が消し飛ばされていた。穴の中で刃を手に待ち構えていた無数の人影も、穴の中に落ちたはずのオルソラの姿も、ほんの一瞬でいなくなってしまった。まるで、堤防に張り付いていたフナ虫の群れが一斉に逃げ出したように。  ふわふわと頭上を浮いていた紙風船が、ゆっくりと降りてくる。  誰もそれを手に取らず、紙風船は正三角形に切り取られた穴の中へと落ちていった。 「ちくしょうが。何がどうなってやがんだ」  上条は吐き捨てるように言って、 「おい。テメェ一から十まで説明する気あんだろうな?」 「説明は、僕の方が求めたいぐらいだね」  ステイル=マグヌスは|踏《ふ》みにじるように答えた。 [#改ページ]    行間 一  人工物に固められた海岸は、ようやく|陽《ひ》が落ちて夜を迎えていた。  海水浴場からほんの数百メートル離れただけの、岩場のような場所だった。海岸のすぐ先は高さ一〇メートル近い絶壁になっていて、波が|崖《がけ》を削らないようにと、テトラポッドがうずたかく積み上げられている。  完全に陽の沈んだ海は、深い黒色に染まっている。  まるで夜の到来を待っていたように、その黒い海面から『手』が現れた。  手というより、『|手甲《てつこう》』である。銀色に光る重たい手甲の指が、テトラポッドを|掴《つか》む。さらに海面を割ってテトラポッドの上へと乗り上げたのは、まさしく西洋の全身|鎧《よるい》だった。頭の先から足の指まで|全《すべ》て鋼鉄に|覆《おお》われているため、人間味すら|希薄《ヨはく》に見える。  最初の一人が上陸を果たすと、それを|真似《まね》るように次々と二〇人もの『|騎士《きし》』|達《たち》が海面から姿を現し、テトラポッドの上へと身を乗り上げていく。|各《おのおの》々の鎧の腕に刻まれた文字は『|連合王国《United Kingdom》』。それはイギリスという国家を一言で示す記号でもある。  彼らは泳いでここまで来た。  その意味に何の|比喩《ひゆ》もない。イギリスからアフリカの|喜望峰《きぽうほう》を回り、インド洋を通ってはるばる日本まで|潜水《せんすい》してきたのだ。  聖ブレイズの伝承を骨組みとした海流操作|魔術《まじゆつ》———簡単に言うと三日で地球を一周できるほどの高速潜行を可能とする術式———は鎧に付随した|霊装《れいそう》的な機能ではなく、あくまで騎士一人一人が肉体一つで発動したものだ。現在、騎士の装備する鎧にはそういった霊装機能は一切ない。騎士自体の運動性能があまりにも高すぎるため、霊装としての追加効果がかえって邪魔になってしまうからだ。『霊装が生み出す効果以上の豪腕で暴れ回る』騎士達は、自分のパワーで鎧を|破壊《はかい》してしまう危険性があ。るのである。  彼らは、ただの騎士団と呼ばれていた。  かつて英国内で使用されていた『|鉄杖騎士団《7th_Macer》』や『|両斧騎士団《5th_Axer》』といった名称は七年前に廃止されている。それは今の騎士団が|尖《とが》った個性を失ったのではなく、全ての騎士が、あらゆる技術を身に付けるために団を一新したという意味を持つ。  彼らがそこまでの力を手にしなければならないのには、イギリスという国が抱える事情と騎士団の設立目的にある。  現在、英国は|三《み》つ|巴《どもえ》の複雑な命令系統によって機能している。  |英国女王《クイーンレグナント》、及び|掌握《しようあく》する議会を含めた『王室派』。  |騎士団長《ナイトリーダー》、及び指揮する|騎士《きし》を含めた『騎士派』。  |最大主教《アークピシヨツプ》、及び利導する信徒を含めた『清教派』。  彼らの力関係は以下の通り。 『王室派』は|王家の命令《インストラクシヨン》として『騎士派』を制御して、 『騎士派』は|国政の道具《コンピニエントツール》として『清教派』を利用して、 『清教派』は|教会の助言《アドバイス》として『王室派』を操作する。  これこそ、三者の内一つでも政策に納得しないまま議題を決行しようとすれば、遠回りのルートを通ってやってくる絶大な抗議に足止めされるように設定された極限美の三角形だった。 しかし、英国が『世界で最も複雑な十字教文化』と呼ばれるのは、さらなる理由も含まれる。 『英国』とは、イングランド、北部アイルランド、スコットランド、ウェールズの四文化からなる連合王国である。その名残は今も残っていて、場所によっては独自の通貨が発行されているほどである。  例えば同じ『清教派』でも、イングランド系とウェールズ系のメンバーでは仲が悪い事もある。また逆に『清教派』と『騎士派』でも、同じスコットランド系のメンバー間にパイプができているのも珍しくない。かつて暗号解読専門官シェリー=クロムウェルが同じイギリス清教に|牙《きば》を|剃《む》いたのには個人的な動機の|他《ほか》にもこうした後ろ盾がある。  三派閥四文化。  互いに|影響《えいきよう》を及ぼす二重相関図こそがイギリスという国家を複雑化させるに至り、また『騎士派』に任された最大の使命とは、この複雑な連合王国を空中分解させない事[#「この複雑な連合王国を空中分解させない事」に傍点]にある。  だからこそ、彼ら騎士|達《たち》は|予《かね》てより納得していなかった。  イギリス清教————『清教派』が、『騎士派』と同じ力をつけてしまった事に。  元々イギリス清教とは、全世界を支配下に置いたローマ正教に対抗するために作られたものだった。自分の国は自分達で動かしたい、しかしローマ正教の意に従わなければ『十字教の神の教えに反する国』として|攻撃《こうげタ》されてしまう。そこで「イギリス国内に独自の教会を置く』事で、ローマ正教の法を|遵守《じゆんしゆ》しなくても『イギリス清教=十字教の神の教えに従った行動だ幅という言い訳が立つようにしたのである。  つまり、イギリス清教は政治のための道具として作られたのだ。  王室とそれに仕える騎士、彼らが作る巨大な歯車に挿すオイルが教会なのだ。  しかし現状では王室と騎士の関係の間に、イギリス清教の命令系統が食い込んでいる。  道具として作られたものから、逆に行動を制限されるとなっては|誰《だれ》も納得しない。  現に騎士達は|騎士団長《ナイトリーダー》や|英国女王《クイーンレグナント》こそが主であるとして、イギリス清教トップの|最大主教《アークピシヨツプ》の命令には手を抜くばかりか、ひどい時は突っぱねたりもする。  今回の|勅命《ちよくめい》である『法の書』オルソラ=アクィナスの救出戦の援護』にしても、彼らの出した答えは単純だった。  天草式など皆殺しにすれば良い。  自らの認め鍛者———|最大主教《アークピシヨツプ》の指示に命を|懸《か》ける義理などないのだから。  ローマ正教や天草式との宗教倫理関係など|考慮《こうりよ》に入れていない。  天草式がいなくなった所で、イギリスの国益には何の|影響《えいきよう》もないのだから。  殺すのは|容易《たやす》い。|騎士団《むしだん》の手腕———十字軍遠征時に|数多《あまた》の異教徒を葬った|神僕騎士《マーダークルセイダー》から語り継がれた|御業《みわざ》の数々———は、小さな島ぐらいなら地図から抹消できるほどの威力を持つ。  極東の島国の一派など一日もかからず|破壊《はかい》できるだろう。  その過程で人質となっているかもしれないオルソラがどうなろうが知った事ではない。  やはり、イギリス清教は『法の書』の中身になど興味はない。すでにあの禁書目録が中身は|記憶《きおく》しているのだから任せれば良い。オルソラが生きようが死のうが、イギリスの国益に支障はない。ローマ正教が|騒《さわ》ぐかもしれないが、それを抑える雑用は|最大主教《アークピシヨツプ》の仕事だ。  |最大主教《アークピシヨツプ》は元・天草式のトップだった|神裂火織《かんざきかおり》の動向に気をつけうと言っていたが、騎士|達《たち》は気にも留めなかった。天草式を皆殺しにした事で怒り狂った。神裂が|襲《おそ》いかかってこようが、逆に血祭りに上げてやれば良いだけの話だった。  だった、のに[#「のに」に傍点]。  それら|全《すべ》てはたった三秒で狂ってしまった。  騎士達が海面を割ってテトラポッドの上へと乗り上げたというならば、  それは、テトラポッドを下から突き破って現れた。  ガンゴン!! と、一つ一トンを超えるテトラポッドの数々が、まるで火山の爆発のように勢い良く吹き飛ばされる。その上に乗っていた騎士達は空中へと投げ出されるも、宙で身をひねってバランスを取り戻し、着地点を探すために視線を地面へ走らせる。  爆心地———二一人もの騎士と|膨大《ぽうだい》な数のテトラポッドを吹き飛ばしたその中心点には、一人の女が立っていた。  後ろで束ねた長い黒髪、しなやかな筋肉を|覆《おお》う白い肌、絞った|半袖《はんそで》のTシャツに、片足だけを強引に断ち切ったジーンズとウェスタンブーツ、腰に巻いた革ベルトには二メートルを超える日本刀『七天七刀』が収められている。  神裂火織。  彼女は一言すらも発しない。宙に浮く二一人の騎士達へと無言のまま襲いかかる。  やっている事は単純だ。宙に浮いて、足場がなく、身動きの取れなくなった騎士達へと一人ずつ|攻撃《こうげき》を加えるだけ。しかも刀による|斬撃《ざんげき》ではなく、ご|丁寧《ていぬい》にも|鞘《さや》による打撃だった。  だが、極端に速い。速すぎる。  騎士達が実際に浮いている時間は、たった一秒もない。なのに、彼らにはまるで自分達が空中でピタリと固定されてしまったような|錯覚《さつかく》を覚えた。それほどまでに、|神裂《かんざき》の動きは速い。 まるで止まった時間の中を、唯一自在に動き回っているかのごとく。  正常に時間を見る者がいれば、爆心地を中心とした見えざる|嵐《あらし》が巻き起こっているように映ったはずだ。  |鞘《さや》による|一撃《いちげき》を受けた|騎士達《きしたち》は、地面に|叩《たた》きつけられ、絶壁の中へとめり込み、|崖《がけ》の上の道路へ身を乗り上げた。海へ吹き飛ばされた者は飛び石のように海水の上を滑っていった。  都合二一人の騎士を|薙《な》ぎ払うと、神裂は静かにテトラポッドの上へと着地する。  湿った夜風が彼女の髪を軽く揺らした時、宙に舞い上げられた騎士がようやく地面へと落下した。ゴン、という|鐘《かね》のような音が夜の海岸に鳴り|響《ひび》く。 「加減はしたつもりです。この程度なら死者が出る事はないでしょう。そちらが頑丈な装備で身を固めていたので、こちらとしてもやりやすくて助かります」 「き、さま……」  静かな声を|侮辱《ぶじよく》と受け取って、騎士は立ち上がろうとする。が、体の|芯《しん》を完全に揺さぶられ、指先を動かすのが精一杯だった。  だからこそ、騎士は唯一自由の|利《き》く口を必死で動かす。 「分かって、いるのか。貴様が今、攻撃したのは一体|誰《だれ》なのかを。貴様が今、|牙《きほ》を|剥《む》いたのは三つの約と四つの地を束ねた連合国家そのものだぞ」 「私もその一員です。ローマ正教やロシア成教など他宗派ではなく、同じイギリス清教内でのトラブルなら上の|御方《おかた》がどうとでもしてくれる事でしょう。……、と」  声を放った騎士が気を失っている事に気づいて、神裂は言葉を切った。 「海へ落としてしまった方もいましたが……まぁ、潜水術式はまだ解除されていなかったようですし、|溺死《できし》の心配はないでしょう」  神裂は一度だけ暗い海面に目をやってポツリと|呟《つぶや》いたが、 「そーんな心配そうな目で言われても迫力に欠けるぜい?」 「?」  聞き慣れた声に、神裂|火織《かおり》は初めて動揺を浮かべて振り返った。短い金髪をツンツンに|尖《とが》らせて、青いサングラスをつけた、アロハシャツにハーフパンツの少年が立っている。  |土御門元春《つちみかどもとはる》。  彼の立っている場所を見て神裂は|驚《おどろ》いた。元々彼女の鋭敏な感覚は人の気配を逃さない。……はずなのに、ほんの一〇メートル先にいる土御門を見ても、まだ気配が感じられない。 「私を止めに来ましたか」  刀の|柄《つか》へと手を伸ばす神裂に、しかしサングラスの奥の|瞳《ひとみ》は笑ったまま、 「やめよーぜい。|神裂火織《かんざきかおり》、テメェじゃオレには勝てねえよ[#「テメェじゃオレには勝てねえよ」に傍点]」  これだけの状況を前に|緊張《きんちよう》も見せず、武器も持たず、構えすら行わない。 「テメェ[#「テメェ」に傍点]はどんなに強くても人を殺せない。そして能力者のオレは、テメェ[#「テメェ」に傍点]と戦うために|魔術《まじゆつ》を使っただけで死にかねない。さて、この勝負。勝とうが負けようがどの道オレは死んじまうんだが、カミカゼボーイ|土御門《つちみかど》さんを殺して先へ進む覚悟はできてんのかよ? あァ?」  神裂は奥歯を|噛《か》み締める。  彼女は人を死なせないために術式を操り戦う人間だ。勝っても負けても|誰《だれ》かが死ぬ争いなど、それこそ神裂にとっては何の意味もない。どころか、想像できる限り最悪の展開だろう。  刀の|柄《つか》に触れる指が、カチカチと|震《ふる》えるのが分かる。  と、土御門は一転して子供のように邪気のない笑みに表情を切り替え、 「別に|睨《にら》まんでもいいぜよ。オレはねーちん個人を止めるようには言われてない。ねーちんが問題を起こしそうな事柄に先回りして排除しろとは言われてるけど。それに、こっちにはこっちの仕事があるんだぜい」 「仕事……ですか?」 「そ。ローマ正教と天草式がドンパチやってる|隙《すき》に、その横から『法の書』の原典を|掠《かす》め取って来いっつーありがたい命令ぜよ」  神裂の目が、わずかに細くなる。 「それは、イギリス清教と学園都市[#「イギリス清教と学園都市」に傍点]、どちらの命令ですか[#「どちらの命令ですか」に傍点]?」 「さあってね。ま、常識で考えればすぐ分かると思うぜい。普通に考えて[#「普通に考えて」に傍点]、|魔道書《まどうしよ》を欲しているのは魔術世界と科学世界、どっちでしょーかー? っつか、オレがどっちのスパイなのか[#「」に傍点]を考えりゃすぐに分かるわな」  土御門の言葉に、神裂は|黙《だま》り込んだ。  両者の間に流れる熱帯夜の風すら凍りつきそうな、恐るべき空気が周囲を支配する。  空白の数秒が過ぎ、先に視線を外したのは神裂だった。 「……、私はもう行きます。上へ報告したければご自由に」 「そうかい。あー、のびてる連中は回収しとくぜい。警察に拾われても面倒だし」 「恩に着ます」  |律儀《りちぎ》に頭を下げる神裂に向かって、土御門は一言、 「んでさ、結局ねーちんはイギリスから遠路はるばる何しに来たんだにゃー?」  神裂は頭を下げたまま、ピタリと止まった。  たっぷり一〇秒もかけてから、彼女はようやく顔を上げる。 「さあ———」  彼女は言う。怒っているような、今にも泣き出しそうな、それでいて無機質な笑みを浮かべ、 「———本当に、何がしたいんでしょうかね。私は」 [#改ページ]    第二章 ローマ正教 The_Roman_Catholic_Church.      1  |陽《ひ》は沈み、夜が訪れた。  だが、その到来は静かなものではない。黒い修道服を着たアニェーゼは、同じ色の修道服を着たシスター|達《たち》に外国語で何かを叫んで、あちこちを指差して命令を出している。また、手の中にある小さな本に羽ペンを使い、ものすごい速度で何かを書き込んでいた。デンワみたいなものだよ、とインデックスは言った。あの本に文字を書くと、別の所にある本に同じ文字が浮き出るらしい。それは電話というよりメールだろう、と|上条《かみじよう》はこっそり思う。  |漆黒《しつこく》の集団———おそらくはローマ正教の正規シスター達———は、オルソラを連れ去った者達が切り取った正三角形の穴から下水道へと飛び降りていった。そして別の集団が地図を広げ、羽ペンに赤いインクをつけて次々とラインを引いていく。逃走ルートの特定か、検問や包囲網などの指定かは、上条には判断がつかない。  バタバタと|慌《あわただ》しい夜の中で、上条とインデックスとステイルの三人は少し離れた所にポツンと固まっていた。上条は外国語が話せないため(そう、今彼女達が話しているのが何語かも分からないのだ)会話に参加できず、インデックスやステイルは余計な日を挟むと命令系統の違いからローマ正教のシスター達が混乱する危険性があるため、大人しくしているらしい。  上条は空腹を覚え始めたお|腹《なか》を少し気にしつつ、 「あのさ、そもそも何で|俺《おれ》やインデックスはここに呼び出されたんだ?何かやるにしても、実質、動いているのはローマ正教の人達だけじゃん。俺達は完全に手持ち|無沙汰《ぶさた》だし、それならここにいる意味ってあんまないんじゃねえの?」 「……、いや。そろそろ僕達の増援も到着してなくちゃならない|頃《ころ》なんだけどね。何をやっているんだ、|騎士団《きしだん》の連中は」ステイルは苦そうに|煙草《タバコ》の煙を吐いて、「それから、この件には僕達の力は必須だよ。いや、正確に言うなら彼女の力だけどね」  彼女の、というのはインデックスの事だろう。 「こいつの?」 「そう。|魔道書絡《まどうしよがら》みなんだよ、今回の件は。それも『法の書』の原典ときた」  割と自己完結っぼく言うステイル(=説明する意欲ゼロ)に代わって、インデックスが簡単に話をまとめて説明した。 どうも『法の書』という、世界の|誰《だれ》にも解読できない暗号で書かれた魔道書があるらしい。|魔道書《まどうしよ》の内容はとても貴重なもので、解読すれば絶大な力を手にする事ができるらしい。そして、今まで|誰《だれ》にも解読できなかったはずの魔道書について、今になって解読方法を編み出した少女が現れたとか。  そんな折、魔道書『法の書』と、それを解読できるオルソラ=アクィナスという少女が、天草式十字|凄教《せいきよう》の手によってローマ正教からさらわれてしまった。  |上条《かみじよう》が出会ったあの少女こそがそのオルソラであり、|誘拐《ゆうかい》と救助を繰り返す天草式とローマ正教の戦渦のどさくさに紛れて逃げてきたようなのだった。そして『法の書』の行方は未確認状態だが、おそらく天草式の手に渡っているものと推測される。 (あまくさしき。……天草式?)  はて、どこかで聞いたような名前だな、と上条は首を|傾《かし》げる。  ともカ《わ》|《む》|く 「誰にも解読できない、ねえ。インデックスでも無理なのか?」 「無理だよ。一応やってはみたけど、あれは普通の暗号とは違うっぽいかも」 「あのさ。その『誰にも読めない魔道書』って、そんなに価値があるもんなのか? だって、誰も読んだ事がないんだろ。実はただの落書きかもしんねーじゃねーか」 「かもしれないね」  インデックスは簡単に認めた。が、ムキにならない所が、逆に子供をあしらう大人のような余裕を感じさせる。まるで、何も分かっていない|素入《しろうと》がプロにロ出しした時のような。  ステイルは短くなった|煙草《タバコ》を吐き捨て、|踏《ふ》み|潰《つみ》し、 「『法の書』に書かれた術式はあまりに強大すぎて、それが使われれば十字教が支配する今の世界が終わりを告げるとまで言われるいわくつきの魔道書さ。真偽なんていちいち確かめたくもないね、封が守られるならそのままにしておいた方が良いに決まっている。何せ、一説には人の|理《ことわり》を超えた天使の術式すら意のままに操れるとまで言われているんだし」  その言葉に、上条は凍りついた。 「てん、し……だって?」 「うん? 宗教を信じない君には少し奇抜すぎて想像がつかないかな」  ステイルは|嘲《あざけ》るように言ったが、違う。  上条は知っている。『天使』という言葉が持つ意味を。『神の力』と呼ばれる天使が何をやったのかを。夏の夜の浜辺で、|一瞬《いつしゆん》で夜空を巨大な|魔法陣《まほうじん》の渦で|覆《おお》い尽くした、あの術式を。 言葉一つで、地球上の半分を焦土に変えてしまうほどの、あの神業を。  あれでさえ、おそらくは天使が使った術式のほんの一部に過ぎない。  それを、人の手で、意のままに? 「でも…-やっぱり、誰も『法の書』を解読した事がないっていうなら、本物かどうかは偏 上条が|唾《つば》を飲み込んで言うと、インデックスはこくりと子供のように|頷《うなず》いて、 「うん。でも『法の書』に関してはきっとクロだよ、とうま。あれを執筆するために筆を尽くした|魔術師《まじゆつし》っていうのがもう伝説級なの。それこそ新約聖書に登場してもおかしくないレベルのね。彼が|活躍《かつやく》したのはほんの七〇年ぐらい前なんだけど、その七〇年で数千年を超える魔術師の歴史は塗り替えられてしまったと言っても過言じゃない。現在いる魔術師の二割は彼の亜流だし、何らかの|影響《えいきよう》を受けている程度なら五割に届くかもしれないほどの実力者だったの」  インデックスの言葉は真剣で、|上条《かみじよう》は下手に言葉を挟む事もできない。 「『法の書』は本物だと思う。もしくは、ウワサ以上の|代物《しろもの》であっても私は|驚《おどろ》かないよ」  彼らの横を、バタバタと黒いシスター|達《たち》が走っていく。  数秒|経《た》って、ようやく上条は声を出した。 「その……『彼』ってのは?」 「エドワード=アレクサンダー。またの名をクロウリー。今はイギリスの|片田舎《かたいなか》の墓の中で眠っている」ステイルは新しい|煙草《タバコ》に火を|点《つ》けて、「一言で言えば、最悪の人間だったと記録されているね。ある魔術実験では守護天使エイワスと接触する器として共に世界旅行に出かけていた妻の体を旅先で使っているし、娘のリリスが死んだ時も顔色一つ変えずにmagickの理論講築を行っていたそうだ。しかも、その実験では娘と同い年ぐらいの少女達を|犠牲《ぎせい》にしていたらしい。……一応、それらの功績として別世界———天界や魔界などと呼ばれる『層の異なる重なった界』の新定義を|見出《みいだ》し、それまでの魔術様式を一新したんだがね」 風向きが変わったのに併せて、ステイルは立ち位置を変えた。インデックスへ煙を向かわせたくないらしいが、そのとばっちりで思い切り上条の方へ流れてくる。上条ががはこほと|咳《せ》き込むと、ステイルは心底邪悪な笑みを浮かべて、ぶはーっと|怪獣《かいじゆう》みたいに煙を吐いた。 「まあ、それだけ善悪好悪大小様々な逸話が多い魔術師としても知られているのさ。『法の書』もそうだ。|奴《やつ》は自分の進む道に迷うと、『法の書』を使った書物占いを行い、その内容を元に道を選んでいた。つまりは世界最高の魔術師の分岐点を———近代西洋魔術史全体の|舵《かじ》を取っていた|魔道書《まどうしよ》って訳だ、『法の書』には何らかのいわくがあると|踏《ふ》んだ方が賢明だろう?」  自分で自分の言葉に嫌気が差したのか、ステイルは舌打ちする。  先ほど上条達の横を通り過ぎたローマ正教のシスター達が再び引き返してきた。武器として使う物なのか他に使い道があるのか、直径一メートルもある巨大な歯車を抱えて走る黒いシスターが、煙草の|匂《にお》いにちょっと不快そうな顔をしていた。 「つか、そんなにヤバイ本だって分かってんなら何で処分しないんだ? 本なんて燃やしちまえば良いじゃねーか」 「魔道書は燃えない本なの。特に原典クラスになると、魔道書に記された文字、文節、文章そのものが魔術的な記号と化して、地脈や竜脈から漏れるわずかな力を|動力源《パワーソース》にした自動制御の|魔法陣《まほうじん》みたいになっちゃうの。だからせいぜい、封印するのが手一杯なんだよ」  インデックスは|曖昧《あいまい》に笑ってから、 「でも、私が自分の|記憶《きおく》を|手繰《たぐ》って原典の写本を書いてもそういう風にはならないんだけどね」 「「自動制御の|魔法陣《ぽほきん》』を起動するには、やはり微弱でも人の魔力がいるのさ。|永久機関《エンジン》を回すためのスターターとなる、執筆者本人の魔力[#「執筆者本人の魔力」に傍点]がね。|魔道書《まどうしよ》を書く|魔術師《まじゆつし》のほとんどは自分でも気づかない内に文字情報と共に魔力をページに刻み付けてしまう。それは筆記用具や画材を問わず起きてしまうので分かってても|避《さ》けられないんだ。だけど、彼女はそもそも生命力を練って魔力を作る力がないから問題ないのさ。魔道書図書館の管理人としては打ってつけだろう? ……何者かの作為があるのが気に食わないけどね」 「ふうん。そうなのか、インデックス」 「え、あう? すたーたー? えんじんって何?」  補足説明してもらったはずのインデックスが一番困った顔になっていた。  |律儀《りちぎ》にスターターやエンジンといった言葉を(|何故《なぜ》かやや|嬉《うれ》しそうに)説明しようとするステイルを横目で見ながら、上条は心の中で苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》す。  最初は大した用事ではないと思っていたし、つい今さっきまでさらわれたオルソラを助ければ後はどうとでもなると考えていた。  だが、そういう訳にもいかなくなってきた。  |上条当麻《かみじようとうま》は『天使』というものを知っている。ミーシャ=クロイツェフ、『神の力』が放った地球の半分を焼き尽くすほどの術式を。  上条当麻は『魔術師一というものを知っている。これまで会ってきた魔術師|達《たち》は、手加減も出し惜しみもしない。自分の目的のためには、自分の持つ力を|全《すべ》て使って取り掛かる。  もしもそんな魔術師達が『法の書』によって天使の技を手に入れたら? (くそ……)  インデックスは、魔道書の原典は燃やす事はできないと言った。  それは原典そのものが自動制御の魔法陣のようになってしまうからだと言った。  だけど、上条の右手を使えば。  そこに宿る|幻想殺し《イマジンブレイカー》を使えば、もしかしたら……。 (最悪だ。途中で降りる事はできそうにねーじゃねえか!)      2  外国語の指示出しがようやく終わったのか、アニェーゼが短いスカートを揺らして上条達の元へと歩いてきた。パカパカと、異様に高い厚底サンダルが馬の|蹄《ひづめ》のような足音を鳴らす。  上条はインデックスより年下のこの少女に内心でちょっとたじろいだ。どうも魔術側の人間には年功序列は通じないらしいのはイギリス清教やロシア成教の不思議シスター達を見ていれば何となく分かる(まぁ、ミーシャは外観だけ[#「外観だけ」に傍点]だったが)。その上、相手は先ほどまで直接で何十人、通信では何百人もの人間に何やら外国語で格好良さそうに指示を飛ばしていた人物だ。  が、彼には『偉そうな人』という所より『外国語』の部分の方が問題だった。彼の心理状況を一文で記すと『外国語ができない時の対処法=話しかけられたら魂の高速ボディランゲージしかないッ!!』である。|上条《かみじよう》は自分の顔をじっと見上げ今まさに外国語で異文化交流しようとするアニューゼを前に|華麗《かれい》に舞うべく身構えていたが、 「あ、え、っと。こ、これから状況の説明を始めちまいたいんですのでだけどそちらの準備は整っていますですでござりますか?」 「……、」  強烈な日本語だった。  何だよそれは、と上条は思う。  いくら個性と言ってもそれはないだろう。  何やらカチコチに固まったローマ正教のシスターはふらふらとおぼつかない姿勢で、顔を真っ赤にしている。なるほど、外国人に対するファーストトークの|緊張《きんらよう》は万国共通だったのか、と上条が妙に納得して心の中でちょっと|頷《うなず》いたりしていると、続けてアニェーゼは、 「ど、どうも本場の日本人の方に自分の|拙《つたな》い日本語を話すのは、き、緊張してしまって。あ、|他《ほか》の言語は使えますか。アバル語とかベルベル語とか、お互いの文化圏とは離れてるトコが好ましんですけど」  超早口で言った。インデックスが『落ち着け落ち着け深呼吸しろ』みたいな内容の事を外国語で言ったようだった。ふと横を見るとステイルが暗い顔をして|傭《うつむ》いていて、『いや、僕の知り合いにも奇妙な日本語を使う人がいてね』と|誰《だれ》も求めていない説明をした。  アニェーゼはその|平坦《へいたん》な胸に手を当てて何回か深呼吸する。無理に混乱を押し|留《とど》めようとしているようだった。|普段《ふだん》は|履《ぽ》き慣れているだろう高さ三〇センチの厚底サンダルを装着した足も、緊張が手伝っているせいか酔っ払いみたいにゆらゆらと揺れている。  それでも職務をまっとうしようとする彼女は、シャッキリと背筋を伸ばして、 「いや、すいません。では改めて、こっから今の状況と、今後の我々の行動についてお話するとしまひゃあ!?」  言葉が終わる前に、ふらつく足もお構いなしで無理に背を伸ばし続けたアニェーゼは後ろへバランスを大きく崩した。『わっ、わっ!』と宙を泳ぐ彼女の手が、ワラをも|掴《つか》む理論で上条の手をがっしりとキャッチする。 「うわっ!?」  手を掴まれた上条も|一緒《いつしよ》になって地面に引きずり倒された。突然の事で受身も取れずにアスファルトの上に転ばされた上条は割と本気でのた打ち回ろうとしたが、ふと頭の上にひらひらした布地が乗っかっている事に気づく。  アニェーゼのスカートだった。  顔を上げると鼻先数センチの位置に楽園が広がっていた。 (な、ななななななななななななななななななななななななななななななななあッ!?)  |怯《おび》える|上条《かみじよう》が慌てて首を引き抜こうとした|瞬間《しゆんかん》、ようやく事態に気づいたアニェーゼが『きゃあ!? 』という甲高い悲鳴と共に思い切り両手でスカートを上から押さえた。もちろんそれは防御のための行動なのだろうが、逆に上条は自分の頭を押さえつけられてスカートの中から抜け出せなくなる。  スカートと|太股《あともも》で三六〇度の全視界を遮られた上条の耳にインデックスの叫び声が届く。 「と、ととと、とうまァ! それはちょっとイタズラとしての限度を超えてるかも!!」 「仕事中に発情するな。ほら、さっさと起きろ」  どごん、とステイルに|脇腹《わきばら》を|蹴飛《けと》ばされて上条はようやくアニェーゼのスカートと太股の|牢獄《ろうごく》から抜け出す事に成功した。その蹴りはステイル自身の行動というよりインデックスの叫びに仕方なく対処したような感じがする。  腹を蹴られた上条は|咳《せ》き込みながら首を振る。  と、ぺたりとアスファルトの上に座り込んだアニェーゼと目が合った。ぶるぶると小刻みに|震《ふる》えている彼女の顔は真っ赤になり、|目尻《めじり》にやや涙が浮かびかけている。それを見た上条の顔 が真っ青になる。 「ず、ずみばぜん……」 「い、いえ。謝んなくてもいいです。わ、私が転んだのが原因なんですし。どうも|緊張《きんちよう》すると体のバランスがおかしくなっちまうようで…-。えっと、立てます?」  アニェーゼは高さ三〇センチもある厚底サンダルを|履《は》いた足で器用に立ち上がると、打ちひしがれる|上条《かみじよう》にゆっくりと手を差し伸べてきた。上条は黒雲が割れて一筋の光が差し込むのを見たような顔で手を伸ばす。それを見たインデックスがちょっとムッとする。  少しずつ落ち着いてきたのか、アニェーゼの体はコチコチに固まっているが、口ぶりからは緊張の色が|削《そ》げていく。 「ええ、では今から『法の書』、オルソラ=アクィナス、及び天草式の動向と、我々の今後の行動について説明しちまいたいと思います」  再び転ぶのが怖いのか、アニェーゼは緊張でふらふらしたまま思わず上条の服を|掴《つか》もうとしたが、途中で手が止まった。初対面の男にすがりつくのには抵抗があるだろうし、何より上条はつい先程アニェーゼのスカートの中ヘダイブした直後である。アニェーゼはあちこち手を泳がせた後、インデックスの修道服をちょこんと|摘《つま》むように握った。 「現状、『オルソラ=アクィナス』は確実に天草式の手にあります。『法の書』の方も十中八九間違いないでしょう。今回の件に出張ってる天草式の数は、推定でおよそ五〇人弱。下水道を利用して移動してるみたいなんですが、今は地上へ上がっちまってる可能性もあんですよ」 「つまり、何にも分かんないって事かな?」  アニェーゼに寄りかかられたインデックスが、少し苦しそうに言う。 「はい。我々はそこに残存してる|魔力《まりよく》の|痕跡《こんせき》から天草式の動向を追ってますが、これが上手くいきやしません。|流石《さすが》は|隠密性《おんみつせい》特化型宗派・天草式十字|凄教《せいきよう》ってトコですかね」  アニェーゼはふらふらと揺れながら、正三角形に切り抜かれた地面の方を指差す。 「並行して別働隊に辺りへ包囲網を|敷《し》かせてますが、こっちの方が早くヒットしそうです」 「包囲網って……どれぐらいの規模なんだ?」  と、上条は首を|傾《かし》げる。アニェーゼが重たいから何とかしろ、というインデックスの視線は気にしない事にしておく。 「ここを中心として、半径一〇キロってトコです。一三二の道路と四三の下水路、その程度の規模ならまかなえるぐらいの味方はいると考えちまって構いません」アニェーゼはインデックスに抱き着くようにして、「何にせよ、『法の書』及びオルソラを本拠地へ連れ込むつもりなら包囲網のどっかに触れますよ。情報では、天草式の本拠地は九州地方にあるらしいってな所までは掴んでんです。……らしい[#「らしい」に傍点]、ってのが気に食わないんですが。もっともヤツらが包囲網を抜けず、この場でオルソラに解読法を吐かせるってんなら話は変わっちまいますが」 「それはないだろうね。当のオルソラにしても、読心系の|魔術《まじゆつ》に対抗する知識ぐらいは頭に用意してるだろう。かと言って、力ずくでやるには環境が悪い」  と、ステイルは|煙草《タバコ》の煙を吐いて、 「腰を落ち着けるには、この場には敵が多すぎる。オルソラの拷問、解読法の入手、『法の書』の解読版の作成、これらは一日程度で終わる仕事量じゃないと思うよ。自殺を防ぎ的確に心の壁を破って情報を引き出すなら、相手に直接触れない『|徒労系《ロングラン》』や『|安眠妨害系《スペシヤルスペーシー》』の拷問がベストだと思う。だが、それでも一週間程度は必要だろう。一日二日の|徹夜《てつや》じゃ拷問にもならないしね。あれは一二〇時間以上一睡もさせないで、初めて心が壊れ始める風にできてるから[#「心が壊れ始める風にできてるから」に傍点]」  淡々と話すステイルの言葉に、|上条《かみじよう》はゾッとした。  |魔女《まじよ》狩り・宗教裁判に特化した専門家の言葉もそうだが、その専門家の目から見て、オルソラを連れ去った連中はそれができると言っているのだ。それもアニェーゼの話からすれば、そんな集団が五〇人近くもまとまって活動しているらしい。  天草式十字|凄教《せいきよう》。  しかし、上条はどこかが引っかかる。———そうだ、天草式という言葉は|神裂火織《かんざきかおり》や|土御門元春《つちみかどもとはる》から聞いた事がある。そして、神裂は元々そこのトップで、大切な部下を守るために組織を抜けた事も。  彼女がそこまでして守りたかった入|達《たち》というのは、私欲のためにこんな事件を起こしてしまうような、その程度の人間なのか? (いや……)  それとも、変わってしまったのだろうか。  神裂火織がいなくなってから、彼女が守ろうとしていた人達は。 「どうしたの、とうま?」  インデックスが小首を|傾《かし》げると、まとわりついているアニェーゼの頭にコツンとぶつかった、「何でもねえよ。で、|俺《おれ》達はこれから何すりゃ良いんだ? 天草式の連中は、じきに包囲網のどこかに接触するんだったよな」 「あ、は、はい」アニェーゼはまだ少し|緊張《きんちよう》しているらしく、ほとんどインデックスのほっぺたに|頬《ほお》ずりするような格好で、「基本的には後方支援に回ってもらいます。……可能性は低いんですがね、『法の書』が使われちまう恐れもあるんで。|魔道書《まどうしよ》の専門家には、そちらへ当たってもらった方が良いかと———」 「ああ|鬱陶しい《うつとう》しい! ちょっと暑苦しいかも!」インデックスはバタバタと両手を振って、「でも、天草式ってそんなに簡単に捕まるのかな。ねえとうま」 「そこでこっちに話を振ってどうするよ? あれじゃねえの。そんな四〇人も五〇人も怪しい修道服着た集団が歩いてたら嫌でも目につくと思うけど」 「天草式には決まった正式装束はないんだよ、とうま。彼らは|隠密性《おんみつせい》に特化した集団だから、普通に街を歩いている程度では見分けはつかないかも」 「……、」 「とうま、なに? その人を疑うような目は」 何でもないです、と|上条《かみじよう》は答えた。辺りを見回してみる限り、尋常な格好をしている人間が一人も見当たらないこの状況で彼女の『普通』がどこまで通用するのか疑問である。 「とにかく、天草式は『隠れる事』『逃げる事』に特化した集団なの。そんな連中が、『法の書』やオルソラ=アクィナスを強奪した後にローマ正教がどんな手を打ってくるか、予想してなくちゃおかしいと思う。そして今回の件が計画的なものなら、対抗策を練っているのが普通かも」  インデックスへ完全に寄りかかっているアニェーゼは、ちょっと戸惑ったように、 「で、でも。実際問題、ウチの包囲網を突破しちまえる方法なんて———」 「あるの。そういう|魔術《まじゆつ》が」  間髪入れずに返事をされて、アニェーゼは息が詰まったような顔をした。 「日本国内限定の術式なんだけどね。簡単に書えば、日本中に特殊なポイント『渦』がいくつもあって、『渦』と『渦』の聞を自由に行き来できるような『地図の魔術』があるの」 「|大日本沿海輿地全図《だいにほんえんかいよちぜんず》。———|伊能忠敬《いのうただたか》か」  ステイルは何かを思い出したのか、苦い顔をして|眩《つぶや》いた。  上条はサッパリ意味が|搦《つか》めなかったので、 「何それ? 伊能忠敬って伝説の|魔術師《まじゆつし》か何かなの?」  と、質問してみた結果、その場の全員からものすごく冷たい目を向けられた。 「あの、とうま。日本で初めて実測で日本地図を作った人って、表の世界の歴史年表にも載ってる事なんだけど」 「君って歴史に|疎《うと》そうだしね。どうせ日本の五代前の総理大臣ももう忘れてるんだろう?」 「……その、イタリア人の私でもそんぐらい知ってたんですけど」  四方八方からボコボコに言われて、赤点少年上条|当麻《とうま》はちよっと|塞《ふさ》ぎ込んでしまった。 「で、とにかくこの江戸時代に作られた日本地図には特殊な仕掛けがしてあるの。『偶像の理論』みんな分かるよね? ……とうま以外は」  一般人はオカルト用語など知らない方が普通なのだが、周りの全員はさも当然の常識のように|捉《とら》えている。上条は何となく自分が一人ぼっちになってしまったように感じた。 「そんなとうまのためにお勉強ムぞす。偶像の理論っていうのは、神様や天使の力を上手に利用するための基盤となる知識なの。それを応用すると、例えば『神の子』の処刑に使われた十字架に良く似たレプリカを教会の屋根に取り付ければ、本物の十字架が持つ聖なる力を分けてもらったりできるんだね。もっとも、レプリカに宿る力は普通、本物の〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一%未満、レプリカの中でも伝説級の『聖なる飼い葉|桶《おけ》』だって数%が限界なの。まぁ、本物の一%でも一二使徒クラスに匹敵するんだけど」  教会の上に立っているものからシスターさんの首にかかっているものまで、世界中には数え切れないほどたくさんの十字架があって、それら|全《すべ》てに力を行き渡らせても全く『本物』の力は衰えないらしい。太陽と光発電の関係みたいなものだろうか、と|上条《かみじよう》は適当に考える。 「そしてこの『偶像の理論』っていうのは、逆流できるっていう仮説があるの。つまり、本物が『偶像』に|影響《えいきよう》を及ぼすだけじゃなくて、『偶像』が本物に影響を及ぼすって訳だね」 「仮説って……はっきりしてないのか?」 「いくつかの『例外』が埋められてないから、あくまで仮説。でも、聖書とかを粗末に扱うと罰が下るっていうのはそういう意味だよ。聖書の中には十字教を迫害してたギリシアの『偶像』が雷に打たれて|壊《こわ》れる話がいっぱいあるし、昔の日本でやってた『|踏《ふ》み絵』だって『偶像』を傷つける事で本物へ悪影響を与えてしまうという恐れを逆手に取ったって説もあるんだから」  インデックスはやや不満そうな顔で言う。知識の宝庫を自称する身としては『らしい』とか『説がある』とか、|曖昧《あいまい》な言葉はあまり気に入っていないのだろう。 「|伊能忠敬《いのうただたか》はこの『偶像の理論』を逆手に取ったの。本物が偶像に影響を与えるのなら逆に、本来あるはずのないモノ———空間を|瞬時《しゆんじ》に移動するための出入り口を強引に|大日本沿海輿地全図《だいにほんえんかいよちぜんず》へ書き込む事で、日本列島には存在しないはずの『渦』を四七ヶ所も作ってしまったの」  上条はさも当然のように次々と飛んでくる怪情報を頭の中で必死に整理してみる。  日本列島と、伊能忠敬さんとやらが作ったとされる精巧なミニチュアである日本地図は何らかのリンクをしている。  その日本地図にワープポイントの落書きをすると、それに連動して日本列島に本物のワープポイントが生まれてしまう。  つまり、日本地図に落書きした事は全部現実になる? 「おい。それってなんかメチャクチャやばくねーか!? だってその地図を消しゴムで消したら人も街も全部吹っ飛んじまうって事だろ」 「それは無理だよ。いい、偶像の条件っていうのは『ミニチュア』なの。本物との間にわずかでも|魔術的《まじゆつてき》な狂いが生じれば、偶像として機能しなくなるんだよ。だから『偶像の理論』は決して万能じゃないの。元の『像』を|歪《ゆが》めてしまえば理論そのものが適用されなくなっちゃうから」  インデックスは真剣な口調で言う。過去にはそういった『「神の子」そっくりの石像を使って天界にいる「神の子」を操ろうとした』魔術のジャンルもあったらしいが、それらは全て失敗に終わったらしい。 「逆に言えば、そこが伊能忠敬のすごい所なんだね。明らかに狂ったものを付け足しておきながら、『ミニチュア』としての黄金比を少しも歪めなかったんだもん。あんな事ができたのは、魔術史上でも彼だけだったと思う。もしも彼が彫刻家だったら、『神の子』や『天使』だって操れたかもしれないね。……もちろん、日本地図の制御だけでも十分に|驚異《きようい》なんだけど」 「……、で。天草式はそれを自由に使えるってのか」 「うん。|伊能忠敬《いのうただたか》は江戸幕府の時代に諸外国へ強い興味を持っていて、彼の一派は|大日本沿海輿地全図《だいにほんえんかいよちぜんず》をシーボルトへ売り払おうとしていた経緯があるからね。当時禁止されていた十字教も|蘭学《らんがく》を通じて知っていたはずだし、主に学術的興味から天草式との非公式な接触もあったと見るのが妥当かも」  細かい理論はどうあれ、結論として今の天草式は日本列島の中なら好きな場所へ|瞬時《しゆんじ》に飛べる|魔術《まじゆつ》を持つという事らしい。だとしたら、包囲網の突破など訳はない。  アニェーゼはポカンとした顔でインデックスの話を聞いていた。 |上条《かみじよう》はこれまでの話を頭の中で整理しながら、 「だとしたら、どうする? もう天草式はワープしてるかもしんないんだろ。ポイントは限定されてるって話だから、それを全部調べてみるのか?」 「それはできないよ。実は大日本沿海輿地全図から『渦』は二三ヶ所しか見つかって。ないんだもん。黒船に売り渡そうとした際の仕様書には、ちゃんと四七ヶ所あるって書かれてるのに」  ポイントの半数以上は|謎《なぞ》のまま。  それでは後を追うのも先に回るのもできるはずがない、 「しかも大日本沿海輿地全図を使った特殊移動法に加えて、天草式は本拠地が知られていない[#「天草式は本拠地が知られていない」に傍点]事でも有名なの。……逃走ルートが寸断されるんだから分かるはずがないんだけどね。さっきアニェーゼは九州にある『らしい』って言ったけど、これも謎だね。天草式の本拠地の情報は無数にあって、まったく特定できていない状態なの。情報が偽りなのか、|全《すべ》て本拠地として機能しているのか。それすらも分からないんだよ」  アニェーゼの顔が青ざめた。  自分の体を支えていた両手でインデックスの肩を|掴《つか》んで叫ぶ。 「じゃ、じゃあどうすんですか!? てかそんな情報があんなら何で|黙《だま》ってたんですか! ポイントを先回りする事もできないし本拠地へ|追撃《ついげき》する事もできないんじゃ、飛ばれちまったらもう終わりだ! ヤツらが飛ぶ前に急いで手を打てばまだ何とかなったかもしんねえってのに、何をのんびりしてんですか!?」 「急ぐ必要はないからだよ」  インデックスがサラリと言うと、アニェーゼは再びポカンとした顔になった。 「大日本沿海輿地全鋼は夜空の星を利用して実測された地図なの。だから、特殊移動法を使うには地図に|染《し》み付いた特性『星の動き』が大きく|影響《えいきよう》してくるの。簡単に言えば刻限があるんだよ。決まった時間じゃないと特殊移動法は使えないんだもん」  彼女は長い銀髪を揺らして夜空を見上げ、 「今は……星を見る限り、ざっと午後七時半って所だね。特殊移動法使用制限解除は日付変更直後だから、まだ四時間半ぐらい余裕はあるよ。加えて飛ぶためのポイント『渦』はすでに固定されてるんだもん。この包囲網の中で使える『渦』は判明している一二ヵ所内では一つしかないの。……もちろん、|未《ま》だ明かされない|他《ほか》の『渦』がある可能性は捨てられないけどね」  インデックスは自信満々で言い切った。  こういう場面に幽くわすと、|上条《かみじよう》は改めて彼女が違う世界の住人なんだと思い知らされる。 「で、そのポイントってのはどこだ?」 「とうま、地図が出るピコピコ持ってなかった? 貸して貸して」  携帯電話のGPSの事だろうか? 上条はインデックスに自分の携帯電話を手渡したが、彼女が難しそうな顔をしたので横から操作してやる事にする。彼女はもっと右とか少し下とか色々注文した後、やがてその白くて細い人差し指の先で、一点を示す。 「ここだよ」      3 「|斥候《レコン》に先行偵察させた結果、例のポイント付近で不審者を二名ほど発見したそうです。天草式の線が濃いですが、今は泳がせています」  インデックスの助言を聞いてアニェーゼが命令を下してから、わずか一五分足らずで結果が返ってきた。やはり人数がいると違う、と上条は思う。混乱状態にあったとはいえ、『|御使堕《エンゼルフオール》し』の時など散々だった。 「ただ、天草式本隊や『法の書』、オルソラなどの姿は発見できなかったそうで」 「だろうな。こんな時間から何十人とぞろぞろ侵入したら嫌でも目についちまう。何せあそこはまだ営業中[#「営業中」に傍点]だろうし」  上条は詳しい終業時間など知らないのだが、今はまだ八時前だ。  天草式の人間が|伊能忠敬《いのうただたか》の地図の細工を使ってここから逃げ出すつもりなら、必ず『渦』と呼ばれる移動ポイントを使わなければならない。上条|達《たち》は、この『渦』へとやってきた天草式を|叩《たた》いて『法の書』とオルソラを救出するつもりだった。 「他に未知のポイントがある可能性もありますし、特殊移動法を使わねえって可能性もあります。本隊の姿を確認できなかった以上、|全《すべ》ての人員を指定区域へ|割《さ》くのは難しいです。包囲網の維持と、エリア内の探索に多くの戦力を注いじまわないと、ヤツらに逃げられる危険性が増えちまいますんで。ただ、あそこが一番怪しいのは間違いないんですが」  アニェーゼは困ったように言ったが、インデックスは気にした様子もなく、 「それで普通だと思うよ。私の言葉に確たる証拠がある訳でもないし」 「よって使える人員は私を含めて七四名となります。今、武装や|霊装《れいそう》を再編成してますが、仮に天草式本隊と遭遇した場A一、必勝は確約できません。すいませんが、そちらの身はそちらで守ってもらう事になっちまってます」  今まで天草式は五〇人足らずで、二五〇人ものローマ正教と対等に渡り合ってきたのだ。アニェーゼの言葉も無理はないだろう。  ステイルは新しい|煙草《タバコ》に火を|点《つ》けながら、 「構わないよ。援軍を送ると約束したこちらの『|騎士《きし》』の|馬鹿《ばか》どもとは連絡が取れないし、その上で僕|達《たち》がお荷物となっては話にならない。で、出発する前の再編成はどの程度で整う?」 「武具、防具の選定。聖水の使用、聖書の読み上げによる個人個人の加護を含めて……」アニェーゼは少し考え、「三時間前後。……最悪でも一一時までには終わらせちまいます」 「移動時間を含めれば三〇分強で決着を着けなくてはならない訳か。まあいいさ、あまり早すぎても例のポイントへ天草式本隊がやって来ない事には待ちぼうけを食らうだけだからね」  そんなこんなで、行動開始時間は午後=時で決定した。  アニェーゼが、パンパン! と両手を|叩《たた》いて外国語で何か指示を飛ばすと、黒い修道服を着たシスター達が一斉に動き出した。七四人を即座に二人から四人編成の行動班に分けて、それぞれが準備に走る。  ステイルや|土御門《つちみかど》、|神裂《かんざタ》といった個人———言い方を悪くすれば自分勝手な|魔術師《まじゆつし》ばかりを見てきた|上条《かみじよう》にとっては、一糸乱れぬ集団行動というのは少し意外だったりする。  アニェーゼ達、『法の書』とオルソラの救出部隊は|各々《おのおの》|戦闘《せんとう》準備をして、それが終わった者から交代で食事と仮眠を取るように、との事だった。数時間後には戦闘という状況で一眠りなんかするのか? と上条には疑問だったが、アニェーゼの話によると長期戦の戦場ではベッドに入ってぐっすり睡眠を取る事などできず、少しでも間があれば一〇分、二〇分でも小刻みに眠って体力を回復させるのがアニェーゼ達の常識らしい。つまり、彼女達はそういった状況で戦い続けるのに慣れている集団だという事だろうか、とか上条は適当に考えてみる。  当然ながら上条やインデックス、ステイルは元から準備の必要がないので、いち早く食事と仮眠に入る事になる。アニェーゼの、お|客様《ゲスト》に対する|配慮《はいはい》なのかもしれない、と上条は思った。 ちなみに食事も仮眠も野営となる。何でまた日本の首都で野宿だよ? と上条は首を|傾《かし》げたが、冷静に考えたら七〇人強もの人間が変な格好をして夜のファミレスやホテルに集結して戦闘準備を進める光景も、野営に負けず劣らずのシュールな光景だと思った。 (しっかし一一時から動くとなると……|俺《おれ》は明日の学校間に合うのか? あっ! ちょっと待て、確か夏休みの宿題のペナルティがそろそろ|締《し》め切りじゃなかったっけ17じ  上条は慌てたように学園都市の方角を振り返るが、それでどうにかなるはずがない。  諸々の事情があって、彼は夏休みの宿題を|完遂《かんすい》していない。そのための『宿題の宿題』を|小萌《ニもえ》先生から渡されていたはずなのだが(小萌先生は上条一人のためにわざわざプリントを自作してくれた)、確かその締め切りは明日だったはず……。  ああああーっ! と上条の顔が真っ青になった。誓って言うが、絶対に終わると思っていた。努力の人・上条|当麻《とうま》は今日の今日までインデックスの遊んで|攻撃《こうげき》や|三毛猫《みけねこ》のオヤツくれ攻撃などを必死でかいくぐり、必死で頭を悩ませてきたのだ。正直、上条一人の力ではどうにもならなかった節もあるのだが、昨日、|御坂美琴《みさかみこと》に問題を解くコツなどを教えてもらってからヘブチブチ文句を言いながら|何故《なぜ》か何時間も付き合ってくれた)は随分ペースが上がってきて、何とか今日一日で終わるかなと希望が見え始めてきていたのに。 (やばいよやばいよ怒られるよ。どうしようどうしよう、うわー。|小萌《ニもえ》先生はもちろん手伝ってくれた美琴とか絶対怒るって。あー。久しぶりに言うそこのワード。せーの、不幸だー)  ふるふると小刻みに|震《ふる》える|上条《かみじよう》は、そっと夜空を見上げる。まぶたからキラリとこぼれた透明なものは汗であると信じたい。  とぽとぽと肩を落として歩く上条は、イタリア式らしいなんか名前の良く分からないスープとパンを野営場の隅っこでもらってもぐもぐ食べながら、軽く辺りを見回す。 『|薄明座《はくめいざ》』跡地の駐車場には小さなドーム状のテントがあちこちに展開されている。駐車場はどう考えても全員分をまかなえるほど広くないが、建物の中でも眠れるだろうし、それ以前に準備に追われるローマ正教の人|達《たち》の半数以上は仮眠を取る時間はないようだ。  そうなると一人|呑気《のんき》に眠っているのは気が引ける上条だったが、ステイルが言うには『手持ち|無沙汰《ぶさた》な人間がフラフラしている方がよほど準備の|邪魔《じやま》になる』らしい。 (しっかし、|廃嘘《はいきよ》で集団野宿って、警察とかに通報されないだろうな? それとも人払いの|魔術《まじゆつ》とか対策取ってあんのか?)  野営場からテントの中へ入った上条は、毛布にくるまってそんな事を考えていた。|隣《となり》にはステイルが寝転がっていたが、インデックスは隣のテントらしい。ステイルは護衛のために同じテントにしたかったようだが、その意見は|叶《かな》わなかったみたいだ。同性の|神裂《かんざき》がいれば……と彼が|歯噛《はが》みしながら、インデックスの入るテントのあちこちにルーンのカードを|貼《は》り付けていたのを上条は見ている。何でも『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』は使用するカードの枚数によって強さが変動するらしく、小さなテントでは貼り付けられる数にも限界があるとか嘆いていた。  上条はしばらくテントの中でごろごろと転がっていたが、やっぱり眠れなかった。疲れがないとか|戦闘《せんとう》前で|緊張《おんちよう》するとかいうより、明らかに外でたくさんの人が仕事をしているのに自分だけ休むというのは気が引けるのだ。そして彼女達の姿を思い浮かべると、同じ修道服を着たオルソラの顔を思い出してしまう。 「……。やっぱり、なんか手伝ってくる」  もそもそと毛布から|這《は》い出しながら上条が言うと、ステイルは|鬱陶《うつとう》しそうに、 「|止《と》めはしないけど、くれぐれもその奇怪な右手で彼女達の|霊装《れいそう》を|破壊《はかい》しないようにね。……ちなみに|壊《こわ》した場合、君が|弁償《べんしよう》しろ。僕達イギリス清教はノータッチだからな」  とてつもなく嫌な助言に背中を押されて上条はテントの外に出た。  熱帯夜なので外も蒸し暑い。そんな中を銀の|燭台《しよくだい》をたくさん束ねて抱える少女や古い聖書を何冊も重ねて両手で運んでいるシスターさん、馬車に使うようなデカイ木の車輪を|担《かつ》いだお姉さんなどが忙しそうに行き来している。|上条《かみじよう》にはどう使うのか分からないものばかりだ。 (さってと。なんか手伝える事はねーかなー……って、あれ?)  何かに気づいて上条の動きが止まった。上条が出てきたテントのすぐ|隣《となり》の、カードをぺたぺた|貼《は》られたインデックス用のテント、その出入り口のファスナーが開いていた。中には|誰《だれ》もいないようだ。 (あいつどこに行ったんだ———って、おわっ!?)  視線をそちらへ向けながら歩いていた上条は、ふと足元の感覚が消えた事に気づいた。知らず知らずの内に天草式が先ほど地面に空けた、正三角形の穴に|踏《ふ》み込んでいたのだ。 (いっ、落ち———ッ!!)  ずっ……、と体が下水道へ落ちる前に、空中へ振り回した上条の手を黒いシスターの一人が慌てて|掴《つか》んだ。引き上げられ、何か外国語で説教をされたが上条には上手く聞き取れない。 (あらいやだ、ひょっとして|俺《おれ》って今ものすごく足手まとい?)  どーん、と暗いオーラをまとって落ち込む上条は、自分が落下しかけた正三角形の穴を改めて観察してみる。  天草式は下水道を経由して、地下から地上へ直接|奇襲《きしゆう》を仕掛けられるのだ。彼は今まで、ここはローマ正教の基地みたいな所なんだから多少うろうろしていても安全だと思っていたが、実は結構紙一重の立ち位置なのかもしれない。逃走を図っている天草式にしても、追跡者の司令塔たるこの本拠地を|潰《つぶ》した方が逃げやすいと考える恐れだってあるのだから。 (まあ、俺みたいな|素人《しろうと》相手に手の込んだ奇襲をする意義は少ないと思うけど。司令部みたいな重要ポイントだと危ないのかもな)  とはいえ、上条にはどれが重要なテントで何が重要でないテントなのか、区別がつかない。 とりあえず|他《ほか》のものより一回り大きめなテントを見て、あれなんか|狙《ねら》われそうだ、とか|他人事《ひとごと》のような感想を思い浮かべていたが、  不意に、ゴン!! という|衝撃音《しようげきおん》がその大きなテントの中から|炸裂《さくれつ》した。  続いて、少女のものらしい悲鳴が後を追い駆ける。 「……っ!?」  上条の|喉《のど》が干上がる。ついさっき自分で適当に考えた意見が、もう一度頭の中を飛び交う。  天草式は、地下から地上へ直接攻撃を仕掛けられる。  狙われるのは、おそらくアニェーゼ|達《たち》にとって重要なテント。 (となると、まさか、本当に……?) 「ちっくしょう!」  不幸中の幸いか、そのテントは上条のすぐ近くにある。彼は|右拳《みぎこぶし》を岩のように固く握って駆け出す。周りにはたくさんのシスター|達《たち》がいたが、彼女達はとっさの事に|唖然《あぜん》としていた。その間にも|上条《かみじよう》は大きなテントの入口まで走り、そのファスナーを一気に引き下ろして、 「天草式!!」  上条が叫ぶと同時に、開いた出入り口から何か重たいものが、ドン! と上条の腹の真ん中に激突した。それは重く、生温かく、水気を帯びているのかぬるりとした感触を伝えてくる。 (が……!?)  |得体《えたい》の知れない感覚に上条は全身を総毛立たせながら|拳《こぶし》を振り下ろそうとすると、  上条の腹に両手を回して抱き着いているのは、全裸のアニェーゼ=サンクティスだった。 「………………………………………………………………………………………、えー?」  ごーん、と上条の頭が|鐘《かね》の音みたいな効果音と共に真っ白になる。  一糸まとわぬアニェーゼの髪はお湯で|濡《ぬ》れ、肌にも水気がある。柔らかそうな肌はほんのりと赤みが差し、白い湯気が立ち上っていた。ただ、抱きついてくる彼女の体は小刻みにぶるぶると|震《ふる》えていて、上条の腹に顔を押し付けたまま固く両目を閉じており、何か外国語で小さく|眩《つぶや》いている所からも尋常でない様子なのは|窺《うかが》える。  アニェーゼの言っている言葉は理解できないが、彼女が抱き着いたままどこかを指差しているので、上条はそちらを見た。  広いテントの隅っこの方に、小さなナメクジが張り付いていた。  アニェーゼはそのナメクジを指差したまま外国語で何か言っている。 「まっ、待てアニェーゼ。とりあえず離れて服を着ろ。あと|俺《おれ》は日本語以外は分かんないから!」  上条が顔を真っ赤にして叫ぶと、彼女のぶるぶるという震えがピタリと止まった。  アニェーゼは恐る恐るといった感じで顔を上げる。  上条|当麻《とヤフぽ》とばっちり目が合う。  次の|瞬間《しゆんかん》。  ふっ……、とアニェーゼが貧血でも起こしたように真後ろへ倒れていった。 (うげっ!?)  地面は硬いアスファルトだ。倒れそうになるアニェーゼの体を上条は慌てて抱き抱える。妙に温かい感触がシャツ越しに伝わってきて上条の全身の神経がおかしな具合に逆立った。アニエーゼの体は全体的にインデックスより細く、それ|故《ゆえ》にやや硬い印象もあったが、それが逆に部分的に柔らかい部分を強調しているようにさえ思えてくる。 (うっ……!?)  と、腕の中にすっぽり収まったアニェーゼに対し、思わず上方向へ視線を|逸《そ》らした上条は別のものを見て再びビクリと震えた。  テントの中央には大きな金だらいが置いてある。そして金だらいの真上の|天井《てんじよう》には鉄のバケツが|吊《つ》り下げられていた。バケツの底にはジョウロの口のようなものがついていて、ジョウロには蛇ロがある。バケツにお湯を入れて蛇口をひねると、ジョウロの口からお湯が出る簡易シャワーとなるらしい。現に今もじゃばじゃばとお湯が流れている。  そして、その金だらいエリアの中。今もお湯の恩恵を得ているテントの中央に。 「……、とうま」  とてもひくーい声を出す銀髪|碧眼《へきがん》のシスターさんがいた。当然ながら着ているものなど何もなく、お湯に|濡《ぬ》れた髪が張り付いている|薄《うす》い胸も、ほんのわずかにお湯の水滴を集めているおへそも全部見えちゃっていた。元々色素の薄い肌をしているので、体を温められた事による赤みはより強調される形となっている。 「い、いや、ちょっと待ってくださいよ|上条《かみじよう》さんはてっきり天草式でも攻めてきたかと思って心配だから駆けつけてみた訳でその辺りも加味していただけると幸いっていうか」 「うっ———」 「??? う?」  上条はインデックスの動き一つ一つをビクビクした目で注臼していたが、 「———う、ひっく。うええ」 (なっ、泣いちゃってるうううううううう!?)  ビックゥ! と予想外の展開に|上条当麻《かみじようとうま》の全身が変な反応をする。その間にもインデックスはポロポロと大粒の涙をこぼし、それを両手でごしごし|擦《こす》っている。  ふと気づくと、周囲から上条へとやたらと冷たい視線が集中していた。  一〇〇人以上のシスターさん|達《たち》から直々に『幼い少女を全裸のまま泣かしている男〔十|傍《かたわ》らに同じく全裸で気絶した上官つき)』という最悪のレッテルをペタペタ|貼《は》り付けられた上条の顔は真っ青になり、 「ちょ、え、お、落ち着いてくださいよインデックスさん! こんなのあなたのキャラじゃないですよ! いつものあなたならこうじゃないでしょ? ほらほら、上条さんの頭はここにありますよー、思い切ってガブッとやっちゃってやっちゃって!! って、あれ? ストップストップ、なんか顔がいつになくマジっぽいんだけど! い、今のは言葉の|綾《あや》であってそんな分厚い牛肉を|噛《か》み|干切《ちぎ》るみたいなノリは待って止まってぎゃああああ!?」 「だから迷惑をかけるなと言っただろう。ん? どうした、何を頭なんか押さえて涙ぐんでいるんだい?」  ボロボロになって自分のテントに帰還した上条を見て、寝っ転がったままのステイルは遮屈そうに言った。入口は閉まっていたので、彼は|騒《さわ》ぎが起きたのは知っていてもそれがインデックス|絡《がら》みだという所までは気づいていないようだった。もし発覚していたら上条はここで炎剣を振り回すクレイジー神父に追い回される羽目になっていたかもしれない。ただでさえアニェーゼから『……作戦の確認がありますから。ちょっとどっか行っててください』と地味に責められた後なのでこれ以上のトラブルは御免という感じだった。  上条はまだ痛む頭をさすりながら自分の毛布に|潜《もぐ》り込む。|魔術師《まじゆつし》が書うには暇があれば五分でも一〇分でも睡眠を取って体を休めるのが戦場での基本との事だが、痛みが引くまではとても眠れそうにない。 「なあステイル」 「なんだい。僕は今とてもイライラしているのだからできれば後回しにして欲しいね」 「一個聞くけど」 「大体ここの人間は危機管理能力が低すぎるよ『法の書』が何だと言うんだ。たった一冊の|魔道書《まどうしよ》で石往左往しているなら一〇万三〇〇〇冊を管理する彼女が一体どれだけの数の魔術師に|狙《ねら》われているか分かるだろうが———」 「お前の好きな子|誰《だれ》だよ?」 「ぶばっ!?」  上条の問いにステイルは呼吸が詰まってわなわなと|震《ふる》え始めた。  お泊まりにおける定番の問いだと思ったが、どうも日本文化特有のものだったらしい。 「なあステイル。一個聞くけど」 「尊敬する女性はエリザベス一世で好みのタイプは聖女マルタだ。愛と慈悲の祈りのみで悪竜を退治した逸話なんて|痺《しぴ》れてしまうね。|他《なか》に質問は?」 「天草式十字|凄教《せいきよう》ってあれだろ。|神裂《かんざき》が前にいた所だろ」 「……、」  ステイルは目を細めて、少し|黙《だま》った。|煙草《タバコ》を取り出そうとしたが、寝煙草は良くないと思ったらしく、その手が途中で止まる。 「|誰《だれ》から聞いた? あの神裂が、自分の生い立ちを簡単に話すとは思えないね。|土御門《つちみかど》か?」 「ああ。お前が海のオヤジになってる間に聞いたんだ」 『?』という顔をするステイルを|上条《かみじよう》は放っておいて、 「でも、あれだろ。天草式ってのは、神裂の仲間|達《たち》なんだろ」上条は、戸惑うようにそこで区切って、「……、それでも、やるのか? あの『|三沢塾《みさわじゆく》』の時みたいに」  上条とステイルは、以前一度だけ共同戦線を張った事がある。  あの時の|戦闘《せんとう》は、お世辞にも|綺麗《きれい》なものではなかった。たくさんの人が傷ついて、死んでしまった者まで現れた。|魔術師《まじゆつし》同士が、それも集団として組織として魔術師が激突するのはそういう意味を持つらしいのは、上条にも何となく分かった。甘えが許されないのがプロの世界であり、それ|故《ゆえ》にインデックスやステイルのような専門家が生まれた事も。  だけど。  プロとしての厳しさを知るならば、余計にためらったりはしないのか。 「やるよ」  しかし、ステイル=マグヌスは一秒すら迷わずに即決した。 「やるに決まってる。上の命令だろうが、あるいは上に止められてでも[#「あるいは上に止められてでも」に傍点]。僕はね、あの子を守るためなら何でもやるって決めているんだ。だから誰でも殺す。生きたままでも燃やす。死体になっても焼き尽くす。あの子の見ている前でも、あの子の知らない所でも」自分で自分を突き刺すような言葉だった。「勘違いするなよ、上条|当麻《とうま》。僕が今こうしているのはそれが|全《すべ》てあの子のためになるからだ。あの子のためにならないなら、僕は今この|瞬間《しゆんかん》に君を骨まで灰に変えてみせる」 「……、」  ごくり、と上条の|喉《のど》が動く。  結局は、それがステイル=マグヌスという男の行動理由の全て。  イギリス清教に所属しているのも、魔術師として戦う力を手にしているのも、誰かの命令を聞いて『法の書』とオルソラを助けに来たのも、全部が全部。 「ずっと昔に、誓ったんだよ。『———安心して眠ると良い、たとえ君は全てを忘れてしまうとしても、僕は何一つ忘れずに君のために生きて死ぬ』と」  その結論は、ゾッとするほどの|台詞《せりふ》だった。  それでいて、ステイルの声にはひどく人間味が込められていた。  |上条《かみじよう》は、言葉を選ぶ。  選ばなければ、相手に失礼だと思った。 「でも、だったら何でこんな事にインデックスを巻き込んだんだ?」 「計画したのは僕じゃないし、できれば僕も巻き込みたくなかったよ」  ステイルはすらすらとした声で答える。 「しかし、僕だけで解決しては|駄目《だめ》なんだ。それではあの子が蕪価値』だと判断されてしまうから。現状のインデックスの利用価値をウチの上の人間に提示できなければ、彼女はロンドンへ送還されてしまう恐れがある。今のあの子にとって、学園都市での生活を引き裂かれるのは何にも増して耐え|難《がた》い出来事だろうからね」  投げやりな声だった。  イギリス清教の同僚としては、インデックスに戻って来てもらった方が|嬉《うれ》しいはずなのに。  ステイル=マグヌスは、投げやりな声でそう言った。 「もう寝ろ。|強襲《きようしゆう》まで二時間もない。これ以上話しても夢見が悪くなるだけだ」  それだけ言うと、ルーンの|魔術師《まじゆつし》は口を閉じて目を閉じた。  あと数時間|経《た》てば殺し合いが始まるかもしれない|緊張《きんちよう》状態で眠れるかと上条は考えたが、いざ毛布にくるまって目を閉じていると、いつの間にか眠気が全身に行き渡っていたらしい。つまり気がつけば眠っていたようだ。|大覇星祭《だいはせいさい》の準備などで思ったより疲労が|溜《た》まっていたのかもしれない。 (う……あ……?)  上条の目が覚めた理由は単純で、体の上に何か重圧を感じたからだ。のっし、という人間一人前の重さと、何かやたら盛り上がった毛布と、柔らかくて温かい人肌の感触を|捉《とら》える。  すうすう、という小さな寝息が、毛布の中から聞こえてくる。 (おい、待て。ヤバイ、まさかまさか!? くそ、そう言えばテントにはカギがかからないんだった!)  上条は|普段《ふだん》、学生|寮《りよう》ではユニットバスにカギをかけてお湯を抜いた湯船の中で眠るという生活を送っている。理由は単純、寝ぼけたインデックスが上条の|布団《ふとん》に入ってくるのを死守するためである。足が伸ばせるお|風掲《ふろ》でホントに良かったと上条は常々思っている。  ただでさえ布団侵入罪は健金なる青少年上条|当麻《とうま》の精神にとんでもない|影響《えいきよう》を及ぼすのに、加えて今は|隣《となワ》にあのステイルが|寝《もミ》ているのだ(しかも就寝前に誓いとか何とかシリアス|台詞《ぜりふ》を聞いたばかり)。事と次第によっては何の|比喩《ひゆ》表現もなく本当に成敗される恐れがある。  と、冷や汗をダラダラ流す上条の体の上で、やや幼い少女の体がもぞもぞと動く。  無防備に色々な部分が触れ合って上条は心臓が止まるかと思った。 「……(う、うおお!? 待て、ちょっと待てインデックス! ってかお前さ、横からならともかく真上を陣取るってのはいくらなんでもやりすぎだろ!?)」  |上条《かみじよう》が小声で(と本人が思っているだけの大声で)慌てて抗議すると、 「むにゃ……。なぁーに、とうま……?」  と、テントの入口から[#「テントの入口から」に傍点]聞き慣れた声が聞こえてきた。見れば、寝ぼけて半分目の閉じたインデックスがテントのファスナーを開けて今まさに上条の毛布の中へ忍び込もうとしている。  あれ? と上条が首をひねっていると、 「むぎやー……………………………………………………………………………ぱぱァ………………………Io non posso mangiare alcuno piu qualsiasi piu lungo.………」  毛布から顔を出したのはアニェーゼ=サンクティスだった。  彼女はおそらく寝ぼけて気づいていないが、両者の唇の距離はおよそ五センチ弱。 (えーっ!? こっちも寝ぼけるとお|布団《ふとん》侵入|癖《ヘき》ありなのかよ! ってかついさっきシャワーんトコでちょっとどっか行っててくださいって言われたばっかじゃん!!)  ひいいいっ!? と上条がほぼゼロ距離|射撃《しやげき》状態の小さな唇から顔を|逸《そ》らして慌ててアニェーゼの下から|這《は》い出る。転がる上条に引きずられるように毛布が取っ払われる。 「んなっ!?」  上条は絶句した。毛布の中から出てきたアニェーゼは白いレースのブラと、両サイドが|紐状《ひもじよう》になって|蝶々《ちようちよう》結びしてあるパンツ以外に何も身に着けていなかった。|普段《ふだん》からそうやって眠る|癖《くせ》でもあるのか、彼女の修道服はテントの隅っこで|丁寧《ていねい》に折り畳まれている。  インデックスは、ぽーっとしたまま上条とアニェーゼの姿を見て、 「……、ぱぱ?」 「待ってーっ! インデックス、これは|俺《おれ》も知らないって! 断じて幼い少女にそんな特殊ネーミングで呼ばせて悦に浸るような特殊性癖はありませんってーっ!!」  つい先ほどもアニェーゼ|絡《がら》みで頭をかじられた上条は恐怖に駆られてぶるぶると|震《ふる》えながら弁明する。インデックスはそんな上条の|怯《おび》えっぷりを観察しながら、 「あふぁ。これは、夢……かも」 「は?」 「うん、いくらとうまでも、そんな節操なしじゃないはずだもん。だからこれは夢。むにゃ」 「そ、そうそう! 夢ですよ夢! やだなぁあの超硬派のミスター駄フラグ立て逃げボーイ上条|当麻《とうま》がこんな|破廉恥《はれんち》な|真似《まね》をするはずがないじゃないですかっ!!」  上条は催眠術師のようにねぼすけ状態のインデックスを|誘導《ゆうどう》していこうと考えたが、 「むにゃ。そう、夢だったら|大丈夫《だいじようぶ》。いくらとうまに|噛《か》み付いても大丈夫。だってこれは夢だから。|日頃《ひごろ》の不満を思いっきりぶつけても大丈夫。むにゃー」 「は? あ、え!?ちょ、待てインデックス!! 違う、これは紛れもないリア———!?」  慌てて訂正しようとした|上条《かみじよう》が止める間もなく、インデックスは思い切り彼の頭に|噛《か》み付いた。健全な男子高校生の悲鳴というか絶叫に、すぐ近くにいた下着姿で寝ぼけ状態のアニェーゼがビクゥ! と飛び起きる。ちなみに同じテントで寝ていたステイル=マグヌスはうるさそうに一度だけ上条|達《たち》の|騒《さわ》ぎを眺めると、ごろんと反対側に寝返りを打って二度寝を始めた。      4  午後一一時。  天草式の教皇代理の|建宮斎字《たてみやさいじ》と以下本隊四七名は特殊移動法『縮図巡礼』の特定ポイント『渦』へと集結していた。  と言っても、そこは神秘的な森や山の中ではない。『パラレルスウィーツパーク』という看板を|提《さ》げた、大規模な菓子専門のテーマパークの一角だ。  大手製菓メーカー四社が共同で建設したもので、発電所ほどの広さの|敷地《しきち》には世界三八ヶ国、七五店舗の菓子店がある。全体的にオリンピックのマークのようにいくつものドーナツ状の水路が重なり合っていて、各サークル水路の外側には屋台のように小さな(しかし確かな腕を持った)菓子店の建物が並び、水路内側のスペースは広場や各製菓メーカーの展示館やイベントスペースになっていた。今は残暑用企画の冷菓・氷菓子のキャンペーンを行っているらしい。  |伊能忠敬《いのうなだたか》が設定した『渦』の位置は固定されているが、街の開発状況は日々変化している。 ここなどはまだ使える方で、中にはアパートの一室や銀行の大金庫の中など、移動手段としては完全に使えない場所に『渦一が重なってしまっている場合もあった。  すでに『パラレルスウィーツパーク』の内部へと侵入していた天草式の面々は、早速『縮図巡礼』のための準備を始める。 『縮図巡礼』の使用条件は午前〇時からだが、その前に準備を進めておくのが定石だ。元々、使用できる時間はわずか五分間しかない。条件が解除されてから準備を始めるのでは遅いのだ。 ちなみにその準備は午前〇時ジャストに完了しなければいけないというルールはない。それより前に終わらせてから、午前〇時にスイッチを押しても発動する。  |魔術《まじゆつ》の準備と言っても、怪しげな|魔法陣《まほうじん》を描いたり|呪文《じゆもん》を唱えたりはしない。  彼らは閉園後のテーマパークに忍び込んでいるという事以外には、特におかしな挙動を取らない。四、五人の青年が固まって世間話をしたり、ハンバーガーやポテトを紙袋から取り出してかぶりついたり、園内の案内の立て看板を指差して何か議論したり、立ち止まってガイドブックをパラパラめくったりといった、ごくごく普通の動きしかしていない。  彼らの服装にしても、インデックスやステイルなどに比べればかなり自然な方で、白いキャミソールにデニム地のハーフパンツを|穿《は》いた少女や、シャツを重ね着してぶかぶかの黒いズボンを穿いた少年、スーツの上着を脱いで腕に引っ掛けている女性などだ。気になる点と言えば、せいぜい武具の輸送係として一〇名ほどがスポーツバッグや弦楽器やサーフボードのケース、画板入れなどを手にしている所ぐらいか。  しかし、詳しい者なら分かるだろう。  彼らの服装や何気ない仕草には、もれなく計算された|魔術的《まじゆつてき》な意味が含まれている。  男女の性別、年齢の高低、衣服のカラーの組み合わせ。  四、五人で円を組む動作、世間話の内容、『食』という宗教的|儀式《ぎしき》、ハンバーガーの具材、色、肉を食べるという術的意味、|噛《か》む回数、飲み込むタイミング、男女が歩く方角、立ち止まる位置、本を読む仕草、ページ数の数字を足した数の合計。  それら|全《すべ》ては『文字』や『記号』に分解され、|蠢《うごめ》く人々の流れが一つの|呪文《じゆもん》や|魔法陣《まほうじん》を作り出す。日常生活の中にわずかに残る宗教様式を拾い上げ、組み立て直す彼ら天草式の術式には『魔術を使った|痕跡《こんせき》』というものが一切残らない。それは幕府の厳しい弾圧から逃げ続けなければならなかった彼らの祖先の歴史が色濃く受け継がれている。 (さて)  |建宮斎字《たてみやさいじ》は一人離れて、己の持つ剣を横に|薙《な》ぐ。  光の落ちた金属製の街灯が、斜めに裂けて転がった。 (お前に見せてやろうぞ、|女教皇様《かんざきかおり》。多角宗教|融合《ゆうごう》型十字教術式・天草式十字|凄教《せいきよう》の今の姿を) 軽く夜空を見上げ、口の中で静かに唱えた。      5  暗い夜に|呑《の》み込まれた遺跡だ。  特殊移動法のポイントである『パラレルスウィーツパーク』を遠目に見た|上条《かみじよう》の感想はそれだった。二〇〇メートルほど先にある人工の遊技場は|灯《あか》りを落とされ、本来なら遊園地のように華々しく|彩《いろど》られているはずの建物は|闇《やみ》の黒に塗り|潰《つぶ》されている。当然ながらあの施設のデザインは全て人を楽しませるために作られたものだが、それが逆に違和感となる。じっとりとした、気味の悪い風が|頬《ほお》の汗を|拭《ぬぐ》っていく。  上条は『パラレルスウィーツパーク』から目を離す。百貨店の大きな駐車場には何十人という黒い修道服のシスター|達《たち》が集まっていた。これだけで一種異様な光景である。  ふと彼はインデックスと目が合った。人差し指で|掌《てのひら》に何か書いているのは、何らかのイメージトレーニングらしい。やはり上条を魔術師同士の激突に巻き込みたくないようだった。元々いたローマ正教の人員が大幅に削られた事で危険度が増したせいか、夕方よりイライラしているように見えた。  一方で、ステイルはインデックスの少し後ろで、いつも通りに|煙草《タバコ》を吸っている。が、内心では彼女を守るために様々な案を練っているはずだ。  アニェーゼが厚底サンダルをパカパカ鳴らしながら|上条達《かみじようたち》の元へと歩いてくる。  シャワーだの毛布の中で寝ぼけ状態だのといった時は|歳《とし》相応に、どーん、と沈んでいた彼女だったが、今はもうそんな様子は見られない。仕事で私情を忘れられるタイプのようだ。初めて会った時の、|緊張《セんちよう》で足がふらつくような様子ももう見られない。 「例の『パラレルスウィーツパーク』で天草式本隊を発見しました。ですが『法の書』とオルソラは確認できやしませんでした。まさかとは思うんですがこれが|全《すペ》て陽動である可能性もあります。従って|他《ほか》の部隊が辺り一帯に展開してる包囲網を解く事はせず、我々は今の人員でこのまま交戦に入っちまいます」  すでに決定した事柄を確認するように、アニェーゼは言う。  上条はちょっとだけ彼女の言葉を頭の中で転がして、 「『法の書』を天草式の|誰《だれ》が保管してるかとか、本当に園内にオルソラがいるかどうかが分からないってのが痛いよな。そんな状態で助け出せるのか? オルソラを見つけるのに手間取れば彼女を連れて逃げ出されるかもしれないし、人質にされるかもしれねーだろ」  むしろ不利になったら人質を使うのが定贋じゃないかと上条は考えている。  上条はオルソラの顔を思い出した。世間知らずで、人の話を聞かなくて、ちょっと目を離したらどこへ行ってしまうか分からないような少女。彼女が刃物や銃を突きつけられて凶人達の盾にされる所など見たくもない。  が、アニェーゼは悩む暇もなく、 「『パラレルスウィーツパーク』から逃げられちまった場合は包囲網が役に立つでしょう。それから人質……てか、盾として使われちまう恐れはないと思われんですが」 「?」と上条は首を|傾《かし》げる。 「天草式の第一目的は『オルソラから「法の書」の解読法を教えてもらう事』でしょ。そのオルソラを盾にして、万が一死なせちまったらヤツらの計画は失敗になっちまいます。ヤツらがここまでして『法の書』に執着してんなら、逆にオルソラは安全なんです」  ステイルは口の端の|煙草《タバコ》を揺らし、 「おそらく天草式の農的は、|神裂《かんざき》がいなくなった事で欠けた戦力の穴埋めとして『法の書』を使おうとしているって所だね。ここまで強硬に出たというのは、それだけ切羽詰まっているっていう訳さ。彼らは『法の書』入手に失敗すれば次はない。だからオルソラの身柄も氷細工みたいに丁重に扱ってるだろうさ」 「……、逆に言えば、天草式が破れかぶれになる前にオルソラを見つけないとな」  |天秤《てんびん》の傾き方は微妙な所だと上条は感じた。オルソラを見つける前に天草式を追い詰めすぎればオルソラもろとも自滅する恐れがあるし、かと言って|攻撃《こうげき》の手を|緩《ゆる》めてはオルソラを捜す余裕もなくなってしまう。大体、手加減できるような戦力差がある訳でもない。  アニェーゼもサジ加減の難しさは分かっているようで、 「そこで人員を分けちまいたいと思います。我々ローマ正教の八割の人員で構成する主力隊はオトリんなって、正面から天草式と激突します。その間に、あなた|達《たち》は|遊撃隊《ゆうげきたい》の一つとして『パラレルスウィーツパーク』内を探索して、『法の書』とオルソラの身柄を確認できたら確保しちまってください」厚底サンダルをカツンと鳴らして、「特殊移動法のタイムリミットである午前〇時五分を過ぎても見つからないって場合は『いない』ものとみなしちまいます。あなた達は『パラレルスウィーツパーク�内から脱出しちまってください。我々の手で天草式を無力化した後に、園内を捜索しちまいます」  リミットまでにオルソラを見つけられず、しかも園内に『いた』場合はそれだけ彼女の身に危険が迫る羽目になる。 『パラレルスウィーツパーク』の立地条件を考えれば、人捜しに向いていない環境というのはすぐに分かる。何せアニェーゼから聞いた話では、園内に七五もの店があるらしいのだ。  |上条《かみじよう》がごくりと|唾《つば》を飲み込むと、インデックスがロを開いた。 「特殊移動法の『渦』もあるよ。あれを|破壊《はかい》しておかないとオルソラを連れて逃げられるかも。開いた『渦』自体はとうまがいれば簡単に消せるだろうけど、それだと午前〇時に開くまで待たないといけないんだよ。午前〇時より前に止めるためには、準備のためのアイテム類を|壊《こわ》せば良いんだけど、天草式の場合はカムフラージュされてて捜すのに苦労するかも」 「『法の書』とオルソラの捜索にポイントの破壊。割と|窮屈《きゆうくつ》なスケジュールになりそうだ」  ステイルが言いながら|煙草《タバコ》を吐き捨て|踏《ふ》み|潰《つぶ》す。  覚悟が決まったと判断したのか、アニェーゼは片手を挙げた。背後にいた七〇人強のシスター達が一様に武器を|担《かつ》ぎ、冷たい金属音が夜に鳴り|響《ひび》く。  彼女達の武器は統一性がなく、剣や|槍《やり》といった明確な武器から、銀の|杖《つえ》や巨大な十字架といった武器に使えなくもないもの、背丈ほどの直径のある巨大な歯車や|松明《たいまつ》など使い道の想像できないものまで様々だ。アニェーゼ自身も、シスターの一人から銀の杖を受け取っている。 「……許せねえですよね」  アニェーゼ=サンクティスは銀の杖を肩に担ぎながら、憎々しげな声を|闇《やみ》の先へと向ける。 「十字教ってな、本来みんなを助ける目的で広めてったものなのに。それを逆手に取って、こんな事のために力を使っちまうなんて。つまらない内容のために暴力を振るっちまうから、それを止めるためにさらにつまんねえ暴力を振るわなくっちゃいけねえんだって、どうしてそんな簡単な|連鎖《れんさ》にも気づけないんでしょうかね、彼らは」 「……、」  それは簡単な事で、一歩離れれば|誰《だれ》もが考え付くのだろうけど、当事者達にとってはとても難しい問題だと上条は思う。もちろん、上条だってアニェーゼの意見に大賛成だが。 「まあこういう言い方は何ですけど……だから私は天草式に限らず、|魔術師《まじゆつし》とか、ああいう人間があんまり好きじゃねえんです。特に二〇世紀初頭に登場してきやがった近代西洋魔術結社なんざ、ほとんど十字教の|屍理屈《へりくつ》や裏技的な術式を並べた連中ですから。ほら、『|神の如き者《ミカエル》』やら『|神の力《ガブリエル》』なんつー大天使の名前を借りた|魔法陣《ぽほうじん》なんざ典型的じゃねえですか。二〇世紀から離れたにしても、例えば魔女狩り時代に王侯貴族と契約してた|錬金術師《れんきんじゆうし》なんかは堂々と『これは十字教の|奥義《おロつご》だから魔女術には当たらない。あくまで私は|敬虔《けいけん》なる子羊の一人だ』なんて公言してましたし」  アニェーゼはパカパカと足音を鳴らして、 「ヤツらは聖書を上から下までぴっちり読み直して、神様の言葉を一つ一つ吟味して、そこから矛盾や抜け穴を捜して甘い|蜜《みつ》をすする。これが『|対十字教黒魔術《アンチゴツドブラツクアート》』———恐るべき『外敵一ならぬ、|忌《い》むべき『内敵』の正体です。|魔術師《まじゆつし》ってのは法の抜け道をつついて国を腐らせる政治家みてえなもんなんですよ。私|達《たち》みたいな人間がきちんとルールを守って一列に並んでパンをもらっているってのに、ヤツらは何食わぬ顔で横から列に割り込んでくる。だから変なトラブルが起きちまうんです。別にパンをもらうのをやめうとまでは言いやしませんが、大人しく列の後ろに並んでうってな感じですね」  そこまで行くと|流石《さすが》に十字教至上主義みたいに聞こえて|上条《かみじよう》はちょっと首を|傾《かし》げてしまうが、ようはみんなが守っている(とアニェーゼが信じている)ルールを無視する天草式を彼女は許せないようだった。ちなみに本職の『魔術師』ステイル=マグヌスはニヤニヤと笑ってアニェーゼの|憤《いきどお》りを軽く聞き流している。インデックスはちょっと困った顔をしていた。 (まぁ、魔術師だらけの『|必要悪の教会《ネセサリウス》』からすりゃ参った感じだよな、そりゃ。にしても、アニェーゼのヤツ。女の子の表情って変わるモンなんだなあ。さっきまで|緊張《きんちよう》してふらふらしてたくせに、不思議な生き物だ)  上条は話題を変えるために、辺りをキョロキョロと見回すと、どっちを見てもローマ正教のシスターさんばっかり目に映る。 「しっかしまあ、本隊は全部こっちに割けないとか|謙虚《けんきよ》な事言ってくるくせに、一声かけただけでよくこれだけの人達が簡単に集められるよな」  |呆《あき》れたような感心したような声を出すと、アニェーゼは笑った。 「数が多いのがウチの特権なんです。世界一一〇ヶ国以上に仲間がいんですから。日本にだってたくさん教会はありますし、今もオルソラ教会って新しい神の家を建設中なんで。確かこの辺りだったと思いますよ。すぐ近くです。完成すりゃ日本国内では最大規模になるとかって触れ込みだったと思います。野球場ぐらいの大きさがあったはずですけど」  パカパカ、とアニェーゼの靴底が柔らかい音を立てる。 「オルソラ?」 「はい。あの人は三ヶ国もの異教地で神の教えを広めたってな功績があって、自分の名前を冠する教会を建てる許可を特別にいただいたんで。上手な言葉を使う人だったでしょ?」  言われてみればそんな気がするが、上条の周りには日本語を|流暢《りゆうちよう》に使う外国人が多すぎてピンと来ない。もちろん、日本語しか使えない|上条《かみじよう》からすればありがたい事なのだが。 「教会が完成したら招待状でも送りますんで。ですがその前に、目先の問題を片付けちまいましょう。後味良くて素敵な結末を迎えられますように」  アニェーゼは不敵に笑って重そうな銀の|杖《つえ》を肩に|担《かつ》ぐと、カンカン、と両足のカカトでそれそれ地面を|叩《たた》いた。すると三〇センチ以上あった厚底が|綺麗《きれい》に外れて、普通のサンダルになる。 どうも修道服のファスナー同様、お好みに合わせて着脱可能な作りらしい。 「……、あの。動きやすいのは分かんだけどさ。だったら|日頃《ひごろ》から外しておけば?」 「うっさいです。おしゃれなんです。自分的こだわりポイントなんです」      6  午後一一時二七分。 『パラレルスウィーツパーク』の職買用出入り口に近い金網フェンスの辺りまで上条、インデックス、ステイルの三人はやってきた。  まだ戦場にも入っていないのに、上条は静電気を帯びた空気のようなものをピリピリと肌に感じていた。フェンスの向こうに広がる|闇《やみ》のどこから|誰《だれ》に|覗《のぞ》かれているのか分からないのだ。 実際には園内の限られた場所に敵が|潜《ひそ》んでいるだけなのだろうが、もうこの施設全部が巨大な敵の胃袋のように見えてしまう。 (こんな所に……)  |女の子《オルソラ》が一人取り残されるのは、どれほどの苦痛だろうか。まして、自分の周りを取り囲むのが剣や|槍《やり》を取り|揃《そろ》えた数十人もの凶人|達《たち》だとしたら。  くそ、と上条は思う。こんな事になるなら、やはり最初から無理してでもオルソラを学園都市へ入れておけば……と上条は苦い思いに駆られる。 「おいステイル」 「何だ?」 「お前、本当に時間内に全部の仕事を片付けられると思うか? ポイントの|破壊《はかい》と、『法の書』の探索、オルソラの救出。その全部だ」  上条の問いにステイルは少し|黙《だま》った。インデックスも|緊張《きんちよう》した顔で二人を交互に見ている、「……。正直、厳しいだろうね」ステイルはわずかに間を空けて答えた。「ただでさえ園内のどこに『法の書』やオルソラが保管されてるかも分かっていないんだ。それに、実はローマ正教には伝えていない情報が一つある」 「?」と首を|傾《かし》げる上条に、 「事件発生直後にイギリス国内にいたはずの|神裂火織《かんざきかおり》が消えた。おそらくかつての部下……いや、仲間を思っての行動だろう。天草式に決定的なダメージを与えようとすれば、あの聖人が|襲《おそ》ってくるかもしれない」 |上条《かみじよう》は|驚《おどろ》きと|緊張《きんちよう》で|喉《のど》が干からびるかと思った。  |神裂火織《かんざきかおリ》は、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の一件では本物の天使を足止めできたほどの|魔術師《まじゆつし》だ。直接戦っている姿を上条は見た訳ではないが、敵に回せばどれほど危険な相手かは想像に|難《かた》くない。  そして、神裂がステイルの予想する行動に出そうな事は、上条にも簡単に理解できる。 「だから|全《すべ》ての仕事を成功させようなんて思うな。ただでさえ|破綻《ほたん》気味の計画で、さらに危険要素が満載なんだ。最悪『法の書』が解読されるのだけは防ぐように立ち回るんだ」 「だったら……」  上条は、ステイルとインデックスの顔を見てから言う。 「だったら、最優先はオルソラで良いか?」 「僕は別に構わないさ。解読者がいなければ『法の書』は宝の持ち腐れだ。『法の書』の知識自体はその子の頭の中に入っているんだし、原典にも興味はない。それに『法の書』の持ち主はローマ正教なんだから紛失してもイギリス清教はどこも痛まないし 「私もそれでいいと思うよ。ていうか、とうまはダメって言っても勝手に突っ走っちゃうに決まってるもん。ただでさえ人数少ないんだからみんなでまとまらないとね」  インデックスとステイル、イギリス清教の魔術師|達《たち》は特に悩みもしないで答えた。  おそらくプロとしての事情もあるのに、何も事情を知らない|素人《しろうと》の意見を聞いて。 「分かった。ありがとな」  上条がそう言うと、二人はやや面食らったような顔をした。元々表情豊かなインデックスはまだ普通だが、ステイルは見方によっては|滑稽《こつけい》にも映る。  チッ、とステイルは舌打ちして、 「|突撃《とつげサ》前に気を|削《そ》ぐような気持ちの悪い|真似《ぽね》はするな。一一時三〇分には陽動が始まるんだ。それに合わせて内部へ侵入するんだから、そろそろ———」 「とうま、中に入ったら気を|緩《ゆる》めちゃダメだよ? ちゃんと私の後ろに隠れてて、私の言う通りに動かなきゃ危ないんだからね」 「はっ。何を言ってるんですかこの入は。相手が魔術師なら|俺《おれ》の右手は鉄壁だろ。お前こそきちんと俺の後ろに隠れてアドバイスしてりゃいーんですよ」 「「……、」」  上条とインデックスは意見の不一致によってやや|黙《だぽ》り込む。 「———そろそろ侵入するんだから、気を引き|締《し》めて欲しいんだけどね。本当に」  会話の輪から外されたステイルが平淡な声で言った|瞬間《しゆんかん》  ドン!! と、遠く離れた一般用出入り口の方から爆発が起きた。 「……、なあ。あれってホントに陽動か?」  |轟々《ごうごう》と燃え上がる火柱を見て、|上条《かみじよう》はやや|呆然《ぽうぜん》と|眩《つぶや》いた。 「あれぐらいのものをぶつけないと押し負けちゃうって事だよ、とうま。油断しちゃダメ」 「|騒《さわ》ぎも起きない。人払いと制り込みの|魔術《まじゆつ》を併用しているね、これは。ただ、術式にローマ正教のクセというか、|設《なぽ》りみたいな特徴が感じられない。……、天草式の術式、か。これほどまでの術式を天草式が持っているってのは|癩《しやく》だね」  ともあれ、時間は来た。  インデックスは鼻先がくっつきそうになるまで金網フェンスに近づいて、じっと何かを観察している。魔術的なトラップがない事を確認してから、三人はフェンスを乗り越えて暗い園内へと侵入した。  園内は外灯も落とされ、都会の中なのにぽっかりと|暗闇《くらやみ》に|覆《おお》われていた。ここだけ夜空の星明りが強いような|錯覚《さうかく》すら受ける。本来の観覧コースから外れた場所から侵入した三人は、キヤンピングカーぐらいの大きさしかないジェラート専門店と|杏仁豆腐《あんにんどうふ》専門店の間を通ってようやく観覧コースへと入る。  巨大な円形のコースだった。真ん中には水路というか水堀りのようなものがあって、三メートルほど下に水面があり、底の深さは分からなかった。外側のコースに沿って外周には小さな店舗がたくさん並んでいた。屋台のようにカウンターしかなく、店内で飲食するようには作られていない。水路内側のスペースは広場になっていて、たくさんのテープルや|椅子《いす》が並んでいるので、そちらへ持って行くようになっているらしい。  アニェーゼの話では円は一つではなく、オリンピックのマークのようにいくつもの円が|隣接《りんせつ》している作りになっているとの事だった。 「……、」  昼間に来れば楽しい思い出の一つでも作れただろうが、今は別次元だと上条は思った。|灯《あか》りがなく、無骨なシャッターに閉じられた小店舗がずらりと並ぶ光景は、それだけで園内から拒絶されているような気分にさせられる。人の顔を下から|懐中《かいちゆう》電灯で照らしたような不気味さの感じる場所だった。本来なら一番はしやぎそうな食欲少女インデックスも、ピリピリした表情で暗闇の先を見据えているだけだ。 「とうま、とうま。時間がないんだよ。捜すなら早くオルソラを捜さないと」 「そうだね、時間は三〇分しかないんだ。『渦』の位置が分かれば待ち伏せもできるだろうが、現状ではあまり期待もできない事だし」  夜に紛れるためか、珍しく|煙草《タバコ》を吸わずにステイルは言う。遠くから人の怒号や絶叫、何かを|壊《こわ》す音や爆発音などが聞こえてくる。ローマ正教と天草式が本格的に激突したようだ。 「あ、ああ。分かった」  上条が答えた|瞬間《しゆんかん》、ガン、という金属音が聞こえた。  は? と彼が音のした方———自分の頭上を何気なく見上げた|瞬間《しゆんかん》、  そこに、ジェラート専門店の屋根から飛びかかってきた四人の少年少女が宙を舞っていた。  彼らの手には、それぞれ西洋剣らしきものが握られている。 「っ!?」  |上条《かみじよう》がインデックスの胸を押して突き飛ばし、ステイルが彼女の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んで手元へ引き寄せた瞬間。  |斬《ザン》!! と、照り返す月光を残像にして、刃がまっすぐ振り下ろされた。ついさっきまでインデックスがいた場所へ、雷光のように。  少年が一人、少女が三人。全員上条と同い年ぐらいだった。服装も奇抜な修道服などではなく、普通に街を歩いているような格好だ。しかし、だからこそ逆に手に握られた西洋剣の|禍々《まがまが》しい輝きが強烈な違和感となっている。  ステイルは|忌々《いまいま》しげな声で、 「ハンドアンドハーフソード、バスタードソード、ボアスピアソード、ドレスソード。まったく、この国の人間は本当に|西洋圏《ばくたち》の文化がお好きだな!」  ファンタジー系のRPGに出てきそうな名前だと上条は思った。一メートル強から二メートル弱とサイズやデザインもまちまちで、中には何のためのデザインか分からない、先端だけが球根のように|膨《ふく》らんだレイピアのような剣もある。 (く、そ。陽動の方で全員引き付けられなかったのか!?)  四人の少年少女は、上条と、インデックス・ステイルの間に割って入るように地面へ着地している。通路の狭さを考えると、単純に|迂回《うかい》しての合流もできない。ステイルはルーンのカードをばら|撒《ま》き、炎剣を引き抜きながら、 「君にやる。死にたくなければ肌身離さず持っていろ!」  |懐《ふところ》から取り出した何かを、上条に向かって投げつけた。彼が慌てて受け取ると、それは銀でできた十字架のネックレスだった。 「これは……」  ……何に使うものなんだ? と聞こうと顔を上げた瞬間、上条の眼前にデッキブラシぐらいの長さの細身の両刃剣(ドレスソードと言うらしい)の切っ先が天草式の少女によって無言で、|轟《ごう》!! と突き出された。 「うあ!?」  上条は慌てて後ろへ跳んで|避《よ》けた。が、続く少女の|踏《ふ》み込みに対応できない。それでも|横薙《よこな》ぎの|一撃《いちげき》を避けられたのは、単に足がもつれて後ろへ転んだからだ。 「危ない、とうま!!」  インデックスの叫び声が聞こえた|瞬間《しゆんかん》、真上から少女のドレスソードがギロチンのように振り下ろされた。|上条《かみじよう》は転んだ勢いを殺さず、そのまま後ろへ転がる事で何とかこれを|避《さ》ける。  |魔術《まじゆつ》など一度も使われた様子がない。  こんな状況では右手に宿る『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』も何の役にも立たない。右手を振りかざしても両断されるのがオチだ。 「インデックス!」  上条は叫ぶが、間に武器を持った四人もの|刺客《しかく》がいるため|迂闊《うかつ》に飛び込めない。ステイルはインデックスを守るために炎剣を構えて立ち|塞《ふさ》がるが、刺客の内の二人が、まるで体当たりするようにステイルという盾ごとインデックスの|華奢《きやしや》な体を剣で貫き通す。  ドンッ!! という鈍い音。 「———……ッ!?」  目の前の光景に上条は心臓が止まるかと思ったが、冷静に観察すると一滴の血もこぼれていなかった。それどころか、体当たりした二人の刺客が、そのままステイルの体をするりとすり抜けた。  |昼気楼《しんきろう》。  ステイルの幻像が、最後に皮肉げに笑ってからゆらりと|虚空《こくう》へ消えた。それは天草式の刺客にではなく、|何故《なぜ》だかその先にいる上条の目を|真《ぽ》っ|直《す》ぐ|射貫《いぬ》いていた。  二人の姿はもうどこにもない。  四人の刺客の視線が残る上条へ集中した。 (ちょ、ま……。に、逃げるなら集合場所とか合図とか決めとかねーか普通!? ってかまた|囮《おとり》か|俺《おれ》は! 以前にもこんなのあったよな。確か|錬金術師《れんきんじゆつし》ん時とかに!!)  一人置いてきぼりにされた上条は慌てて敵に背を向けると全速力で走り出した。突然の行動で、天草式の判断は揺らいだようだ。上条が走りながら背後を見ると、刺客の内の三人があちこちへ散開するのが分かった。消えたインデックス|達《たち》を捜索するためか。  そして残る一人。  先ほど剣を向けた少女が一人だけ上条を|追撃《ついげき》してきている。速い。重たい剣を|担《かつ》いでいるのに鳥みたいな速度で追い駆けてくる。 (ま、ず……ッ! まっすぐ走っても逃げ切れねえ!)  上条は|焦《あせ》りと共に円形の観覧コースから外れて、店と店の間にある幅七〇センチもない狭いスペースへと飛び込んだ。ここはもう裏路地としても機能しない、ただの|隙問《すきま》だ。  上条は細い隙間を駆け抜けようとしたが、何かにつまずいて盛大に地面へ転がった。店の外装を変える予定らしく、壁には看板が立てかけてあり、地面には工具箱が置いてあった。上条はそれに足を引っ掛けたのだ。 (っつ! ……こんなトコに置きっ放しにしとくんじゃねえよ!)  このまま逃げ続けてもいつか少女の剣に背中を|斬《き》られる。|上条《かみじよう》はとっさに散らばった工具箱の中身を見回して、武器になりそうなものを捜した。が、すぐに無理だと知る。カナヅチを振り回した所で本物の剣に勝てるとは思えない。手当たり次第に物を投げた所で、|襲撃者《しゆうげきしや》なら一っ残らず真っ二つに斬りかねない。 (……、斬りかねない? それなら!!)  その時、ドレスソードを握った少女が、ドリフトのように靴底を滑らせて|隙間《すきま》の入口へやってきた。  彼は地面に散らばる様々な道具の中から歯磨き粉のチューブのようなものを|掴《つか》むと、それをとっさに後ろへと投げつける。  少女は飛んできた物の正体も見極めず、|横一閃《よこいつせん》にチューブを切り飛ばすと剣を振り上げながら、隙間の中へと飛び込んできた。 「!!」  上条はとっさに起き上がり、両手をクロスして頭を守る。  少女の剣は止まらない。|轟《こう》! と風すら|叩《たた》き斬る一撃は真上から真下へ、上条の両腕ごとその体を真っ二つにしようと|襲《おそ》いかかり、  がつっと。  鈍い音はしたが、腕に当たった剣は上条の|皮膚《ひあ》一枚すら斬れなかった。  歯磨き粉のチューブのようなものの中身は機械に使うグリス。  その粘着質の液体は刀にこびりつく血液や脂肪のように、剣の切れ味を圧倒的に鈍らせてしまう。もし少女の|得物《えもの》が日本刀のように重たい剣なら切れ味を失っても上条の腕の骨を叩き折れただろうが、細いレイピアを金銀財宝で|豪奢《こうしや》に飾りつけた|貴族用の剣《ドレスソード》ではそれも望めない。 「!?」  少女は慌ててドレスソードを構え直そうとしたが、 「遅っせぇ!!」  それより先に、上条は両腕を振って剣を|弾《ほじ》くと、少女の腰へ腕を巻きつけるようにタックルして、全体重をかけてそのまま一気に少女の背中を地面へ叩きつけた。頭を地面へぶつけないように、少女の後頭部へ手を回しているのは上条らしいお|人好《ひとよ》しな部分と言える。  激突と同時に、ごふ、と少女の口から酸素が吐き出され、彼女はそれきり動かなくなった。受身の取れない状態で柔道の投げ技を食らったようなものなのだから無理もないだろう。 「……、ちくしょうが。痛っつ」  一応少女が|怪我《けが》をしていない事だけを確かめると、上条はその場にへたり込んだ。頭上を見上げると、建物の壁で四角く切り取られた夜空がある。路地裏では見慣れた景色だ。  学園都市の路地裏のケンカは一般的な日本のそれとは常識というか、普通・平均・標準の基準点が大きく異なる。使い方によっては|拳銃《けんじゆう》より危険な異能力を振りかざす者や、そんな能力者と渡り合うための特殊兵器を持った不良などがゴロゴロいるのだ。|上条《かみじよう》が刃物を見ても腰を抜かさずに何とか体を動かせたのには、そういう慣れの部分も含まれているはずだ。  上条はしばらくその場で息を整えていたが、やがて少女の持っていたドレスソードを|掴《つか》んでみた。細い剣だが重心の関係か、意外に重く感じる。使えるかどうかしばらく考えたが、やっばり|諦《あきら》めた。剣なんて構え方も分からないから有効打を与えられるとは思えないし、仮にこんな真剣で有効打を与えたら相手がどうなるのか、想像するだけで背筋が凍る。切れ味をかなり奪ったとはいえ、|無闇《むやみ》に振り圃したくもない。  とはいえ、ここに剣を置いておくと、この天草式の少女の目が覚めた時に厄介な展開になるだろうと思って、上条はずるずると剣を引きずってその場を離れる事にした。 (くそ、インデックスとステイルは|大丈夫《だいじようぶ》か? オルソラはどうする。まず合流するのが先か、それとも一人でオルソラを捜すべきか?)  これは連絡手段や合流場所を決めておかなかった不備と言えた。とはいえ、まさか別行動を取る羽目になるとは考えていなかったのだから仕方がない。上条は今後どう動くか考えつつ重たい剣を引きずるようにして、店と店の|隙間《すきま》から円形の観覧コースに戻り  |瞬間《しゆんかん》。いきなり真横から何者かに体当たりされた。 「!?」  店の壁の陰からの完全な不意打ちだった。上条のバランスが崩れる。彼はとっさに剣を横へ放り捨てた。転んだ拍子に自分の体をえぐるのだけは|避《さ》けたかったからだ。  まるで先ほどと立場が逆になったように、上条は地面へ押し倒された。とはいえ、受け身は取れたのであの少女ほど重いダメージは負わない。続く|追撃《ついげき》で馬乗りにされるのを防ぐため、彼は両手の|拳《こぶし》を握って、 「……、ありゃ?」  拳を開いた。敵にしては何かおかしい。黒いフードに黒い修道服、この暑いのに手の先から足の先までぴっちりと肌の|露出《ろしゆつ》を抑えたシスターさんは、両腕を後ろへ回されて右手で|左肘《ひだりひじ》を、左手で右肘を掴んだ状態で真っ白なガムテープで腕をぐるぐる巻きにされていた。口にも同じテープが|貼《は》り付けてあった。良く見ると布のようなもので、しかもうっすらと崩れた漢字みたいな不気味な文字がびっしりと書き込んである。  なんというか、|誰《だれ》がどう見てもオルソラ=アクィナスだった。  ぺたん、と上条は|安堵《あんど》のあまり、全身から力が抜けるのが分かった。 「むぐー。むがむぐむむぐむーむーむぐぐむむぐむまむむむぐーむーむーむー」  |得体《えたい》の知れないお札っぽいものに口を|塞《ふさ》がれたオルソラは|上条《かみじよう》の顔を見て必死の形相で何かを伝えようとしていた。 「え? せっかく日本に来たんだから本場スモウンスラーを見てみたいって? あのな、日本人全員が|相撲《すもう》なんてやってるはずないだろ。お前はホントにおばーちゃんだな」 「むぐーっ!!」 「あれ? ちょ、ま、冗談だっ———ッ!?」  上条が弁解する前にかなり本気の頭突きが彼の|鳩尾《みぞおち》に激突した。上条とオルソラは|一緒《いつしよ》に地面に倒れ込む。最初はただむせ返っていただけの上条だったが、ふと自分の手に何か柔らかいものが当たっているのに気づいた。オルソラは気づいていないようだが、それは彼女の温かい鼓動を伝えてくる大きな胸だ。 (ぶっ! ぶがぁ!?)  上条は顔を真っ赤にしながらオルソラの下から|這《は》い出ると、彼女の口を塞ぐお札らしきものを右手の人差し指でなぞった。間接とはいえ唇を触られたオルソラはびっくりした顔になったが、直後にお札らしきものが自然に|剥《は》がれたのを見てその一〇倍ぐらい|驚《おどろ》いていた。 「あ、あの。あなた様はバス停でお会いした方でございますよね。でも、何で」 「お前を助けに来たからに決まってんだろ! ああくそ、事情は後で話すから。とりあえずここを離れないと!」  上条はあちこちを見回し、辺りに|誰《だれ》もいないのを確認してから、自分で放り投げたドレスソードを拾い上げる。  オルソラはややポカンと、上条に対してではなく、独り言のように口の中で|眩《つぶや》く。 「え、え? あの、本当に……私を、助けに? 『法の書』などとは関係、なく……?」 「んな小っせえ事情なんかどうだって良いだろうがッ[#「んな小っせえ事情なんかどうだって良いだろうがッ」に傍点]! っつかテメェは|俺《おれ》が古本一冊のためにこんなトコまでやってくるような物好きに見えんのか!?」  上条が頭を|掻《か》き|毟《むし》って叫ぶと、オルソラはビクッと肩を|震《ふる》わせた。 「は、はぁ。えと、あの、……それはそれはお世話様でございました」 「……、まぁ。刷にお礼なんかいらねえけど。っつかテメェはこんなトコで何やってんだ?|他《ほか》の天草式とかはどうしたんだよ?」 「ろ、ローマ正教と天草式がぶつかっているようなのでございますよ。私は混乱に乗じて何とか抜け出す事ができたのでございますけど。……それにしても、天草式はこういった拘束・監禁には慣れていないのでございましょうか」  ドレスソードを拾った上条は彼女の後ろへ回って腕の封も|破壊《はかい》する。  オルソラは拘束されていた自分の両手をさすりながら、 「あ、ありがとうございます。でも、あら? これは、どうやって……?」 「んー? そういう能力持ってるだけなんだけど……ややこしくなるから変な説明しない方が良いかもな、お前、いきなり科学側の能力開発の話とかされても困るだろ。っつか、お前この状況でものんびりしてんなあ。もっと真剣に逃げる事考えなきゃダメだろ」 「そんな事を申されましても、彼らは出入り口の辺りで激突してましたし、フェンスを越えようにも後ろ手に|縛《しば》られていてはどうする事ができるのでございましょうか? 仕方がないので|他《ほか》の出入り口を探していたのでご、ざい———ッ?」  オルソラが言い終わる前に、|上条《かみじよう》は彼女の腕を|掴《つか》んで再び店と店の問にある狭い|隙間《すをユ》へ飛び込んだ。そこに倒れている天草式の少女を見てオルソラは悲鳴を上げかけたが、 「……静かに!」  小声で注意を飛ばし、彼女の口を上条は右手で押さえつける。そのまま隙間を駆け抜けて、店の裏側の壁へ張り付いた。  バタバタという複数の足音が円形の表の観覧コースから|響《ひび》いてきて、通り過ぎていった。  上条やインデックス|達《たち》を追うというより、オルソラが逃亡した事に気づいたという感じだ。|得体《えたい》の知れない剣や|斧《おの》を握り、指示を飛ばし合う彼らの姿はどこまでも不気味だった。  足音が遠ざかるのを耳にして、上条は壁に背を預けたままズルズルと地面に腰を下ろす。オルソラもそれにならって、彼の|隣《となり》でお上品に座り込んだ。      7  上条達の座り込んだ場所はどうも天草式の死角に入ったようだ。店の裏手のエリアには背の低い木があちこちに植えてあって、身を|屈《かが》めると遠目からは見えなくなるのである。  が、逆に小さな安全地帯を見つけてしまった事で、上条達は身動きが取れなくなってしまった。断続的にすぐ近くの観覧コースを走る天草式の青年達の足音のせいで、ここから出れば即座に見つかると分かったからだ。  上条はインデックスやステイルが心配だった。こうしてオルソラの身柄を確保できた以上、彼らが今も『パラレルスウィーツパーク』から逃げ出さずに園内に|留《とど》まっているならそれは|無駄《むだ》な危険に他ならない。しかし、そうと分かっていても連絡を取る手段がないし、下手にここを離れて園内を捜し回るのも危険すぎる。 「特殊移動法ってのが午前〇時から〇時五分までしか使えないって話だから、逆に時間までここで粘り続けても天草式の計画を妨害できた事にはなるんだろうけど……」  上条は携帯電話の時計機能を見ようとしたが、|暗闇《くらやみ》に液晶画面のバックライトは目立つのでやめた。これを使って連絡が取れれば一番良いんだけど、と上条は思う。インデックスの〇円携帯電話は|三毛猫《みけねこ》が|咥《くわ》えていたし、ステイルの番号なんて知るはずがない。  彼が座ったまま足を伸ばすと、地面に置いてあったドレスソードの|柄《っか》に当たった。その音と感触に、|上条《かみじよう》の意識が内から外へと向き直る。そしてようやく自分の息が荒くなっているのに気づいた。額を手で|拭《ぬぐ》うと、|普段《ふだん》より大量の汗でびっしょりと|濡《ぬ》れていた。|緊張《きんちよう》のせいなのか、少し体を動かしただけでマラソンをした後のように発汗していた。  あら? とその事に気づいたオルソラは|袖《そで》の中からンースのハンカチを取り出す。上条は嫌な予感と共に座ったまま後ずさりしようとして、 「い、いや。いいですって別に気にしてませんからほらハンカチだって汚れるしってかバス停近くでもあったろこんなのむがっ!?」  言葉が終わる前に問答無用で花の香りのするハンカチを顔に押し付けられた。 「きちんと拭わなければ|夏風邪《なつかぜ》を引いてしまうかもしれないのでございますよ。まあ。そういえばバスの停留所近くでもこんな事をやったような気がするのでございますけど」 「おんなじコメント八秒前に言ったよ|俺《おれ》! お前ホントにおばーちゃん的に人の話聞いてねーんだなってか苦しっ、苦しい!! お願いですから口と鼻は|塞《ふさ》がぐうっ!?」  やや酸欠になった上条は必死になってハンカチ|攻撃《こうげき》から逃れようとしたが|無駄《むだ》だった。オルソラは思う存分ハンカチを動かすと、ビカァァ! と後光が見えるような笑みを浮かべる。 「あの、あなた様は確か学園都市の方でございましたよね?」 「げほっ、うえ。……ん? まぁそうだけど」 「では、その学園都市のあなた様が|何故《なぜ》このような所にいるのでございましょう? ローマ正教の動きと無関係とは思えませんし、でも学園都市の中に教会はなかったと存じ上げてございますけど」  不思議そうな声だった。  対して、上条はあんまり重要視していない感じで、 「まぁ、俺はちょっと特別でね、イギリス清教に知り合いがいんの。今回は何だか知らない内に巻き込まれて、何だか知らない内にヤツらの手伝いをさせられてるだけってトコ」  ピクリ、とオルソラの肩が動いた。  聞き捨てならない事を聞いた、というような動き方だった。 「えっと、これって悪かったか? お前って確かローマ正教だったっけ。やっぱローマ正教とイギリス清教って仲が良くないモンなのか?」 「いえ、そうではございませんよ」  オルソラはゆっくりと、何かを考えるような素振りを見せた後、 「確認させてもらいますけど、あなた様はイギリス清教からの協力要請があって手伝う事になったのでございましようか?」 「そうだけど」  上条が適当に|頷《うなず》くと、オルソラは『んー……』としばらく動きを止めて、 「あら? 少々汗をかいているのでございますね」 「いや|汗拭《あせふ》きはホントにもう良いから!」 「つまりあなた様はローマ正教ではなくイギリス清教の筋をお持ちでございますか」 「うっ、話が戻ったり進んだり!? い、いや、そんな大それたモンじゃないけど。あ、言っておくけどコネなんて使えねえぞ。|俺《おれ》は学園都市の住人なんだからな」 「そうで、ございますか」  オルソラは|何故《なぜ》だか|安《あんど》堵したように笑った。 「|左様《さよう》でございますよね。あなた様のような方は、私|達《たち》のような教会世界に|関《かか》わりを持たない方がよろしいに決まっているのでございましょう」 「……、そうなのか? ふーん、確かに俺はこんなの持っててもしょうがないけど」  と、|上条《かみじよう》は別れ|際《ぎわ》にステイルから投げ渡された十字架を見た。どんな効果があるのか知らないが、右手で受け取ってしまったので、すでに何の役にも立たなくなっているだろう。 「まぁ。それはイギリス清教のお知り合いからいただいたものでございましょうか?」 「分かるの?」 「一口に十字架と言いましても、ラテン十字、ケルト十字、マルタ十字、アンデレ十字、司教十字、教皇十字と様々な形、種類のものがあるのでございますよ」 「ふうん、そういうモンなのか。けど俺が持っててもしょうがねえしな、これ。本職の人間以外が持ってるのも悪い気がするし、良かったらお前が預っててくれ」  何気なく言ったつもりだったが、オルソラは飛び上がりそうになった。 「あら、よろしいのでございますか!」 「いや別に良いけど。ステイルがどういうつもりで渡したか知らないけど、大した意味とかないだろ。だって俺が|魔術《まじゆつ》使えないのは知ってんだし。……あいつ皮肉好きだし分かってて渡したんならやっぱり嫌がらせだったのかもな。後、この十字架はもう何の価値もなくなってると思うそ。俺は魔術の事とかサッパリだけど、何せ右手で触れちまったからな」  オルソラに十字架のネックレスを手渡しながら上条は言った。  と、彼女は何故か握手をするように上条の手を|掴《つか》み、さらにもう片方の手で包むようにして、うだけ、お願いがあるのでございます」 「え、な……何だよ?」  不覚にも、予想以上に柔らかい感触に上条の声が裏返りそうになる。 「あなた様の手で私の首にかけてもらえないでございましょうか」 「は? まぁ、構わねえけど」  上条が答えると、オルソラはネックレスをかけやすくするためか、|瞳《ひとみ》を閉じて|顎《あご》を上げた。何だかキスでも求められているような|錯覚《さつかく》がして、上条は慌てて視線を落とす。と、目線の下では、ただでさえ大きな|膨《ふく》らみが顎を上げて胸が反らされた事でさらに強調されていた。  ぶがあっ!? と|上条《かみじよう》は吹き出しそうになる。 「? どうしたのでございましょう?」 「い、いや……何でもないです! いや本当に!」 「?」  目を閉じたまま不思議がるオルソラに、上条は|焦《あせ》りながらネックレスの細い|鎖《くさり》の連結部を外した。それからオルソラの白い布で覆われた|喉《のど》に巻きつけるようにする。やってから、彼女の後ろへ回れば良かったと上条は思った。前からこれをやると両腕を回して抱き着こうとしているように見えて一気に|緊張《きんちよう》する。彼女の首の後ろに指先が当たる。カチカチと何度か手が|震《ふる》えた後、ようやく鎖の連結部を|繋《つな》げる事ができた。  オルソラは何かに満足するように、胸元にある十字架を何度か指で|撫《な》でた。圭条が何気なく彼女の指の動きを追うと、大きな|膨《ふく》らみに目が吸い寄せられているのに気づいて慌てて|逸《そ》らす。 一度意識し出すと|駄目《だめ》になりそうだった。上条は|沈黙《ちんもく》に耐えられず、何でも良いから話題を探し回って、 「そういえば、お前って『法の書』の読み方が分かるんだっけか?」 「読み方と言いますか、暗号文の解読方法でございますけど……」  のんびりとした後に、彼女はハッとしたように身を固くした。 「あー、違う違う。解読法を教えて欲しいってんじゃなくて、どうしてお前は『法の書』なんて調べようとしたんだろうなって思ってさ。あれって結構危ない本なんだろ?」  オルソラはしばらく上条の顔を眺めていたが、やがてゆるゆると力を抜いて、 「力が欲しかったから、という事で間違いないのでございますが」オルソラはゆっくりとかぶりを振って、「あなた様は、|魔道書《まごうしよ》の原典というものをご存知でございましょうか。また、原典はどんな方法を使っても|破壊《はかい》できないという話は」 「ん。ああ、人づてだけど一応な。何だっけ、魔道書の文字とか文節とか文章とかが、|魔法陣《まほうじん》みたいになっちまってるんだっけ?」 「はい。魔道書とは、つまり設計図でございます。雷を扱う魔道書とは、同時に雷を出す発生装置になってしまうという事でございますよ。原典クラスともなれば人の魔力などなくとも、地脈や竜脈などからわずかに漂う力を増幅して、半永久的に活動を続ける自己防衛魔法陣を形成してしまうのでございます」  オルソラはわずかに何か考える様子を見せた後、 「今の技術では、こうなった魔道書を処分するのは不可能でございましょうよ。せいぜいが封をして、|誰《だれ》にも読めないようにする事ぐらいしか」  ですが、とオルソラは続けて、 「あくまで『今の技術では』なのでございます。原典が一種の魔法陣であるのなら、魔法陣を崩すように一定の配置で文字や文節を付け足す事で、レバーを操って汽車のレールを切り替えるが|如《ごと》く、|魔法陣《まほうじん》の機能そのものを逆手に取る事もできるはず———つまり、原典を自爆させる事も可能なはずでございましよう」  そして最後に、彼女はキッパリと言う。 「|魔道書《まどうしよ》の力なんて、|誰《だれ》も幸せにしないのでございますよ。それを巡って争いしか生まなかったのでございますね。ですから私は、ああいった魔道書を|壊《こわ》すために、その仕組みを調べてみたかったのでございます」  |上条《かみじよう》は改めてオルソラの顔を見た。 『法の書』の解読法を編み出したなどというから、『法の書』の力を手にするために|躍起《やつき》になって頭を巡らせているものだと思っていたが、真実は全く逆だった。オルソラは『法の書』の危険な力を奪いたいがために、魔道書を調べているだけだったのだ。上条はその事に、ほんのわずかに|安堵《あんど》して、  ゴン!! という鈍い音を聞いた。  店の向かい———円形の観覧コースの方からだ、と上条は思った。が、慌てて飛び上がる前に、視界に何か映った。ヒュン、と夜空に何かが舞ったのだ。  それは人間に見えた。  赤い髪の、黒い服を着た神父に見えた。 「す、て……いる!?」  上条が言い終わる前に、ステイル=マグヌスは勢い良く地面へ落下した。今まで彼らの姿を隠していた背の低い植え込みの木を押し|潰《つぶ》すように、背中から地面へ激突する。彼の衣服は所々が鋭い刃物で切り裂かれ、その肌から血がにじんでいた。 (店の向こうで大きな音がして、こっちまで飛んできたって事は、まさか、あそこから飛び越えてきたのかー!?)  上条が|得体《えたい》の知れない想像をしていると、ステイルは倒れたまま、 「く、そ。上条、|当麻《とうま》か。何をやっている、早く逃げろ!!」  え? と上条が思った|瞬間《しゆんかん》、彼が背中を預けている店の、二つ横の店の壁が生き物のように大きく盛り上がった。 「!?」  何が起きているか理解できない上条の前で、まるでシャチが海面を突き破ってジャンプするように、店の壁を|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に砕いて何者かが飛び出してきた。入影の背後で支えを失った建物が崩れていく。ガラガラと、人の腕ほどもある太さの建築木材がすぐ近くに降り注こうが、その人物は少しも動じない。あまつさえ笑みすら浮かべていた。  体は細く長身なのに、|相撲《すもう》取りが着ていそうなほどサイズの合わない大きなTシャツとジーンズを|穿《は》いた二〇代中盤の男だった。Tシャツの柄は白地の上に、右胸辺りを中心に赤いクロスが走っている。ジェルか何かを使って意図的に毛先を|尖《とが》らせた髪型をしていて、何より特徴的なのはその髪の色か。圧倒的に黒い。わざわざ黒の髪染めで染め直したであろう髪は、クワガタみたいに妙な光沢すら放っている。足元のバスケットシューズは|靴紐《くワひも》が異様に長く、一メートル以上もあった。あれでは間違って|踏《ふ》みつけても、余裕がありすぎて転ぶ事はないと思う。 首には革紐のような素材のネックレスが掛けてあって、そこには直径一〇センチぐらいの小型扇風機が四つも五つもぶら下げてあった。  何を|狙《ねら》っているのかいまいち良く分からないセンスだ。  しかしもちろん、一番センスが理解できないのはその右手が握っているものだろう。  フランベルジェ。  全長一八〇センチ強もの長さを誇る一七世紀フランスの両手剣。刃の表面が波打っているのが特徴的で、その波型刃によって傷を広げるように作られている。  本来は鉄か、|儀礼《ぎれい》用ならさらにその上に|金箔《きんぱく》が使われるものだが、刀身は真っ白だった。完成まで後一歩のプラモデルのようだった。素材は恐竜の骨でも削ったのか、それとも特殊な炭素の塊か、はたまた航空素材か。単なる高校生の|上条《かみじよう》が少し見たぐらいでは判断がつかないが、少なくとも金属とは思えない。  どう考えても現代社会にマッチしない大剣を、その男は片手で軽々と握っていた。 「くっく。なあにをやっとんのよイギリス清教の神父様。おら、英国紳士の誇りはどこ行った? この|建宮斎字《たてみやさいじ》に見せてみろ。いかんよなぁ、そんなんじゃ女の一人も守れんぞ」  チッ、とステイルは|忌々《いまいま》しそうに舌打ちしてルーンのカードを取り出す。  彼は目の前の危機である大剣の男、|建宮斎字《たてみやさいじ》など見ていない。その先———|壊《こわ》れた店舗の向こうの観覧コースで身構えている、一人の白いシスターの行く末を最重要視している。 「お前、守りながら戦ってきたのか……?」  |上条《かみじよう》は|呆然《ぼうぜん》と|呟《つぶや》いた。  ステイルの|魔術《まじゆつ》は陣取りゲームみたいなものだ。ルーンのカードを|貼《は》った場所でのみ、強力な魔術が使えるようになる。そんな彼にとって今回の戦いは鬼門だったのだろう。常に移動しながらの|戦闘《せんとう》では、彼は陣取りゲームをしている暇もなくなってしまう。ましてその状況でインデックスを守りながら戦うとなっては、文字通り体でも何でも盾にするしかない。 「余計な事は、考えるな」ステイルは血でも吐きそうな声で、「……よし、オルソラ=アクィナスは確保、できているね。相変わらず、その悪運は幸か不幸か判別しにくいものだ。……とにかく、後は|隙《すき》を作って逃げるぞ。無理にあれを倒さずとも、逃げ切れれば僕|達《たち》の勝ちだ」  ステイルは|震《ふる》える足で立ち上がろうとしたが、上手く力が入らないらしい。  建宮斎字はそんな様子を愉快そうに眺めてから、視線をオルソラへと移した。 「それでなあ、何だってこんな所ぞお前と鉢合わせにゃならんのよ?何度も説明したはずなんだがなあ。オルソラ=アクィナス。我々は|貴女《あなた》に危害を加えるつもりはない」  説明している本人が、大して説得力を求めていないような|薄《うす》っぺらな声だった。  言外に、オルソラを逃がしてしまった自分の部下に失望するような色すらある。  オルソラは、壊れた店を、傷ついたステイルを、そして建宮のフランベルジェを見て、 「確かに、あなた様のお言葉は希望に満ちていたと存じ上げてございますが。私は武器を振り回しながら訴える平和など信じられないのでございますよ」 「無念だなあ。ローマ正教などに戻っても仕方がないだろうによ」  建宮はまるで肩の調子を確かめるように大剣を握った右手を軽く振り回した。 「……、」 上条はオルソラを|庇《かば》うように、無言で彼女の前に立つ。  武器は持たない。慣れない物を振り回したぐらいで勝てる相手ではない。使えもせず、重たいだけの武器なら持たない方がマシかもしれない。  建宮は最初に上条の顔を、次に彼の足元に転がっているドレスソードを見て、 「武術の構えもなければ|霊装《れいそう》もなし。衣服に隠された魔術的記号などもなし。本当の意味で丸腰、と。ふん、素人[#「素人」に傍点]とは剣を合わせるつもりもなかったんだが……そうもいかんようじゃねえの。お前さん、その剣は|浦上《うらがみ》から奪ったもんか?」  ざわざわと、建宮の輪郭が|歪《ゆが》んで|膨《ふく》らむような、見えない圧力が噴き出した。  上条にはそんな人名に覚えはなかったのだが、 「テメェの部下ならそっちで寝てんぞ。後頭部は守ってやったから死んじゃいねえけどな」 「……、死ななきゃ良いって訳じゃねえのよ。ナメてんのかテメェは」  |建宮《たてみや》の口調から、ふざけたような色が消える。  |上条《かみじよう》はその様子に、建宮の人間性を見た気がした。相手はただの化け物ではなく、自分の仲問の身を思って怒れる人間なのだ。 「テメェがまだそこで|誰《だれ》かのために戦えるような人間なら、剣を引いてくんねえか。|俺《おれ》はできればテメェみたいな|奴《やつ》とは戦いたくない」 「そうしたいのは山々なんだがなあ、こちらにも事情があるのよ。確かに我らの主敵はローマ正教だが、そこに|繋《つな》がりを持っているならイギリス清教とて見逃せんよなあ。ついでに、そんな連中にオルソラを渡す訳にもいかんのよ」  建宮は二メートル近い大剣をチアリーダーのバトンのように頭上で気軽に振り回し、 「という訳で、すでにお前さんも|攻撃《こうげき》対象という訳よ。もっとも、今すぐこの場で|膝《ひざ》をついて降参するというのなら余計な血を見る必要もねえんだけどよ」  建宮は笑いながら、しかし残念そうに言った。  自分の口で提案しておきながら、すでに相手がどう答えるか予測がついているのだろう。  確かに、上条だって怖い。彼は『プロの|魔術師《まじゆつし》』というものがどんな人間なのかを知っている。中でも一番厄介なのが、魔術を過信しない魔術師[#「魔術を過信しない魔術師」に傍点]だ。アウレオルスの|錬金術《れんきんじゆつ》のように絶対的な力を持つ者は、|故《ゆえ》に切り札を一つしか用意しない。対して、|土御門元春《つちみかどもとはる》のように切り札へ過度な自信を持たない者は、それを補うために無数の手札を|揃《そろ》えておく。  建宮|斎字《さいじ》は、明らかに後者のタイプだ。魔術など使わずとも、あのフランベルジェを|一閃《いつせん》しただけで上条の首を|斬《き》り飛ばせるだろう。傷一つ負わずに(インデックスを|庇《かぽ》っていたのもあるだろうが)あのステイルを|撃破《げきは》した手並みを見るだけで相手の底の深さを思い知らされる。  まともに相対して勝てる相手ではない、と上条は|震《ムる》える。  ちよっと足が速いだけの子供がいきなりオリンピックの陸上選手と勝負するようなものだ。  大人しく降伏、するべき、か?  実力で|敵《かな》わなければ、それを埋められるだけの策も準備もないのだから。  だけど、 (ステイルは、どうなる?)  神父は身を|屈《かが》めたまま、荒い息を吐いて建宮を|睨《にら》みつけている。  ステイルは、彼なりの目的があって、それがインデックスのためになると信じて、この場に立っている。それなら、彼は絶対に|諦《あきら》めない。絶望的な現実も、上条の言葉も、ステイル=マグヌスという男を止める|枷《かせ》にはならない。  そして、止められなければ。  その先に待っているものなど、誰の目から見ても明らかだ。 (インデックスは、どうなる?)  少女は今にも走り出して、|上条《かみじよう》と|建宮《たてみや》の間に割って入りそうな気配を発している。  ステイルと建宮がぶつかり、皿度でも|戦闘《せんとう》が始まってしまえば、もう降伏という言葉のカードは使えなくなる。そうなれば、きっと彼女は|魔術《まじゆつ》の|素人《しろうと》である上条を逃がすためにどんな事でもするだろう。たとえ戦力がなくても、互いの実力差がはっきりしていても、上条自身が望んでいなくても。  最後に、 (オルソラは、どうなる?)  ローマ正教のシスターは上条と建宮の顔を、不安そうな目で交互に見ていた。  建宮|斎字《さいじ》は『法の書』の持つ知識を、技穂を、力を欲している。それならオルソラはこの場で殺される事はない。むしろオルソラに流れ弾が当たらないように気を配るはずだ。  だが、ここでオルソラを連れ去られれば彼女は天草式の本拠地へと連れ込まれる。オルソラが『法の書』の解読法の伝授を拒めば、その先に何が待っているかなど分かりきっている。そして建宮が、天草式が求めているのはオルソラ=アクィナス自身ではなく『法の書』の解読法だ。必要な情報を得た後に、彼らがオルソラをどうするかなど考えたくもない。 『読み方と言いますか、暗号文の解読方法でございますけど……』  ———彼女は『法の書』の力なんて求めていなかったのに。 『力が欲しかったから、という事で間違いないのでございますが』  ———こんな事態が起きるのを防ぐために努力してきたのに。 『|魔法陣《まほうじん》の機能そのものを逆手に取る事もできるはず———つまり、原典を自爆させる事も可能なはずでございましよう』  ———その死にもの狂いの努力を|嘲《あざけ》り、|踏《ふ》みにじって、己の私欲のために利用しようとする者が、彼の目の前で笑いながら立っている。 『|魔道書《まどうしよ》の力なんて、|誰《だれ》も幸せにしないのでございますよ。それを巡って争いしか生まなかったのでございますね。ですから私は、ああいった魔道書を|壊《こわ》すために、その仕組みを調べてみたかったのでございます』  上条は、ドレスソードを足で横へどけて、一歩前へ踏み出した。  無様だろうが|滑稽《こつ い》だろうが、今ここで|拳《こぶし》を握って立ち向かえるのは上条だけだ。  その握った五本の指から、力を抜く理由がどこにある? 「……なめてんじゃねえぞ、テメェは」  上条は口の中で|眩《つぶや》いた。ただでさえ固く握り|締《し》めた右の拳に、さらなる力を加える。  その光景を見ていた建宮斎字は、心の底から残念そうなため息をついて、 「なんて目ぇしやがるんだ。そんな目で|睨《にら》まれちまったら|哀《かな》しくなっちまうじゃねえの。いやいや本当に哀しいねえ。やるべき事は分かっちゃいるんだが、こういう|真《ま》っ|直《す》ぐな反応されるとそれだけでお前さんを殺したくないって気持ちが芽生えちまうのよ」  |建宮《たてみや》は波状の大剣・フランベルジェを軽く揺らして、 「けどまぁ、やるってんなら仕方がねえ。今日がお前さんの命日だ」  言葉と同時。  ゴッ!! という爆音を|上条《かみじよう》は聞いた。ただ建宮の靴底が地面を|蹴《け》りつける音が、すでに爆発のエネルギーすら帯びている。上条の体が|緊張《きんちよう》に凍る前に、相手はもう最初の一歩を|踏《ふ》み込んでいる。刃が届くまであと一歩。  腕力の伝わった大剣の刃の光に、上条の心が蛇に|睨《にら》まれたカエルのように|縛《しぱ》られそうになる。  反射的に両手で顔を守ろうと思ってしまうが、その程度で防げるはずがない。 (ぐ、ぐ……ッ! び、びるな、動け!!)  上条はガチガチになる体へ必死に命令を下して、ようやく最初の一歩を駆け出す。後ろでも横でもなく、前へ。わずかに斜め右方向へ|突撃《とつげき》する上条に、建宮はむしろ|怪誇《けげん》そうな顔をした。素手の人聞が、わざわざ自分から射程圏内へ飛び込む理由が分からなかったのだろう。 「ふっ!!」  吐息と共に、建宮の剣が真上から真下へ、雷光のように振り下ろされる。  ヒュガッ!! という夜気を上下に引き裂く|轟音《ごうおん》。  弾丸のように駆け出した上条を、正面から真っ二つにしようという必殺の|一撃《いちげき》。 「……ッ!」  今度こそ、上条は『わずかに』ではなく、全身|全霊《ぜんれい》を込めて真横———右方向へ直角に飛んだ。宙を舞う汗の|珠《たま》を巨大な刃が両断する。それまであった慣性の力を全く無視した飛び方で、足首に重い負荷がかかる。着地に失敗しかけて上条はバランスを崩し、横手にあった店の裏壁にドスンと激突する。 「しっ!!」  そこへ、建宮は体ごと回転するように、振り下ろした刃をそのまま跳ね上げて真横へ|薙《な》ぎ払う。そして薙ぎ払ってから彼は気づいたようだった。上条が、壁に背を預けたまま不敵に笑っている事に。 (いける、か!!)  上条は全力で身を|屈《かが》める。  相手が剣を振り下ろした状態で、こちらが横方向へ逃げれば、普通は剣を真横に薙いで追撃してくるだろう。わざわざ剣を振り上げ直すとなると、一動作余分が出るからだ。  彼は思い切り身を低くしたまま、地面を|舐《な》めるように建宮へと突撃する。『真横へ薙ぐ攻撃』以外の手は考えなくて良い。仮に建宮が『上から振り下ろす攻撃』を繰り出そうとすれば絶対にワンタイミング遅れる。その場合は、建宮が剣を振り切る前に上条の|拳《こぶし》の方が届くのだから。  そして、|建宮斎字《たてみやさいじ》は|上条《かみじよう》の第一予想通りに剣を真横へ|薙《な》ぎ払った。  上条はそれを頭上スレスレでやり過ごし、心臓が恐怖でわし|掴《つか》みにされかけながらも、 「おっ、ォォおおおおおおお熔おおおおお!!」 叫んで、|拳《こぶし》を握って、建宮の|懐深《ふところ》くへと勢い良く|踏《ム》み込む。  味方であるはずのオルソラさえ、その気迫に息を|呑《の》む。  両手剣で|渾身《こんしん》の横薙ぎを振るった直後の建宮はその拳に対処する事はできず、  その時。フッ、と建宮斎字の姿が消えた。  目の前にいたはずの建宮が、ほんの一メートルほど後方へ下がっている。真横に振るいきっていたはずの剣は、|何故《なぜ》かすでに真上に構えられている。  まるで、時間を巻き戻してやり直したように。  いや、幻覚か何かを使って、上条|当麻《とうま》を|誘《さそ》い出したように。 「あ……? ———ッ!?」  上条が|悪寒《おかん》と共に真横へ転がった|瞬間《しゆんかん》。  |轟《ごう》!! と紙を引き裂くように、真上からの|一撃《いちげき》が地面を真っ二つに切断した。あまりの|摩擦《まさつ》のせいか、えぐれた土がマグマのようなオレンジ色の光を放っている。  |誰《ぽれ》がどう考えてもまともな物理法則に従った一撃とは思えない。 (|魔術《まじゆつ》か———ならッ!)  上条は握った右手へ力を込める。あの剣が魔術による一品なら、右手で触れただけで|破壊《はかい》できるかもしれない。そう思って、上条は向かってくる刃へ拳を突き出そうとしたが、 「違う……! |駄目《だめ》だよ!とうま!!」  インデックスの叫び声に、上条はかろうじて拳を止める事ができた。無防備な彼を守るべく、幼い少女が考えなしに走り出したのを上条は視界の端で|捉《とら》える。 (うそだろ……魔術じゃねえってのか!?)  建宮の挙動。  目に見えない速度で後ろへ下がったのも、地面を割った|渾身《こんしん》の一撃も。  あれが|全《すべ》て、ただの力技なのか、と上条は|戦標《せんりつ》する。 「駄目だ、来るな! インデックス!!」  上条は叫ぶが少女の心に届かない。建宮の刃が音すらも切断して振り下ろされようとする。右手の一撃でどうにかなると考えていた上条は、次の手を考えてもいない。今から考える暇もない。眼前に迫る刃に、上条は両目を大きく見開いたが、 「|原初の炎《TOFF》、|その意味は光《TMIL》、|優しき温もりを守り厳しき裁きを与える剣を《PDAGGWATSTDASJTM》!」  ステイルの叫びと同時、ドン!! と酸素を吸い込んで炎が爆発する音が|響《ひび》く。彼の握る炎剣が夜の|闇《やみ》を引き裂き、|建宮《たてみや》の意識が|一瞬《いつしゆん》、そちらへと強制的に|誘導《ゆうどう》させられた。 「くそっ!」  |上条《かみじよう》はその間に、右を向いている建宮に対して反対へ飛ぶ事で、かろうじて距離を取る。  いや[#「いや」に傍点]、取ろうとした[#「取ろうとした」に傍点]。  走る上条に合わせるように、あらぬ方向を見る建宮が、そのまま頗るりとした動きでついてきた。彼の足は動いていない。まるで氷の上を滑っているような不自然な動作だった。 (|魔《ま》、じゅ……っ!?)  上条の背筋が凍った瞬間。  ぐるん!! と振り返りざまに竜巻のような剣の|一撃《いちげヨ》が|横薙《よこな》ぎに|襲《おそ》いかかってきた。上条はとっさに身を|醐《かが》めて|避《さ》けようとしたが、  ゴッ!! という重たい|衝撃《しようげき》が、|回避《かいひ》したはずの上条の|脇腹《わきばら》に直撃した。  良く見れば、透明な氷で作ったサッカーボールのようなものが体にめり込んでいた。上条がそれに気づいた途端、氷のボールは絵の具で塗り|潰《つぶ》すように、不自然に消えていく。上条の体は氷の一撃で強引に地面へ押し倒され、ごろごろと転がっていった。  ———時聞は少し戻る。上条が建宮と激突したその瞬間まで。  その少年が切り殺されそうになった瞬間、インデックスは思わず走り出していた。 (あれが、天草式……)  インデックスは走りながら|戦深《せんりつ》する。  戦標しながら、感心してしまう。  天草式の使う術式は、それだけなら何の変哲もない。少なくともステイルの『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』やアウレオルスの『|黄金練成《アルス=マグナ》』のような派手で特殊で強力な攻撃力を秘める訳でもない。  しかし、彼らはそれを逆手に取る。  |神裂火織《かんざをかおり》の使う鋼糸術『|七閃《ななせん》』が最も特徴的だが、彼ら天草式の基本戦術は一言で言えば『偽装』だ。|魔術《まじゆつ》の攻撃かと思えば実は単なる|手品《トリツク》だったり、|手品《トリツク》かと思えば本物の魔術による必殺の一撃が襲いかかってくる。  インデックスは走る。  上条と建宮、二人のいる場所が異様に遠く感じる。  魔術とそうでないものは、当然ながら防御方法も大きく異なってくるし、読み違えれば手痛いダメージを負う羽目になる。  インデックスには『|強制詠唱《スペルインターセプト》』という魔術用の封じ手がある。魔術とは人が考えて実行するものだから、詠唱中に人の頭を混乱させるような|台詞《せりふ》・行動を取れば暴走させる事ができる。例えるなら、早口言葉に挑戦している人の耳元でデタラメな言葉を吐いてわざと間違いを|誘発《ゆうはつ》させるように。  しかし、天草式に『|強制詠唱《スペルインターセプト》』は通じない。  彼らの|呪文《じゆもん》や護符や|魔法陣《まほうじん》はとにかく特殊で、|普段《ふだん》の中の何気ない仕草や|台詞《せりふ》の中に秘められた、わずかな宗教様式を拾い上げて術式を組み上げるのだ。そしてあの|建宮《たてみや》とかいう人間は、コンマ数秒の間に『|魔術的《をじゆつてき》に意味のある仕草』をし、それを戦いの中で一〇回二〇回と重ねる事で魔術を発動させていた。  インデックスの声や腕では、コンマ数秒の間に完了してしまう『一動作』の途中で『|強制詠唱《スペルインターセプト》』を割り込ませられないのだ。何かをしようと思った時には、もう建宮の『一動作』は終わっているのである。建宮の魔術を妨害したければ、彼が術式の発動条件に組み込んでいる剣術の動きそのものについていく必要がある。しかし当然ながら、インデックスにはそんな達人めいた体術を駆使する|術《すべ》など持たない。  結論からすれば、インデックスが飛び出していった所で建宮|斎字《さいじ》を|退《しりぞ》ける事などできない。 その力量差———単純な力の『量』だけでなく、圧倒的に彼女とは相性の悪い力の『質』の面も含めて、インデックスは魔術のプロだからこそ逆に良く分かってしまう。  |上条当麻《かみじようとうま》が、魔術の氷弾による一|撃《いちげき》を受けて地面を転がった。  建宮斎字は、まるで|金槌《かなづち》で釘を打つように勢い良くフランベルジェを振り上げる。  インデックスは、その攻撃を止める術を持たない。 『|強制詠唱《スペルインターセプト》』も、天草式の術式に対しては効果は|薄《うす》い。 「とうま!!」  だけど、インデックスの足は止まらない。  もはや、先の事など考えもせずに。  ステイル=マグヌスは無防備に飛び出していくインデックスの姿を見て心臓が止まるかと思った。彼女は戦う力を持たない人間だ。建宮に立ち向かえば一秒も待たずに両断されるだろう。 「く……っ!!」  手の中には炎剣が一本きり。『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』を発動するにはルーンのカードを再配置するだけの時間が足りない。  今すぐ飛び出せば、インデックスより先にステイルは建宮と激突できる距離にいた。炎剣で攻撃し、相手が剣で受け止めた|瞬間《しゆんかん》に爆破すれば目くらましぐらいはできるかもしれない。  しかし、ステイルと建宮の間を|塞《ふさ》ぐように、上条が立っている。  炎剣を建宮に向ければ、上条の体ごと貫いてしまう。  炎の神父は一瞬だけ、苦いものを|噛《か》み|潰《つぶ》すように顔を|歪《ゆが》めた。  |葛藤《かつとう》は数瞬。それが終えた|頃《ころ》には、すでに|瞳《ひとみ》は決意の光を宿している。 (ずっと昔に、誓ったはずだ———)  ステイル=マグヌスは唇の切れた口で必死に呼吸を整え、 (———『安心して眠ると良い、たとえ君は|全《すべ》てを忘れてしまうとしても、僕は何一つ忘れずに君のために生きて死汲』と!! )  一番大切なものを守るために、彼は少年の背中を見据えて炎剣を構えた。  体の中の酸素を全部吐き出させられ、意識が|朦朧《もうろう》とする|上条《かみじよう》は、眼前で大剣を振り上げる|建宮《たてみや》を見た。砕けそうになる意識を必死に抑えつけ、今の状況をどうにか|呑《の》み込もうとする。  足は|震《ふる》え、建宮が放つ次の|一撃《いちげき》を|避《さ》けるのは不可能だ。  インデックスはすでに走り出していて、数秒後に建宮と激突すれば|瞬殺《しゆんさつ》される。  後ろをチラリと見れば、ステイルは炎剣を構えているが、それを使うには自分が壁となって|邪魔《じやま》をしている。  上条|当麻《とうま》は、一秒にも満たない時間の中で頭をフル回転させる。  |誰《だれ》一人欠ける事なく、何一つ失うものなく。  みんなで笑って帰るには。 「……、やれ」  彼はその|拳《こぷし》を握り、 「俺ごとやれ[#「俺ごとやれ」に傍点]、ステイル[#「ステイル」に傍点]!!」  体に残った力を全て振り絞って、迷わず建宮|斎字《さいじ》へ突撃した。  建宮斎字はその一言に混乱した。  背後からイギリス清教のシスターが迫ってきていたが、これは簡単に両断できる。それを止めるために少年が拳を握って飛び込んできたが、この少年を|叩《たた》き|斬《き》ってからでもシスターを仕留めるのに十分な時間は残されている。  だが、その少年の背後。  イギリス清教の神父が、炎剣を腰だめに構えたまま駆け出してきた。 「!?」  どう考えても、神父がそのまま突撃すれば間にいる少年の体を貫通してしまう。なのに、神父の|眼《め》にためらいはない。刃のような鋭い|瞳《ひとみ》に、口元には|猛獣《もうじゆう》のような笑みを浮かべ、敵を倒す事のみを計算しているかのように。  建宮は炎剣を防ぐためにフランベルジェを構えようとする。  が、そんな建宮の前で、少年は右腕を後ろへ回し、ハンマーのような拳を放とうとする。 「チッ……!?」 少年の拳に対応してからでは炎剣の一撃に防御が間に合わない。しかも、あの炎剣は|斬撃《ざんげき》ではなく爆破のための武器だ。対応を誤れば死の危険もある。炎剣を優先して、フランベルジェに対火炎用の術式を込めて防御しなければ、|生賛《いけにえ》の少年ごと爆炎に巻き込まれる恐れがある。 (|所詮《しよせん》は|素人《しろうと》の|拳《こぶし》、基本的な対|衝撃《しようげき》術式は|戦闘《せんとう》前から張ってあるから問題ないのよ。|懸念《けねん》すべきはあの炎剣のみ、早急に術式を組み上げる!)  |建宮《たてみや》は振り上げた剣を水平に構え直す。フランベルジェの名前『炎のような形の剣』から火属性を、水平という構えから『|鎮《しず》める』という記号をそれぞれ合わせて、『炎を鎮める』術式を即興で作っていく。 (よし、もらった、組み上げ完了! 不用意に炎を打ってきた所へ、思い切り反撃してやろうじゃねえのよ……ッ!!)  建宮|斎字《さいじ》が口から太い舌を出す。べろりと|蠢《うごめ》いて|貧欲《どんよく》に舌なめずりする。  少年の背中に神父が体当たりするように突撃した。その手の中の炎剣が、少年の体を貫通して建宮の腹の中心へと|襲《おそ》いかかる。 (勝った!!)  ———と、思っていた。  建宮は、炎剣の爆破と共に襲いかかるだろう熱と火炎を耐火の術式を使って逆に吹き飛ばそうとしたが、予想に反して何も起こらなかった。  少年の右拳はハンマーでも振り回すように、思い切り体の後ろへ回されていた。そして、神父の炎剣は、ちょうどその拳にぶつかるように突き刺さっていた。  パン! と風船の割れるような音と共に、神父の手にある炎剣が火の粉となって消滅した。 「な……? に、が———ッ!?」  耐火術式の防御から反撃のタイミングだけを考えていた建宮斎字は何も分からないまま、  ゴン!! と|凄《すさ》まじい|轟音《ごうおん》と共に、少年の拳が勢い良く建宮の顔面に突き刺さった。 (が、ば……ッ!! な、あ、対衝撃用術式が、貫かれ……!?)  建宮の体が大きく後ろへ|仰《の》け反る。彼が崩しかけたバランスを取り戻す前に、少年と神父は二人がかりで建宮の体へ思い切り体当たりを仕掛けた。二人分の重圧を受けた建宮斎字の体は破城|槌《つち》でもぶち当たったように真横へ吹き飛ばされ、凄まじい勢いで地面へ|叩《たた》きつけられた。  建宮の意識はそこで途切れたようだ。  ガラン、と。彼の手から離れたフランベルジュが地面を滑っていった。 [#改ページ]    第三章 イギリス清教 Anglican_Church.      1  争いは終わった。  それは|建宮《たてみや》という司令塔を失った事で天草式の統率が一気に崩れたからか、と|上条《かみじよう》は考える。 遠くから聞こえる物音がピタリと|止《や》んだ所からも、ピリピリと張り詰めた気配がなくなっていく所からも、上条は何となく理解していた。アニェーゼ|達《たち》と合流している訳ではないから詳しい説明はされていないが、どうもローマ正教が勝利したようだ。さもなくば、ここまで派手に暴れた上条達の元へ、天草式の増援がやってこないとおかしい。  上条は激突したローマ正教や天草式の人達の安否が少し気になったが、ステイルは『双方ともに死者はなし、現在ローマ正教が天草式の人間を連行している』と言っていた。やけに確定的に断言すると思ったら、どうも|煙草《タバコ》の火を操って交信しているとの事だ。煙の揺れ方で意思の疎通をするらしいが、上条が見てもサッパリだった。  建宮|斎字《さいじ》は少し離れた所に座らされていて、彼の手足、胸板、背中、額にルーンのカードが|貼《は》り付けてあった。今の姿勢が崩れると、即座に体が火ダルマになる凶悪な術式らしい。  そしてステイルはオルソラを連れてアニェーゼ達の元へと行ってしまったため、今は上条とインデックスと建宮の三人しかいない。  で、 「とうま、とうま! |大丈夫《だいじようぶ》、|怪我《けが》とかない?どこか痛むところとかば!?」  現在、上条|当麻《とうま》は顔を真っ青にしたインデックスに服を脱がされようとしていた。 「って、やめんかインデックス! いいよ別に痛む所とかないし———ぶわっ?ば、|馬鹿《ぱか》じゃねーのかどこに手えかけようとしてんだテメェー!?」 「じゃあちゃんと自分で確かめて! 痛い所とか熱を持ってる所とか!!」  ほとんど涙目で叫ばれて、上条はようやくインデックスにものすごく心配をかけたのだと気づかされた。が、それについて正直なコメントをするのはとてつもなく恥ずかしいので、何も言わずインデックスの言葉に従って自分の体を確かめてみる。 「うん。|脇腹《わきばら》がちょっと痛むけど、そんだけだぞ。別に動けない訳じゃないし」 「ほんとに? ほんとに大した事ない?」 「ああ。っつか、一応場慣れはしてるつもりだしな。能力者だらけの路地裏のケンカだって危険度で言えば結構馬鹿にできねーし、大体この夏休みに何回|魔術師《まじゆつし》と戦ったよ?」 「そっか……良かったぁ……」  インデックスは笑っているのか泣きそうなのか、判別の難しい顔になった。|上条《かみじよう》は猛烈に照れ臭くなって思わず顔を|逸《そ》らしてしまったが、 「……だって、これで思う存分とうまの頭に|噛《か》み付けるんだもん」  はい? と、聞き捨てならない|台詞《せりふ》を聞いた|瞬間《しゆんかん》、|猛獣《もうじゆう》少女インデックスが思い切り上条の頭に|喰《く》らいかかってきた。 「び、びゃあー!? ちょっと待てインデックス! それが人の体調を心配してた女の子の取る行動か! お前が新たな傷を作ってどうす———ぎゃあああ!?」 「心配してたから噛み付いてるんだよ! 一体偲様のつもりなのかな、とうまは! ただでさえでっかい剣を持った、それも本物の|魔術師《まじゆつし》相手にゲンコツ一つで立ち向かうなんて尋常じゃないよね! 足元に武器が落ちてたなら使えばいいかも! しかも|素人《しろうと》なら降参すれば命までは取らないってわざわざ敵が言ってるのに何でますますやる気になっちゃラのかな、ウチのダメとうまは!?」 「待て待てそれ以上は本当に死んじゃいますよインデックスさん痛あ! 分かりましたこのたびは私上条|当麻《とうま》が全面的に悪いと認めるからお願いせめてもう少し噛む力を|緩《ゆる》め……ッ!?」 「大体ね、大体だよ! とうまはちゃんと最後まで考えてたの? ちゃんと天草式が耐火の防護術式を組み上げるために時間がかかるって分かってた!? あそこで術式準備の時間を読み間違えてたら、とうまはバッサリ斬られてたはずなんだけど!!」 「いや作戦も何も。こっちはホントに|俺《おれ》ごとやってもらうつもりで特攻仕掛けたら単にステイルが気を|利《き》かせてくれただけで耐火とか防護とかサッパリなんですけど———って痛みゃあ!? ずびまぜんごめんなざいインデックスざまアああああああああああッ!?」  シリアスな場面でも出なかったような叫び声を余す所なくお伝えする上条に、ようやくインデックスの気は晴れてきたのか、 「……ふんだ、とうまのばか。向こう見ず」  口の中で|眩《つぶや》いて、彼女は上条の髪へ小さな|顎《あご》を押し付けた。 (う、わ……!?)  怒り疲れたインデックスはだれて机の上に頭を乗せるぐらいの気持ちでやっているのだろうが、上条の心臓の鼓動は一気に二倍速になった。頭に当たる女の子の顎の感触は元より、彼女の長い銀髪が上条のほっぺたにさわさわと当たるし甘い|匂《にお》いはするし、何よりインデックスとは正面で向き合っているので鼻先二センチ未満の超近距離に彼女の胸がある。|普段《ふだん》はあまり意識しないのだが、ここまで近づくとほんのわずかな|膨《ふく》らみがあるのに気づかされた。 (な、なんですかこの|緩急《かんきゆう》をつけた|攻撃《こうげき》の数々は? あ、分かった。これで俺がインデックスの胸を見てるのに気づいて、また噛み付いてくるって|寸法《オチ》か!!)  上条はわずかに身構えたが、予想に反してインデックスはあっさりと身を|退《ひ》いた。  彼女は耳を|澄《す》ませるように、しばらく夜空を見上げていたが、 「静かだね。あれだけ多くの人が暴れてたとは思えないかも」 「そだな」  彼も適当に|頷《うなず》いた。だが、今はこの静寂が心地良い。少なくとも、もう剣や|槍《やり》を振り回したり|誰《はれ》かが怒号を上げたり何かが|壊《こわ》れる|騒音《そうねん》を聞く心配はないのだから。 「おい」  と、その時、不意に離れた所に座らされている|建宮斎字《たてみやさいじ》が|上条《かみじよう》に声をかけてきた。妙に|焦《あせ》った音色を秘めていた。上条がそちらを見る前に、インデックスが両手を広げて彼の盾になるように立ち|塞《ふさ》がる。  建宮はそんな二人を|睨《にら》みつけながら、 「くそ。お前さんよ、悪いがこいつを解いちゃくれんかな? いや、無理を言ってんのは分かってんのよ。けどな、このまま彼女を放っておけるはずもないんでな」 『はぁ。磁と上条は|眉《まゆ》をひそめた。建宮の言う『彼女』とは誰の事だろう……と考えて、すぐに思い当たった。オルソラ=アクィナスだ。 「|馬鹿《ばか》、ナニ言ってんだお前。一番ヤバイ人間をみすみす放すはずが———」 「馬鹿はお前さんだ! なあオイ、一個だけ聞かせろや。お前さん、まさか本当にローマ正教へ彼女を引き渡す気か。その後彼女がどういう扱いを受けるか分かってやがんだろうな」  あ……? と土条の声が詰まる。 「|駄目《だめ》だよ、とうま」むしろ、インデックスの方が冷静な声で、「この人は今、言葉を武器に戦ってるだけなの。だから耳を貸しちゃ駄目。大体、敵がこっちに正直な話をして一体何の得になるっていうの?」 「殺されんのよ、彼女はな」  インデックスの言葉に|被《かぶ》せるように、建宮斎字は言う。 「いいか、先に結論だけを伝えとくよの。彼女をローマ正教に引き渡すな。ローマ正教の本当の目的は、彼女を殺す事なのよな」 「自分はオルソラの味方だから、その拘束を解いて逃がしてくれってか? 冗談じゃない、そんな都合の良い話があるかよ。オルソラをさらったのはお前|達《たち》だろうが! 『法の書』を盗んだのだってそうだ! そこに書かれた内容を解読するために彼女をさらって、あれだけの人間に武器を持たせて戦って、今さら自分達は悪くないだと? ふざけんのも|大概《たいがい》にしろ!!」  上条は怒りのあまり、|喉《のど》に傷をつけるほどの大声で叫んでいた。  しかし、建宮は全く気にせず、 「我らは『法の書』など盗んじゃいねえのよ」  は? と上条の頭が|一瞬《いつしゆん》白くなる。 「大体、考えてみるといいのよ。何のために我らが『法の書』を必要とする? ローマ正教は世界最大の十字教宗派で、その数合わせて二〇億人強。そんな所にわざわざケンカを売ってまで手に入れたいものか?たかが『法の書』が」 「|真面目《まじめ》に受け答えしちゃ|駄目《だめ》、とうま」インデックスは身を硬くしてキッパリした声で、「天草式は|女教皇《プリエステス》を失って弱体化してるって話は聞いてるもん。だからあなた|達《たち》は足りない力を『法の書』に書かれた未知の|大魔術《だいまじゆつ》で補おうとした。違う?」 「だから、そもそもどうして力を手に入れる必要があんのよ[#「そもそもどうして力を手に入れる必要があんのよ」に傍点]?」  |建宮斎字《たてみやさいじ》は笑う。  汗の伝う顔が作るその表情は、迫る時間制限に|焦《あせ》っているようにも見える。  |上条《かみじよう》は困惑したように、 「だって、力がなかったら|他《ほか》の勢力に負けちまうじゃねーか」 「それは他勢力に攻め込まれたらの話よな。しかし思い出してみればいいのよ。我ら天草式が、昔からずっと迫害され続けてきた我らが、何の対策も練ってこなかったと思うか? 本拠地は外の連中に知られる事はなかったし、|伊能忠敬《いのうただたか》どのご自慢の特殊移動法『縮図巡礼』は知られていないポイント『渦』がまだまだたくさんあんのよ」  あ、と上条は不覚にも建宮の言葉に不意を突かれた感覚に|襲《おそ》われた。  そう、確か特殊移動法のポイントは二三ヵ所以外は未確認状態だったはず。 「我らの身内以外に誰も場所の分からん本拠地を[#「我らの身内以外に誰も場所の分からん本拠地を」に傍点]、一体誰が攻められんのよ[#「一体誰が攻められんのよ」に傍点]?」  そうだった、と上条は思う。  天草式の本拠地は|誰《だれ》も知らないから、逃げ込まれたらオルソラを二度と助け出せなくなる。そのために、特殊移動法が発動する前に決着を着けよう、というのがあの|戦闘《せんとう》の目的だったのだ。  彼らの根城は、誰にも|攻撃《こうげき》できない事になる。  ならば、防衛のための準備など、最初から必要なかったのだ。 「じゃあ……」  天草式は防衛以外の目的———例えば軍事力の拡大を|狙《ねら》って『法の書』を求めていたんだろうか?  それとも。 「お前さんよ。一つ確認するが……『法の書』ってのは一体どんな|魔道書《まどうしよ》なのより」  建宮に言われたが、魔術についてど|素人《しろうと》の上条は素直にインデックスの顔を見た。彼女は不承不承という表情で説明を始める。 「『法の書』はあまりに複雑な暗号———というより、もはや一種の別系統言語で書かれてると言っても過言じゃないぐらい奇怪な文法の魔道書で、それを正しく解読できたのは、|未《いま》だに『法の書』を書いた本人であるエドワード=アレクサンダー、またの名をクロウリーだけだと言われてる。本入が言うには『|汝《なんじ》が欲する所を|為《な》せ、それが汝の法とならん』というのが『法の書』の一番重要な所らしいけど、何の事かは誰にも分からないの」  インデックスはすらすらと、 「『法の書』は彼の守護天使とも許されざる者とも語られる|謎《なぞ》の存在エイワスによって伝授された内容を記したもので、一説には天使が使用する術式がそのまま使えるとも評されてるんだよ。その威力は絶大なもので、『法の書』のページが開かれた|瞬間《しゆんかん》に十字教の時代は終わりを告げ、新たな時代が始まるとすら伝えられてるの」 「そこよな」  |建宮斎字《たてみやさいじ》は意味ありげに笑う。 「そこが一番重要なのよ。『法の書』の力は確かに絶大だ。仮に天使様の使う術式がホントに|誰《だれ》でも使えるようになるなら、確かに十字教の支配する時代なんてその日の内に終わりを迎えるのよ。何せ教皇以上の力をみんなが使えるようになるよの、教会が作るピラミッド型の権力図なんざ成り立たんようになるだろうし」  けどな、と建宮は一拍置いて、 「本当に、みんながみんなそんな力を欲するとは思わんのよ」 「何でだ? |俺《おれ》は|魔術師《まじゆつし》じゃねーから関係ないけど、お前|達《たち》プロの魔術師だったらより強力な魔術を使えた方が地位が上がるんじゃないのか?」 「そもそも『|何故《なぜ》地位を上げる必要があるのか』ってな疑問があるんだが。我らはそんな力など必要としないのよ。いや、まっとうな十字教徒なら誰もが、ってな感じだがなぁ」 「でも、ローマ正教だって力が欲しいから『法の書』を管理してたんだろうが」  |上条《かみじよう》には不思議だったが、インデックスは何が言いたいのか分かったらしく、苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような顔をしていた。 「つまりよなぁ」  少年の無邪気な問いに答えるために、建富は静かに笑って、 「十字教最大宗派、世界のトップ、二〇億人もの信徒を抱えるローマ正教が、『十字教の時代の終わり』なんて望んでいるとは思わんよなぁ?」  あ、と上条は気づかされた。  今の時代、このバランスの中ですでに満足している人間は、変化なんて望むはずがない。ましてそれが、この時代のトップの座に君臨している者ならなおさらだ。 「ローマ正教は『法の書』という、そこまで強力な兵器は求めちゃいなかったのよ。ヤツらに必要なのは世界を制圧する武器であって、世界を粉々にするほどの兵器じゃなかったって訳だ」  上条も、インデックスも、|黙《だま》り込んだ。  夜の暗さが、一気に何倍にも濃くなったような|錯覚《さつかく》がした。 「従って、ヤツらは唯一『法の書』の力を引き出せる彼女を秘密裏に消す事にした。しかし、彼女もそれに気づいてたのよ。彼女は持てる力の|全《すべ》てを使って、なるべくローマ正教の息のかかってない場所……つまりこの日本へ行けるよう、スケジュールを操作した。それが皮肉にも『法の書』の運搬と重なったようなのよ。そして現地にいる十字教宗派、我ら天草式に接触し、助けを求めてきた。結論を言っちまえば我らは彼女の逃走劇を手助けしていただけなのよ」  |建宮《たてみや》は重たいため息をついて、 「『法の書』が盗まれたというのはローマ正教の演技よな。我らが奪うはずねえのよ。差し詰め、彼女の|失踪《しつそう》と『法の書』を関連づけたかったって所よな。セットならこの件は『法の書』を|狙《ねら》った|誘拐《ゆうかい》だと|誰《だれ》でも思う。これが消えたのがもし彼女一人だけだったとしたら、別の可能性が浮上しかねんのよ。例えば『彼女はローマ正教から逃げるために亡命したのだ』とかよな」  善と悪、攻と守、強奪と救出。  その全てが、|一瞬《いつしゆん》にして裏返ってしまう瞬間を、|上条《かみじよう》は見た。 「で、これでもまだローマ正教が正しいと断言できるか? ヤツらの手にオルソラ=アクィナスを帰しても|大丈夫《だいじようぶ》だと、混じりっけなく一〇〇%の確率で宣言できるか?」 「……、」 「断言できるなら根拠を言え。できないならば自分の疑念に立ち向かえ! 冷静になれば誰でも分かるだろうよ、どちらが本当の敵なのかぐらい!!」  建宮|斎字《さいじ》の怒号に、上条は一度深呼吸する。  目を閉じる。  頭の中の情報を、 一度|丁寧《ていねい》に整理してから、一つ一つ検証していく。  考えろ。  ローマ正教と天草式、どちらの言い分が正しい?  どこが食い違っている? 「|駄目《だめ》だ。|俺《おれ》はまだお前を信じきれない」 「……、|何故《なぜ》?」 「仮にお前の言ってる事が全部本当だとしたら」上条は、ゆっくりと、「どうして、オルソラはお前|達《たち》からも逃げたんだ? 俺が初めて会った時、オルソラは一人で学園都市の近くを歩いてた。その|頃《ころ》、ローマ正教と天草式は|戦闘《せんとう》中だったってステイルから説明されてる。おそらく彼女は戦闘の|隙《すき》を突いて、両陣営から逃げたんだ[#「両陣営から逃げたんだ」に傍点]。でも、だとしたら、どうして?」 「……」 「輸前の言ってるのは|嘘《うそ》かもしれない。本当だとしても、敵の敵が味方であるとは限らない。 だからお前に聞く。オルソラ=アクィナスは、どうしてお前達から逃げたんだ?」  本当にオルソラの味方だとしたら、彼女が逃げる理由はないのに。  言外にそう宣告する上条に、建宮は静かに笑った。  それは人生に疲れたような、とても弱々しい笑みだった。 「同じよな」 「同じ?」 「そう。今のお前さんと同じなのよ。自分から助けを求めてきたとはいえ———結局、彼女は最後の最後で我らを僧じきる事ができんかったのよ。きっと我らの事はこう思われたのだろうよ。『世界最大宗派であるローマ正教を敵に回してまで白分を彼らが助ける理由はない。おそらく、彼らは見返りに「法の書」の解読方法を求めてくるはずだ』とな」  |上条《かみじよう》は|黙《だま》り込んだ。  |建宮《なてみや》はそんな彼の顔を見ているようで、もっと遠くにあるものを見つめるような視線で、「まったく、お|門違《かどちが》いも良い所よの。何で我らが『法の書』など求めにゃならんのよ」 「? じゃあ、何のためにオルソラを助けようとしたんだよ」  上条が慎重に問いかけると、建宮は一拍も問を空けずに、 「理由なんてねえのよ[#「理由なんてねえのよ」に傍点]」  そう答えた。 「そんなもんハナっからねえのよ。我らは、ずっと昔からそうやってきた。そして特に|今代《こんだい》は格別だ。|女教皇《プリエステス》様が、あの方が、一体どうしてあの若さで我らのトップとして認められていると思うのよ? ただ一人の幼い夢を守るために山をも|呑《の》み込む悪竜の前へ立ちはだかり、死に|逝《ゆ》く者の最後の願いを聞き遂げるために小さな村を万の軍勢から守り抜く。我らはずっと、その後ろ姿を見てきたのよ。時間こそ、ほんの一時だったが、我らは、ずっとだ」  建宮|斎字《さいじ》は、遠い日の幻影を追い駆けるように告げる。  まるで、自分の家族を誇るように。 「だからこそ、我らは道を誤らず、力の使い方を問違えず、正しい方向へと己を導き進めたのよ。言葉にすれば簡単な事を、実際に行動で示してくれた事で。人はここまで強くなれるものなのだと、ここまで優しくなれるものなのだと、それは手を伸ばせば届く所にあるのだと、その身をもって教えてくれたから」  |沈黙《ちんもく》が、場を支配する。  静寂を破るように、建宮はギチリと奥歯を|噛《か》み|締《し》めて、 「……、そうやって生きてきたあの方の道を、全部我らがぶち|壊《こわ》したのよ」 「なに?」 「我らの死が、我らの未熟さが、|女教皇《プリエステス》様を苦しめた。あの方は自分だけが生き残り、自分の周りにいる人々が倒れていくのは|全《すべ》て自分のせいだと思い込むようになっていったのよ。冗談ではないよな、あの方と|一緒《いつしよ》に戦場へ行きたいと願ったのも、その過程で倒れていったのも、全て我らの心と体の未熱さが原因であるはずなのに。そして結果があのザマだ。|女教皇《プリエステス》様は何も悪くないはずなのに、自らの足で己の居場所から立ち去ってしまわれた」  |建宮《たてみや》は、己の顔に剣を突き刺すような声で言う。  |喉《のど》の奥から|搾《しぼ》り出された声に、生々しい感情が宿る。 「我らは、その未熟さをもってあの方の居場所を奪ってしまったのよ。だから我らはあの方に居場所を返して差し上げなければならない。もう|誰《だれ》も傷つかず、もう誰も|哀《かな》しまず、誰かの笑顔のために戦い、何者かの幸せを守るために迷わず全員で総力を挙げて立ち上がれるような、そんな居場所を」 「……、」 「だから我らは助けを求めるオルソラ=アクィナスに手を差し伸べたのよ。それができる人間が当たり前に集う世界こそ、あの方の居場所に|相応《みさわ》しいと思ったから」  結局、彼らは組織間のやり取りで想定されるような利害のために戦っていた訳ではなかった。 彼らは彼らの事情で戦っていただけでそこに利益は求めていなかった。ただ、その『事情』は内輪の色が強すぎてオルソラには理解してもらえず、誤解を生んだだけ、という話だろうか。  もしも、建宮の言っている事が全て正しいのなら[#「建宮の言っている事が全て正しいのなら」に傍点]、だが。  |上条《かみじよう》は建宮|斎字《さいじ》の言葉を信じてみたいという気にはなった。だが、やはり彼の言葉には根拠がない。信じてみたいと思えるのに、絶対に信じられるという証拠が見つからない。上条は歯|噛《が》みした。どちらを信じるべきか、どちらが|嘘《うそ》をついているのか、上条の頭の中で様々な考えがぐるぐると回って、  その時、どこか遠くで悲鳴が|炸裂《さくれつ》した。  いや、悲鳴などという生ぬるいものではない。  絶叫。|咆哮《ほうこう》。号叫。敢えて例えるなら[#「敢えて例えるなら」に傍点]、女の叫び声だった。しかしそれが本当に人間が出したものなのか、それすらも上条には自信が持てなかった。甲高い|轟音《ごうもん》はガラスや黒板を引っ|掻《か》くような物理的に人間の身をすくませるものであり、それなのに|大音響《だいおんきよう》の中には人間の生々しい感情が存分に込められていた。恐怖。拒絶。絶望。苦痛。泥水を吸い込んだスポンジを手で握り|潰《つぶ》すように、人間にあるまじき絶音の中から人間的すぎる感情が|染《し》み出してくるのが分かる。  インデックスは上条の顔を見る。上条はインデックスの顔を見ていない。 「お、る……そら?」 「もう一度、念のために聞きゃならんようだが……お前さん、彼女をローマ正教に預けるだなんて言ったのか? 彼女はローマ正教じゃなくてお前さんを信用してたんじゃねえのよな?」 「……、」  その言葉に、上条は思い出す。 『確認させてもらいますけど、あなた様はイギリス清教からの協力要請があって手伝う事になったのでございましようか?』  ———|何故《なぜ》、オルソラ=アクィナスはそんな事を恐る恐る尋ねてきたのだろう? 『そうだけど』  ———どうして、彼女はその一言に安心したような顔をしたのだろう? 『つまりあなた様はローマ正教ではなくイギリス清教の筋をお持ちでございますか』  ———わざわざ確認を取るように、もう一度言って、 『そんな大それたモンじゃないけど。あ、言っておくけどコネなんて使えねえぞ。|俺《おれ》は学園都市の住人なんだからな』  ———特に深くも考えずに答えた言葉にあんなにも|安《あんど》堵して、 『そうで、ございますか』  ———その一言には、一体どれほどの意味が込められていたのか。  彼女はきっと、最後の最後まで信じていた。  |上条当麻《かみじようとうま》は、ずっとずっと身を預けていても|大丈夫《だいじようぶ》な人間だと。 「……、くそ」  上条は奥歯を|噛《か》み|締《し》めた。勢い良く悲鳴が聞こえた方角へ振り返る。 思えば、最初に会った時に危険を冒してでも学園都市へ案内していれば良かったのだ。それだけでも、たったそれだけの事でも、彼女の身はずっと安全になったはずなのに! 「なんだそれ、ふざけんなよ。何でこんな風になっちまうんだ!?」 「慌てるな。今のは別に彼女が死んだって訳じゃねえのよ。ローマ正教にはローマ正教の事情ってもんがあるんでなあ、今ここでオルソラ=アクィナスを殺す事はできねえってなもんよ。 いや、これだけは確実な話なんだ」 「なに?」 「急げばまだ助かるって意味よ。逆にここで手を誤れば次は怪しい。この際だ、もうお前さんに我らを信じるかどうかなんざ聞きゃしねえのよ。我らの事情もあるが、それよりまず先にオルソラの安全を確保する方が重要だ。だからお前さんは我らと敵対したままでも構わんのよ!」  一刻を争うと言外に告げるような叫び声で、 「その代わり約束しろ! 必ずオルソラ=アクィナスをローマ正教から取り戻して、ヤツらの手にも我らの乎にも届かん所まで連れて行くと!!」  真剣な目だった。  上条が思わずたじろいでしまうほどに。  と。  不意に、カツンという足音が聞こえてきた。上条は|建宮《たてみや》から視線を外す。足音のした方を振り返ると、|暗闇《くらやみ》を割って出てくるように、二人の黒いシスターがやってきた。ローマ正教の者|達《たち》だろう。背の高いのと低いのとに分かれていて、背の高い女性はちよっとした丸テーブルほどの大きさを超す馬車に使うような木の車輪を|担《かつ》いでいて、背の低い少女は腰に巻いたベルトに皮の袋を四つほどぶら下げている。袋の中には硬貨でも詰まっているのか、歩くたびにジャラジャラと音が鳴る。袋の大きさはソフトボールほどで、あれにぎっしり硬貨が詰まっているとすると砲丸投げの鉄球ぐらいの重さはあるだろう。  背の高い方のシスターは|襖《たもと》から革張りの古い手帳のようなものを取り出してページをめくり、何かを確認するように|頷《うなず》いてから|上条《かみじよう》の方へ来た。写真でも|貼《は》ってあるのかもしれない。 「外部協力者の|御方《おかた》ですね。あなた|達《たち》が捕らえた異端の首謀者の身柄を預かりに参上いたしました。神の敵は……そちらですか?」  彼女の声と同時、背の低い方のシスターが先んじて、ルーンカードを貼り付けられ座らされている|建宮斎字《たてみやさいじ》の方へと近づいていく。腰につけた四つの硬貨袋がジャラジャラと音を立てる。 「なあ、ちょっと待てよ!」  上条は大声で言ったが、背の低いシスターは聞いている様子はない。彼女は|一瞬《いつしゆん》、建宮へ手を伸ばそうとして、何かに気づいたように|躊躇《ちゆうちよ》する。彼の周囲をぐるぐると回って、貼り付けられたルーンのカードをじろじろと観察しているようだった。  代わりに、背の高いシスターが上条の顔をじろりと眺めた。 「何か?」 「アンタ達が引き上げる前に、もう一回オルソラの顔を見たいんだけど構わねぇか?」 「残念ですが、ご辞退願います。シスター・オルソラの身柄は無事に保護できたとはいえ、敵戦力の実態が明らかでない今はまだ安全とは言い|難《がた》いのが現状です。こういった場合、我々の規則に従い人員の安全を最優先させていただきます。彼女をローマ内に確保したのち、改めて招待状を送りましよう」  |完壁《かんぺき》な答え。  それ|故《ゆえ》に、上条は|眉《まゆ》をひそめ、 「いや、|駄目《だめ》だ。納得できない。大体、さっきの悲鳴は何だったんだ? ありゃオルソラの声じゃないのか。あいつの身柄は保護できたって、あれが保護された人間の出すものか? とにかく今、彼女の顔が見たいんだ。別に良いだろ。ちょっと顔を合わせて一言二言交わせりゃそれで満足なんだ。しばらく会えなくなるなら最後の|挨拶《あいさつ》ぐらいさせてくんねーかな」 「しかし、規則では……」 「あーもう! 何でそんなに規則規則ってうるさいんだよ。アニェーゼはあっちにいるのか? もうアイツに直接聞いてきてやる!」  上条は背の高いシスターの肩を|掴《つか》んで、ぐいっ、と横へどける。 「……、」  背の高いシスターは心配性の人間を見て|呆《あき》れるように肩の力を抜いた。背に預けている巨大な車輪を、ごん、と自分の手前に盾のように置く。 と、インデックスの顔が急激に|緊張《きんちよう》を帯びて、 「|駄目《だめ》だよ、とうま——ッ!?」  彼女が叫び終える前に、  ゴッ!! と。木製の車輪が、勢い良く爆発した。 「……ッ!?」  一|瞬《いつしゆん》、|上条《かみじよう》には何が起きたか分からなかった。まるで散弾銃のように、数百という鋭い破片が上条の方にだけ恐ろしい速度で|襲《おそ》いかかってきた。彼の頭がようやくそこまで追い着き、両腕で顔や胸を|庇《かば》った直後、無数の破片が上条の手足や腹に|直撃《ちよくげき》した。痛みを感じ始めた時には、すでに上条の足は地面から離れ、ダンゴン!! と|馬鹿《ばか》みたいな音を立てて五、六メートル後ろまで吹き飛ばされていた。  インデックスの短い悲鳴が耳に|響《ひび》く。  視界の隅で|建宮《たてみや》が立ち上がろうとしたが、彼の髪を数本、ルーンの炎が焼いた所でその動きがピタリと止まる。|鎖《くさり》に|繋《つな》がれた猛犬のように、建宮は犬歯を|剥《む》き出しにした。 背の低いシスターはややオロオロした様子で背の高いシスターを見て、 「し、シスター・ルチア。あの、えと、よ、よろしいんですかぁ、これって? 確か……シスター・アニェーゼはゲスト[#「ゲスト」に傍点]との不用意な接触は|避《さ》けるようにって……」 「|黙《だま》りなさい、シスター・アンジェレネ。くそ、だから異教の徒などは我らの|懐《ふところ》などへ|潜《もぐ》らせずに、もっと早く追い払っておくべきだったのに、アニェーゼのヤソ。放っておけなんて楽観的な命令など聞いていたからこんな羽目に……」  背の高いシスターは背の低いシスターを|睨《にら》んで黙らせると、自分の気持ちを落ち着けるように口の中でブツブツと何かを|眩《つぶや》き始める。  その目の色が、変わっている。抽象的だが、上条はそう思った。背の高いシスターはドロドロに溶けたバターのような熱に浮かされた目で上条の顔を見ている。  これが野営場でパンやスープをくれた修道女|達《たち》と同じ人物なのか、と上条は絶句する。 「悲鳴などいちいち変に勘繰ったりしなければこちらの仕事も増えずに済むのに……。くそ、どうして、どうして私がこんな、異教の者の、|燗《ただ》れた手で、肩を、肩を、肩を。シスター・アンジェレネ! |石鹸《せつけん》は、いえ洗剤はどこですか! ひどすぎます、最悪の気分です。この私に話しかけるなら一言申してくれませんか。|泥除《どうよ》けのエプロンでも着なければ耐えられません」  背の高いシスターの頭に、音もなく血が上っていく。  くらくらと揺れる顔が、口が、平べったい声を出す。 「まったく次から次へとややこしいですね、本当にもうどうしましょう。そこの天草式が抵抗し、あなた達を|殺《あや》めた事にしましょうか。ああ、それが一番楽みたいです。その後に私達が天草式の口を封じれば問題にはならないでしょう」  まるで舞台劇の|壊《こわ》れたシナリオをアドリブで修正していこうとするような|台詞《せりふ》。  |不穏《ふおん》な声が聞こえてくるが、|上条《かみじよう》には返事もできない。  かなりの数の木片が突き刺さったが、元がきちんとした刃物でないためか、傷は浅い。  が、直後。|皮膚《ひふ》を貫く細かい木片が、不意にぐちゃりとひとりでに上下した。 「ご……ッ、がああああああああああああー7こ  絶叫する上条の体から、まるで大木に刺さった|斧《おの》を引き抜くように、次々と木片が取り出されていく。血のついた木片は磁石で集められるように背の高いシスターの手元へ帰っていき、ジグソーパズルを組み立てるように再び元の馬車の車輪へと直っていく。 「とうま!!」  インデックスは叫び、慌てて彼の元へと駆け寄ろうとしたみたいだったが、背の高いシスターは彼女を横目で見るだけで、 「シスター・アンジェレネ」 「は、はぁい」  背の低いシスターは舌っ足らずに答えると、腰のベルトを引き|千切《ちぎ》って四つの硬貨袋を頭上へ投げた。途端、バサッ!! と大きな布で空気を|叩《たた》くような音と共に、袋の口からそれぞれ、ツバメのように鋭い|翼《つばさ》が六枚ずつ飛び出した。翼は袋ごとに赤、青、黄、緑の光に輝く。 「|きたれ《Viene.》。|一二使徒のひとつ《Una persona dodici apostli.》、|徴税吏にして魔術師を打ち滅ぼす卑賎なるしもべよ《Lo schiavo basso che rovina rovina un mago mentre e quelli che raccolgono.》」  背の低いシスターが夜空を迎え入れるように両手を頭上へ差し出した|瞬間《しゅんかん》、  キュガッ!!  と銃弾のような速度で、緑の翼を持つ硬貨袋がインデックスの体をかすめ、その足元の地面へ勢い良く突き刺さった。ビキバシという細かい音と共に、木の根のように硬い地面に|亀裂《きれつ》が走り回る。 「この……、っ?」  インデックスは慌てて飛び|退《の》こうとして、その体がガクンと落ちた。見れば、地面に突き刺さった硬貨袋の|口紐《くちひも》が|解《ほど》けていて、それが彼女の足首に巻きつき、地面へ|縛《しば》り付けている。インデックスの視線が足元へ集中すると同時、今度はその死角へ飛び込むように残り三つの硬貨袋が天高くへ舞い上がった。  上条の顔が真っ青になる。 (ま、ず……!? あんなモンがぶち当たったら……ッ!!)  硬貨袋の重さは砲丸投げの鉄球に勝るだろう。足首を固定されているインデックスには|避《さ》ける事などできないし、もはや両手で防いでどうにかなるような|攻撃《こをげユ》でもない。 「くそ、インデックス!!」  上条は叫んで両足に力を込めようとする。幸いにして、彼女の足を縛る硬貨袋は|魔術《まじゆつ》による力で動いているようだ。上条の右手で|殴《なぐ》ればその戒めを解く事などたやすい。  そこへ、 「あなたはあなたの心配をなさい。少しでも痛みなく|逝《ゆ》ける心配を」  気がつけば、巨大な車輪を|担《かつ》いだ背の高いシスターが、|上条《かみじよう》の頭上へ飛んでいた。立ち上がろうとする不安定な姿勢の上条の眼前に、ピタリと車輪の中心軸が銃口のように固定される。 (———ッ!?)  上条の|喉《のど》が|戦標《せんりつ》に干上がる。右手で車輪を|殴《なぐ》るのと、この車輪が|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に爆破されるのでは、明らかに上条の分が悪い。 「異教徒の人、『車輪伝説』というものをご存知ですか?」背の高いシスターはうっとりと|微笑《ほほえ》み、「古来より多くの聖人は殉教———愚かなる権力者|達《たち》の手によって処刑される事でその生涯に幕を下ろしてきましたが、そんな拷問・処刑の歴史の中に車輪が多数登場するのです」  上条は世間話に付き合う気はないが、眼前の車輪が彼の身動きを封じている。その間にも三つの硬貨袋は何十メートルもの上空から一転、勢い良くインデックスを|狙《ねら》って落下してくる。 「これらは無数の釘や刃を突き刺した巨大な車輪で、聖人を八つ裂きにするために作られました。ところが車輪は聖人に触れると同時、ひとりでに爆発したという報告が多数寄せられているのです。悪竜退治の聖ジョルジュしかり、アレクサンドラ王家の聖カテリナに至っては爆発した車輪の破片で処刑場に集まった四〇〇〇人の見物人が死亡したとか。この「車輪伝説』が意味する教えは以下の通りです」  ゆったりとした口調が余計に上条の神経を|災《あぶ》る。インデックスを狙う三つの硬貨袋は、砲弾のような速度を出して彼女の頭を粉々に砕こうとする。  背の高いシスターは、|緊張《きんちよう》の汗を噴き出す上条を車輪越しに眺め、幸せそうな笑みを浮かべ、「罪なき者に罰は当たらず、罪ある者にこそ罰は下る———|諦《あほら》めなさい、異教の人。あなたに救いはありません。同胞であり死すべき愚者でもあるシスター・オルソラなら『手続き』を|踏《ふ》む必要がありますが、あなた方を殺すのには何の迷いも必要ないのです」 「チィ……ッ!!」  上条はインデックスを助け出そうと、完全にその意識を|縛《しば》られた白い少女の方へ向けた。そんな彼の眼前で、ビシリと車輪に|亀裂《きれつ》が走る。ゆっくりと速度を落とす時間の中で、中心軸を頂点に、ピザのように六等分された車輪が内側から|膨《ふく》らむのを上条は見た。 「が、アァああああああああああああ!!」  上条は右手の|拳《こぶし》を握って|吼《ほ》えるが、遅い。間に合わない。彼が拳を突き出す前に、背の高いシスターのかざす巨大な車輪が甲高い音を立てて、  ゴガン!! と、真横に弾かれた[#「真横に弾かれた」に傍点]。  当然ながらそれは背の高いシスターの意思でも、まして上条の拳によるものでもない。  硬貨袋。  インデックスの頭を|狙《ねら》っていたはずの赤い|六翼《ろくよく》を持つ硬貨袋が、横合いから恐ろしい速度で処刑の車輪に|襲《おそ》いかかったのだ。その|衝撃《しようげさ》で背の高いシスターの手から車輪はもぎ取られ、何度も地面をバウンドしながら|暗闇《くらやみ》の奥へと飛んでいった。硬貨袋の方は衝撃で袋が破れ、どこの国のものかも分からない大小様々なコインが宙を舞った。  突然武器を失った背の高いシスターは、|上条《かみじよう》から飛び下がるように慌てて距離を取りながら背の低いシスターを横目で|睨《にら》みつけ、 「シスター・アンジエレネ、貴様は———ッ!!」 「ち、ちがいますっ……あたしじゃ」  |噛《か》み殺すような怒号に、背の低いシスターは顔を真っ青にして弁解したが、その時、 「|残る三対を一点に集約《C T R T T O P》、|一つの塊となれ《A  O》」  インデックスの透き通る声が割り込んだ[#「割り込んだ」に傍点]。  |瞬間《しゆんかん》。  キュゴガッ!! という金属をすり|潰《つぶ》す|轟音《こうおん》が鳴り|響《ひび》いた。インデックスの足首を|縛《しば》っていた緑の袋の|口紐《くちひも》が外れ、彼女の頭を狙っていた青、黄の袋と|一緒《いつしよ》に、壮絶な速度で背の低いシスターの顔面目がけて飛びかかったのだ。  三つの袋は背の低いシスターの鼻先二センチの位置でぶつかり合い、ピタリと止まっていた。あまりの圧力に何百というコインは一つの金属塊と化し、ごん、という鈍い音を立てて背の低いシスターの足元へ落ちる。  ぺたりと。背の低いシスターは、不思議と笑うような顔で|尻餅《しりもち》をついてしまった。 「二匹の火竜を十字と祈りのみで倒した一二使徒マタイ。その|象徴《エンブレム》である金貨袋に|天使の力《テレズマ》を通せば確かにこんな追尾型の飛び道具を作る事もできるだろうけど」静かな静かな、インデックスの酷評。「|杜撰《ずさん》だね。詠唱も長くて暗号化もおざなりだし。内側の術式を安定させるのに精一杯で外側に対して気が回ってないから、簡単に制御に割り込まれるんだよ」  上条には何が起きたか分からなかった。確か、インデックスには|魔術《まじゆつ》は使えないはずである。それとも、何か|他《ほか》のトリックがあるんだろうか? 背の低いシスターの魔術に横から割り込み、乗っ取るような何かが。 「……。自爆、誤爆。魔術の失敗によるペナルティを逆手に取った攻法ですか」  背の高いシスターは周囲を|一瞥《いちべつ》してから、舌打ちして身構える。武器を失っても戦意が衰えた様子は一切見られず、彼女は|緩《ゆる》やかな動作で十字を切ったが、  その時、遠くから甲高い笛のような音が聞こえてきた。  ヒュイイイイイ!! という鳥の悲鳴のような音色に、背の高いシスターは|忌々《いまいま》しげに黒い夜空を見上げて、 「退却命令ですか。シスター・アンジエレネ!!」 「え、あ? で、でも、まだ|撃《う》ち漏らしてますし……」 「|退《ひ》きます。天草式の食い残しは元々イギリスの|方《ほう》がすでに取り逃がしていた事にすれば良いでしょう。足並みの乱れが本隊全体へ|影響《えいユよう》を及ぽし、オルソラの護送状況にも害をなす恐れがあります。そちらの方がはるかに問題です」  背の高いシスターがきびすを返して|暗闇《くらやみ》の向こうへと消えていくと、背の低いシスターは慌ててその後を追って行った。 「これで、分かったろうよ」  |建宮斎字《たてみやさいじ》は夜空を見上げながら、苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような声で、 「あれが、十字教内世界最大宗派・ローマ正教の裏のやり方よ」      2 「なるほどね。道理でアニェーゼ=サンクティスを見た途端に彼女が|茫然自失《ぼうぜんじしつ》としていた訳だ。 僕|達《たち》をローマ正教の主力隊から切り離したのも、始めから見下されていたからかもしれないね。 ふん……イギリス清教がいると命令系統が乱れる、か。言ってくれるね」  テーマパーク『パラレルスウィーツパーク』を出た所で、ステイルはのんびりと言った。彼もオルソラの悲鳴を聞いていたはずだが、それでも引き返してアニェーゼにその事を問いかけたりはしなかったらしい。事情を知らなければ、ましてそれがイギリス清教とローマ正教という二つの組織間の外交問題になるかもしれないとなれば軽率な行動に移れないのは分かるが、それでも|上条《かみじよう》としては何かが釈然としない。  あれから上条はアニェーゼの元へと走ったが、彼女達はすでに|撤退《てつたい》した後でそこには|誰《たれ》もいなかった。建宮を|追撃《ついげぽ》してくる|刺客《しかく》も現れない。彼の仲間の大多数が捕まった事で、もう天草式は|壊滅《かいめつ》したものと判断されているのかもしれない。  あれだけの大人数が最初から存在しなかったかのような|手際《てぎわ》の良すぎる撒退をした事に上条は寒気を感じた。イギリス清教の方へ何の|事務報告《あいさつ》もないのは、やはり最初から|信頼《しんらい》していなかったという事なのだろうか。ローマ正教にとってはオルソラの確保が最優先で、後の案件、つまり建宮などは余裕があれば、ぐらいのものなのかもしれない。あるいは、街中に散らばった全部隊に召集をかけてから一気に数で勝負を決めようとしているのかもしれないが。  そんなこんなで、今は上条、インデックス、ステイル、それに建宮を加えて情報交換を行っている真っ最中だ。ちなみに上条は車輪の破片でケチョンケチ目ンにされたため、体のあちこちに包帯が巻きつけてある。 「その男の言っている事が|全《すべ》て事実だったとしても、オルソラ=アクィナスはすぐには殺されないだろうね。ヤツらにはヤツらなりの事情がある。……だから上条|当麻《とうま》、今この|瞬間《しゆんかん》にどこかに駆け出そうとするのはやめろ。君が出張ると余計にややこしくなる」  釘を刺された|上条《かみじよう》は口を|尖《とが》らせて、 「……、事情って何だよ?」 「ローマ正教は世界最大の宗派なんだよ、とうま。その大多数はオカルトなんて知らないとはいえ、二〇億人以上の信徒を抱え、教皇と一四一人もの|枢機卿《すうききよう》が管理し、一二ヶ国に教会を持つほど肥大しちゃってるの。大きくなるのは良い事だけど、大きくなりすぎると困った問題が生まれちゃったりもするかも」 『?』と、まだ理解できない上条が首を|傾《かし》げると、今度は|建宮《たてみや》が、 「つまりはあれよな。それだけ大きな勢力ならば、当然ながら様々な派閥があるってなもんよ。 まずは教皇と枢機卿がそれぞれ治める聖堂区だけで一四二、さらに国や風土によって異なるので二〇七、おまけに老人と若者、男と女でいがみ合って二五二」  ステイルが面倒臭そうに|煙草《タをコ》の煙を吐いて、 「これだけ多くの派閥を持つロ!マ正教は、外側よりむしろ内側の方に多くの敵を抱えているとまで言われているんだ。同胞の|些細《ささい》な問題を寄ってたかってつつき回るという訳だ。そんな中、今回の件は非常にデリケートな側面を持っているんだろうね。『法の書』の解読は確かにローマ正教にとって脅威だが、かと言ってオルソラ=アクィナス本人には何の罪もない[#「オルソラ=アクィナス本人には何の罪もない」に傍点]。|無闇《むやみ》に殺せば、世界中の同胞|達《たち》がアニェーゼの敵になるだろうさ」 「そうか? でも|俺《おれ》達だって悪い事してないだろ。なのにあいつら少しも迷わずムチャクチャ|攻撃《こうげき》してきたぞ」  上条はわずかに自分の腕に巻かれた包帯を指先で|撫《な》でた。ただでさえ暑苦しい熱帯夜なので、体に巻きつく包帯は余計に|鬱陶《うつとう》しい。 「異教・異端の場合は言い訳ができるのさ。『神の教えに背く者は罰しても構わない』……この素敵な一言で過去にどれだけの虐殺が正当化されたと思ってるんだい?」 「さっき私達を攻撃してきたあのシスター達もそんな考えで動いていたんだろうね。でも逆に、だからこそローマ正教は|迂闊《うかつ》にオルソラに手をかけられないと思うかも。『神の教えを信じる者を|殺《あや》めてはならない』からね」 「……、」  上条はちょっと目を|逸《そ》らし、街灯に照らされた街路樹を眺めながら考えた。  仮にローマ正教に『同じローマ正教の者を殺してはならない隔というルールがあるのなら、天草式は|何故《なぜ》『オルソラの暗殺を|止《と》めるために』動いたのだろう、と疑問を口にすると。  上条がその事を聞いてみると、ステイルは大して気にも留めずに、 「簡単だよ。例外があるというだけさ」 「例外だって?」 「その通りだ。『神の教えを信じる者を|殺《あや》めてはならない』……このルールに|則《のつと》るなら、教会から追い出された人間は『神の教えを信じない者』として殺しても良い事になるんだ」  |建宮《たてみや》は巨大な剣をぶら下げたままステイルの後に続く。どうでも良いが、警察に見られたらなんて書い訳するつもりなんだろうと|上条《かみじよう》は心配になった。 「罪人、|魔女《まじよ》、背信。これらのルール違反を犯した人々は縁を切られちまうって訳よな。そして縁を切られると同時に、そいつは『神の敵』というレッテルを|貼《は》り付けられんのよ一 「その方法は簡単だよ。試せば良い[#「試せば良い」に傍点]。そうだね、例えば焼けて真っ赤になった鉄の棒がある。 オルソラにこれを握らせる。もしも彼女が無罪なら、主が守ってくださるから|火傷《やけど》を負わない。 逆に火傷を負えば、彼女は守るに値しない人間だと判断された、という訳だ。ふざけた方法だろう? イギリス清教じゃ、主を試す悪法として禁じられた|試罪法《しざいなう》ってヤツさ」 「そんなの……ツ!」上条は絶句する。「そんなの、火傷して当たり前じゃねえか! 逆に火傷しない方が異常だろ!」 「そうさ。だから火傷を負わなくても[#「火傷を負わなくても」に傍点]|難癖《なんくせ》をつけられる。悪魔の加護があるとか言ってね。どちらの結果にしても、試された者は必ずレッテルを貼られるように[#「試された者は必ずレッテルを貼られるように」に傍点]決まっているんだ」  ひどすぎる、と上条は思う。  そんな|無茶苦茶《むちやくちや》な方法でオルソラの未来が決定されるなんて絶対に間違っている。 「ま、逆に言えばこの宗教裁判……いや|神明《しんめい》裁判かな。とにかく、この追放準備が済むまでは、ローマ正教は不用意にオルソラの命を奪えない。正式な手順に従うなら、一度ローマに戻って、さらに準備期間として二、三日の時間が必要となるだろう。と言っても、殺さない限りは何をやっても大目に見てもらえるだろうがね[#「殺さない限りは何をやっても大目に見てもらえるだろうがね」に傍点]」  オルソラが何を考え、どれだけの|想《おも》いで|魔道書《まどうしよ》の原典と立ち向かおうとしていたかなんて、ローマ正教は気にしていない。邪魔だから。都合が悪いから。面倒臭いから。上手くいかないから。厄介な事になるから。彼女|達《たち》はただそれだけで、オルソラの命を奪熔うとする。  同じだったはずなのに。  オルソラとローマ正教は、根っこの所では意見に違いなどないはずなのに。彼らは両方とも『法の書』を危険視していて、それを何とかしたいから行動しているだけのはずなのに。魔道書を解読しようとしたのだって、人の手では絶対に|破壊《はかい》できないと言われている原典クラスの魔道書をどうにか処分するための、突破口を探していただけなのに。  |誰《だれ》かの役に立ちたかっただけなのに。  誰よりも『法の書』が危険だと思っていたから、何とかしたかっただけなのに。 『あなた様は、魔道書の原典というものをご存知でございましょうか。また、原典はどんな方法を使っても破壊できないという話は』  ———たったそれだけの行為は、それほどに悪い事だったのだろうか。 『今の技術では、こうなった魔道書を処分するのは不可能でございましょうよ。せいぜいが封をして、誰にも読めないようにする事ぐらいしか』  ———オルソラ=アクィナスは、 『あくまで「今の技術では」なのでございます』  ———|誰《だれ》かが決めた手続きに従って、異端審問という名の手順を|踏《ふ》まされて、誰にも助けを求められないまま|黙《だま》って処刑されなければならないような事を、やったのか? 『|魔法陣《ヨほうじん》の機能そのものを逆手に取る事もできるはず———つまり、原典を自爆させる事も可能なはずでございましよう』  ———いや。 『|魔道書《まどうしよ》の力なんて、誰も幸せにしないのでございますよ。それを巡って争いしか生まなかったのでございますね。ですから私は、ああいった魔道書を|壊《こわ》すために、その仕組みを調べてみたかったのでございます』  ———いや! 「そんなもん、認められるか……」|上条《かみじよう》は、奥歯を砕きかねないほど|噛《か》み|締《し》め、「たとえどれだけの理由があったって、どれほどの事情があったって、そんな|真似《まね》が許されてたまるか!何だよそれ、ふざけんな! あいつら、人の命を何だと思ってんだ。人が抱えてきた大切なものを手続きに従って一つずつ没収していくだなんて、人の人生を何だと思ってやがる!!」  上条|当麻《とうま》は|記憶《きおく》喪失だ。  だからこそ、彼が抱えているものなどごくわずかしかない。そもそも、抱えている記憶や思い出が夏休みの一ヶ月程度のものしかないのだから、普通に生きてきた高校生の何十分の一しか、大切なものなど存在しない。しかもそのほとんどが、自分が記憶喪失である事を偽って築き上げたボロボロの思い出でしかない。  それでも、上条だって思う。そんなちっぽけなものしか持っていない上条だって、それを誰かの手で書類へ赤線を引くように奪っていかれたら、気が狂うほどの激情に駆られるだろう。  確かに、ローマ正教だって自分の大切なものを守るために戦っているのかもしれない。 でも、それはいけない事だ。  大人数で寄ってたかってついばむように、人が一人大切に抱えてきたものを、その人が見ている前で一つ一つ|剥《は》ぎ取って奪っていくだなんて、それは絶対にいけない事だ。  何で、|他《ほか》の道を探そうとしなかった?  どうして、『殺す』なんて目の前の安直で愚かな方法で満足できてしまった?  上条は血が出そうなほど強く|両拳《りようこぶし》に力を込める。深夜の暗い住宅街にぽつりぽつりと点在する街灯の光が、無機質にその姿を照らし出す。 「……。あいつらが今、どこにいるか。お前|達《たち》は分かってんのかよ?」 「大体予測はついているけどね。知ってどうする気だい?」  ステイルに|瓢々《ひようひよう》と答えられ、上条は思わず彼の胸倉に|掴《つか》みかかろうとした。こいつは何でこんなに冷静でいられるんだろう、と思う。  食い殺そうとするような上条の視線に、しかしステイルは動じた様子もなく口の端の|煙草《タバコ》を上下に揺らしている。むしろ、視界の外にいるインデックスの方が|怯《おび》えているぐらいだった。 「気持ちは分かるがね」ステイルは、悠々と煙を吐き、「少しは気を静めたらどうだ。この街に集まっているだけで、彼女|達《たち》は二五〇人近くいるという話だったろう? 君の|拳《こぶし》はそれらを|全《すべ》て|薙《な》ぎ払えるほど便利な|代物《しろもの》なのかい?」 「……ッ!!」  |上条《かみじよう》は自分の拳を握り|締《し》めた。  そう、分かっている。上条の腕は、|所詮《しよせん》路地裏のケンカレベルのものでしかない。それも勝てるのは一対一まで、一対二なら危ういし、一対三なら一方的にやられる程度の、だ。不意打ちとはいえ、さっきだって車輪を持ったシスターに一方的な|攻撃《こうげき》を受けたのだし。  現実にある素手のケンカ[#「素手のケンカ」に傍点]は映画のように、何十人もの人間をたった一人で正面から打ち破れるようなものではない。たとえどれだけ強くても、一定以上の数に囲まれたらその時点で絶対に勝ち目はないような、そういうルールが厳然として存在するのだ。  それこそ。  マンガやドラマに出てくるような、本物の|戦闘《せんとう》のプロでもない限り。  その戦闘のプロであるはずの|魔術師《まじゆつし》は、ゆったりと笑いながら煙を吐き出し、 「大体をもって、天草式の話が全部本当だったとしたら、僕達の出る幕はもうないんだ。残念ながら、この話はもう終わってしまったんだよ」 「なん、だと?」 「考えてみると良いさ。オルソラ=アクィナスはローマ正教内のルールを破って命を|狙《ねら》われた。 アニェーゼ=サンクティスはルールを破ったオルソラを罰するために彼女を追っていた。今回の件は、言ってしまえばそれだけだろう? 『法の書』の原典はバチカン図書館できちんと管理されているという話だし、彼らの事情を考えればそれが悪用されるはずはないし、天草式も『法の書』を悪用するつもりはないと言っているし、結局僕達イギリス清教が顔色を変えるような事態は何も起こっていなかったという訳さ。ま、事後の|挨拶《あいさつ》がなかったのは気に食わないが、その程度でいちいち顔を真っ赤にしても仕方がないだろう?」  今度こそ。  上条|当麻《とうま》は、迷わずステイル=マグヌスの胸倉を|掴《か》み上げた。インデックスは口を|覆《おお》って小さな悲鳴を出し、|建宮《たてみや》は上条の顔を見て小さく口笛を吹いた。  それでも、ルーンの魔術師は少しも動じない。寂れた夜の住宅街に、彼の言葉だけが|響《ひび》いて消える。チカチカと明滅する街灯の光が、神父の顔を不連続に照らし出す。 「これはローマ正教内で起きた事件を彼らのルールで裁いているに過ぎないんだ。外部へ何の|影響《えいきよう》もない以上、下手に僕達イギリス清教が文句を言えば、それを内政干渉と取られてイギリスとローマの間に大きな|亀裂《きれつ》が走る可能性すら考えられる。……残念だが|諦《あねら》めるんだね、上条当麻。それとも君は戦争を起こしてでも彼女を助ける気かいこ 「……、それは」 「イギリス清教にしても、ローマ正教にしても、所属している|全《すべ》ての人間が僕|達《たち》みたいな|戦闘《せんとう》要員とは思わない事だね。むしろ、そのほとんどは君と同じような人間なんだ。学校へ行って、友達と過ごして、帰りにハンバーガーでも食べて、それが世界の全部だと思っている人々さ。 その陰で|魔術師《まじゆつし》が|暗躍《あんやく》している事も知らないし、魔術的な戦争が起きないよう様々な組織が色々な取引を行っている事にも気づいていない、まさに善良で無力な子羊達だ」  胸倉を|掴《つか》まれたまま、しかし涼しげに魔術師は問う。  それこそ、契約を迫る悪魔のように。 「さてここで問題なんだけど、君は彼らを巻き込めるのかい? 真実を何も知らないままイギリス清教やローマ正教に所属しているだけの人々を戦争に巻き込んで、略奪して、虐殺して、そこまで奪いに奪ってでもオルソラ=アクィナス一人を守りたいと思えるのか」 「……、」  ステイルの胸倉を掴む|上条《かみじよう》の手から、力が抜けていく。インデックスは何かを言おうとしたが、結局何を需って良いか分からず吐息が漏れるだけだった。  これが、|素人《しろうと》とプロの違い。  これが、個人と組織の違い。  ステイルは退屈げに|煙草《タバコ》を吐き捨てると、それを|踏《ふ》み|潰《つぶ》しながら|建宮《たてみや》の方を見る。 「僕は君の行動まで止める権限は持たないよ。|依頼人《いらいにん》であるオルソラのためでも自分の部下達のためでも好きな理由で戦えば良い。だが向かうなら一人で行け。今回の件にイギリス清教を巻き込もうものなら、この島国全土を焦土にしてでも天草式を|災《あぶ》り出して皆殺しにする」  ステイルの|脅《おど》しに、しかし建宮は大して表情も変えずに、 「ま、そんぐらい分かってんのよ。あー、少年もそこまでヘコむなって。イギリス清教に戦う理由はなくてもこっちにゃ大有りなのよな。ちょっくら連中のアジトまでお邪魔して、仲間を救出するついでにオルソラ|嬢《じよう》も助けてやんよ。なあに。こちとら少数精鋭で|無駄《むぜ》にデカイ組織とぶつかるのには慣れてるよの。元々が幕府と対抗しながら発展していった宗派だからよな」  その声に、上条は顔を上げた。  彼の|隣《となり》にいたインデックスは建宮の顔を見て、 「今から天草式の本拠地にいる|他《ほか》の伸間達に召集をかける気なの? でも、特殊移動法は一日待たないと使えないし、そんなに待ってたらローマ正教は国に帰っちゃうかも」 「だろうよ。そんな安全策を取ってたら間に合わねえのよ」  需って、建宮はわずかに白い大剣を揺らした。ステイルはつまらなそうな声で、 「一人で行くとか言う気かい?」 「それしかねえならそれで行くしかねえってのよ。ま、幸い連行されてったウチの|馬鹿《ばか》どももまだ処刑されてねえだろう……殺す気ならわざわざ連行せずあの場で|斬《き》ってるべきなのよな。オルソラと|一緒《いつしよ》に裁判にかけて『天草式と結託して「法の書」を盗み出した』ってした方がりアリティあんだろうからよ。なんで、あいつらの拘束を解いて上手く|焚《た》き付けられりゃ、かろうじて勝機はあるかもしんねえってなもんよ」  |建宮《たてみや》は愉快げな顔で|緊張《きんちよう》を隠し、 「|狙《ねち》うとすれば、移動時よな」  その巨大な剣の先をゆらゆらと揺らして、 「昔から追われ続けたウチら天草式としちゃ、集団の怖さと|脆《もろ》さは熟知してるよの。大人数の最も弱い所は何と言っても移動中でな、百人単位の人間が大移動すりゃ絶対にほころびが生まれんのよ、大体、ローマ正教と|捕縛《ほばく》された天草式、合わせて三〇〇人以上いんだぜ? それだけの修道士がまとめて移動するなんて無理よな、真っ黒なシスター|達《たち》が何百入と集合して街をねり歩いたら、下手すりゃデモや暴動と見られてテレビ局すらやってくる危険性もある、だからこそ、ヤツらは必ず移動のために何らかの偽装を行うだろうよ、集田を少人数に小分けして車に乗せていくとかよな。そういう偽装中には本来の力を発揮しきれないってのが定石なんで、|奇襲《きしゆう》をかけるならその時しかねえってもんよ」  建宮の話だとローマ正教は天草式のような、移動に|魔術《まじゆつ》を使うような|真似《まね》はしないらしい。確かに、船なり飛行機なりをチャーターするなら今は時間が遅すぎる。おそらく大移動が始まるのは夜が明けて、港や空港が開いてからになるだろう。 「……、」  移動こそが最大のチャンス。  だが、それは逆に言えばローマ正教が移動を始めるまでは手が出せないという事を意味している。ステイルは、ローマ正教がオルソラを抹殺するためには、宗教裁判という手続きを|踏《ふ》まなければならないと言っていた。  しかし、それと共に殺さない限りは何をやっても大目に見てもらえるとも。  二五〇人もの集団に取り囲まれて行われる暴力。それはある意味において、正当な手順を踏んだ刑罰よりも恐ろしいかもしれない。何せ明確に法で定められた訳ではないので、どこまでがオーケーで、どこからがいけないのか、その明確なボーダーラインが存在しないのだから。  死ななければ、何をやられても良いのか。  息をしてさえいれば、どんな目に|遭《あ》っても幸運だったとでも言うつもりか。  |上条《かみじよう》が顔を|曇《くも》らせていると、建宮も彼の考えている|危惧《どぐ》に勘付いたらしく、 「……。分かれ、って言うのも酷かもしれんがよ。いくら我らでもできる事とできない事はしっかり存在すんのよ」  建宮の言葉には苦いものが含まれていた。おそらく、プロの彼は|素人《しろうと》の上条よりも鮮明に想像できるのだろう。ローマ正教の者が、捕らえた敵をどのように扱うのかを。  上条|当麻《とうま》は近くの電信柱を思い切り|殴《なぐ》りつけた。  最悪の事態が想像できるのに、何も行動に移せない自分がどこまでも情けなかった。  ろくに言葉を返す事もできない|上条《かみじよう》をステイルはつまらなそうに見て、 「話は決まったようだね。それじゃ、僕|達《たち》も適当に解散して姿を隠そう。こっちは一度上へ連絡して、次の指示でも仰ぐとしようかな。ローマ正教と天草式の問題はこれで片付いたが、僕はこれから|神裂《かんざき》の方をどうにかしないといけない。上条|当麻《とうま》、君はインデックスと共に学園都市へ戻れ。最重要人物オルソラを抱えた今のローマ正教が、科学サイドにケンカを仕掛けてまで部外者の君達を|襲撃《しゆうげき》しようとは思わないだろうさ」  彼は新たな|煙草《タバコ》に火を|点《つ》けて、 「まぁ、せめてイギリス清教にオルソラ=アクィナスを助けるだけの正当な理由があるなら話も変わったかもしれないが、今の僕達にはここが限界だよ」  心の底からつまらなそうに煙を吐いて、 「ああ。それと上条当麻。一つだけ聞いておきたい事があるんだ」 「……、何だよ?」  彼が力なく振り返ると、ステイルは皮肉げな笑みを浮かべたまま、 「前に僕が君にやった十字架。今、君は持っていないようだが、どこへやったのかな?」 「……、」上条は少し考え、思い出し、「悪い、オルソラに預けちまったままだった。|俺《おれ》が首に掛けてやったらメチャクチャ喜んでたけど。あれ、そんなに高価なモンだったのか?」 「いや、何の変哲もない鉄の十字架だよ。きっと|土産物《みやげもの》を作ってる町工場で大量生産されてるものだろう。イギリスじゃあ珍しくもない、国旗の一部にもなっている|聖《セント》ジョージの十字架さ」ステイルは|何故《なぜ》か笑みに愉快そうな色を含め、「あんな十字架に装飾や|骨董《こつとう》としての価値はないさ。あの一品を君が持っている事に価値があったんだが……まあ良い。どうせもう、今の君には必要ないものだろうからね」  ステイルは訳の分からない|台詞《せりふ》を煙と|一緒《いつしよ》に吐いた。  上条はその意味も理解できないまま、暗い道を引き返す。  こうして、つまらない事件はつまらない結末と共に幕を下ろした。      3  |建宮斎字《たてみやさいじ》の姿は消えていた。  ステイルはインデックスが無事に学園都市に入るまでは護衛をするつもりらしい。インデックスはとぼとぼと夜道を歩く上条の|隣《となり》にいたが、何を話しかけて良いか迷っているようだ。  日本の首都と言っても、中心から外れれば夜は|暗闇《くらやみ》に包まれる。時刻を見れば午前一時を過ぎていて、街の明かりのほとんどが落ちていた。マンションは歯が欠けたようにポツポツと|灯《あか》りの|点《つ》いた窓があるだけで、時々酔っ払いを乗せたタクシーが通り過ぎていく。街灯はチカチカと|頼《たよ》りない点滅を繰り返し、光に集まるたくさんの細かい羽虫を照らし出していた。  戦いを軸に置いた非日常な一日はもう終わっていた。あと数時間も|経《た》てばまた学校を中心としたいつもの日常へ戻る事になる。|上条《かみじよう》は寝不足の頭を振って学校へ向かい退屈な授業を受けて、|土御門《つちみかど》や青髪ピアスとくだらない話をして帰り道では結局夏休みの宿題の宿題が終わらなかった事を|美琴《みこと》に責められてビリビリを飛ばされる事だろう。 「……。どうすれば、良かったんだろうな」  ポツリと、上条は言った。  その声にインデックスは彼の顔を見たが、上条は|傭《うつむ》いたままだった。  オルソラ=アクィナスを助けたかった。  だけど、彼には彼女を助けるための方法が何一つ思い浮かばなかった。 「|素人《しろうと》考えじゃ、何をやってもプロには勝てないのは分かってる。けどさ、素人にでもできた事はあったんじゃねえのかなって思うんだ。例えば初めてオルソラと会った時に、素直に学園都市に連れて行ってやったらどうなってたんだろう、とか。ローマ正教の手伝いさえしなけりゃ、オルソラは天草式の手を借りて特殊移動法で逃げ切れたんじゃないのか、とかさ」 「とうま……」 「もちろん分かってんだ。それは単にそっちの結果を見てないから希望に見えるだけなんだって。きっとオルソラが学園都市に逃げ込んでも、ローマ正教は彼女を追って侵入してくる。|俺達《おれたち》が協力なんてしなくても、ローマ正教は人海戦術で包囲網内をくまなく捜して天草式の人間が集まってるポイントを発見しちまう。そういうものなんだってのは、分かってんだけどさ」  上条|当《とき》麻は、思い出す。  オルソラと出会った時の事を。学園都市の入り方を教えてもらおうとした時のわずかに不安の混じった声を。夜のテーマパークに隠れている時の、彼女の笑みを。ようやく信用できる相手を見つけたと思ったのか、妙に|饒舌《じようぜつ》になって話しかけてきてくれた彼女の言葉を。  そして最後に。  どこからか聞こえてきた、絶望の悲鳴を。 「それでも……本当に、どうすれば良かったんだろうな」  そう思う事そのものが危機感の足りない素人の考えだというのは良く分かる。今回の件は、上条には何の関係もない。ただの高校生が、偶蟄フロの|魔術《まじゆつ》世界の厳しさを|垣間見《かいまみ》てしまっただけで、今は元の世界へ帰る途中だというだけだ。それを|替《とが》める者はいないだろうし、本物の魔術世界に身を置いてその恐ろしさを知る者なら一般人が無事に帰っていく姿を見てホッと胸を|撫《な》で下ろすかもしれない。  ステイルはすでに語るべき事は前の説明で|全《すペ》て語り終えたと考えているのか、上条の泣き言を聞いても一言も口を挟もうとしない。  一方で、インデックスは上条の顔を下から見上げる形で、 「……とうま。これは|魔術師《まじゆつし》の問題なんだから、とうまが無理に|関《かか》わらなくてもいいんだよ。 何にもできない私には偉そうな事なんて言えないけど、|建宮斎字《たてみやさいじ》がやると言ってるんだから、彼に|頼《たよ》るしかないと思うよ……」 「……、そっかな」  |上条《かハじよう》の気の抜けた声に、インデックスは泣きそうな顔で、 「そうだよ。|全《すべ》ての魔術師の問題はとうまが解決しないといけない、なんてルールはないもん。 対魔術師専門の私が何もできないのは責められて当然だと思う。でも、とうまがいなくても解決する問題は解決するの。とうまは今まで多くの魔術師と関わってきたと思うよ、部外者にしては[#「部外者にしては」に傍点]。だけど世の中にはとうまの知らない魔術師なんていっぱいいるし、その人達だって様々な問題を抱えていて、彼らはとうまの力なんて借りないで決着を着けていく。今回のもそういう事———とうまは単に、自分が結末に関わらない事件[#「自分が結末に関わらない事件」に傍点]を初めて|目撃《もくげき》しただけなんだから」 「そうなの、かな」  上条は機械的に返事をしながらも、内心で|驚《おどろ》いた。彼女もオルソラがこれから|辿《たど》る道は想像ができているはずなのに、彼女はこれ以上オルソラの件には関わらないと断言してしまった。  あるいは、逆に。 矛盾した発言でもしなければ、もう上条は|慰《なぐさ》められない所まで来ているのかもしれない。 「うん。今までがおかしかったんだよ。目の前で起きた問題を何でも自分で解決できる人間なんていないの。とうまは|誰《だれ》かに頼ってもいいんだよ。とうまは誰かに結末を任せてもいいんだよ。目の前の家が火事になって、中に幼い子供が取り残されていたからって、とうまが飛び込まなきゃいけない理由はないの。そこで助けを呼ぶのは、決して恥ずかしい事じゃないんだよ」  インデックスは言う。 「とうまはもっと人を頼るべきだと思う。私|達《たち》『|必要悪の教会《ネセサリウス》』だって、そのために作られたものなんだから。私達みたいな組織でも身動きの取りづらい問題を、とうま一人の乎で解決できなかったからって、誰もとうまの事は責められないよ」 「……、」  たまたま自分の出番は最後まで用意されていなかった。それだけの事なのかもしれない。自分の出番が終わったからと言って、そこで事件がブッツリと唐突に断ち切れる訳ではない。ここから先は建宮斎字が主人公になって決着を着けるだけの話なのかもしれない。  確かに目の前で通り魔事件が起きたからと言って、目撃者が事件を解決しなければならないなんてルールはない。警察が犯人を捕まえた所で、目撃者が責められる事はないだろう。 「建宮は、ちゃんとやってくれんのかな」 「ある程度の勝算はあると思うよ。あの人だって本物の魔術師だし。特に厳しい迫害の歴史を持つ天草式はその手の計算は得意だし、絶対に勝てない敵に挑もうとは考えないはずだよ」  そっか、と上条は|頷《うなず》いた。  もう、良いと思う。自分が無理して戦わなくても事件が解決するのなら、|素人《しうつと》がでしゃばる必要はないように思う。それが普通の考えだ。勝手も分からないただの素人が好きなように引っ|掻《か》き回して、そのせいでさらに悪い方向に話が進んでいくかもしれないのなら、いっそ手を出さないというのも つの手だと思う。  |全《すべ》ての事件の決着を着けなければならないなんてルールはない。  むしろ大きな視点で見れば、|上条《かみじよう》が|関《かか》わらずに解決された事件の方がたくさんある。  だから、それらの一つを|垣間見《かいまみ》たぐらいで気にする必要はない。  上条が関わらなくても、事件は誰かが勝手に幕を下ろしてくれるのだから。  彼は夜空を見上げ、ゆっくりと両手を上げて伸びをした。体の中に|溜《た》まった疲れを自覚するのと同時に、ようやく学生|寮《りよう》の|布団《ふとん》が恋しくなってきた。 「じゃあ、帰るか」  上条は、口に出して言った。  そうする事で、非日常と日常をきちんと区切るように。 「あ、そうだ。帰る前にどっかお店に寄ってきたいな。この時間だとスーパーもデパートもやってないだろうから、せいぜいコンビニ程度か。冷蔵庫の中が空っぽだからなんか買い込んどかないとって思ってたんだけど……ま、良いか。学園都市の『外』のラインナップにも興味はあるし、『中』じゃ売ってない弁当とかあるかもしんないしな」 「……、とうま。何だか急に所帯じみてきたのかも」 「悪かったな。どうせ|俺《おれ》は最近|家計簿《かけいぼ》をつけるのが楽しく感じてきた地味な高校生ですよ」 「たまには家計簿を気にしないぱーっと豪勢なご飯も食べてみたいよね」 「嫌なら良い。ただし明日の朝食は空っぽのお皿に水だけだ。後は巧みな想像力でカバーせよ」  とうまーっ!? とインデックスは夜中でも構わず叫ぶ。  上条は簡単な事で真っ青になる食欲少女を見て笑いながら、 「じゃあちょっとコンビニ探して適当に明日の朝食だけでも買ってくるわ」 「あれ? 『こんびに』ならみんなで|一緒《いつしよ》に行けば良いかも」 「お前を連れてくと何でもかんでも手当たり次第にカゴに突っ込んで買い物どころじゃなくなるだろ。んじゃ、ぱぱっと行ってくるから。ステイル、先にインデックスを連れて学園都市の中まで案内してやってくれ。連れ出す事ができたんなら侵入するのもできるだろ。……いやあっさりできてもそれはそれで困るんだけどな」 「君がそうすると言うなら。この子にとって有益な申し出なら受けてやっても構わないが」  ステイルは口の端の|煙草《タバコ》を上下に揺らしながら、 「ところで、場所は分かってるのかい[#「場所は分かってるのかい」に傍点]?」 「……、別に。コンビニなんてその辺を走り回れば見つけられるだろ」  結構、とステイルは皮肉げに笑うと、インデックスをエスコートして深夜の|闇《やみ》へと消えて行った。インデックスは|上条《かみじよう》と|一緒《いつしよ》に居たかったようだが、上条はパタパタと手を振って拒否した。  上条|当麻《とうま》は彼らの姿が見えなくなるまで待ってから、きびすを返した。  来た道を真っ直ぐ戻るために[#「来た道を真っ直ぐ戻るために」に傍点]、きびすを返した。 「あの野郎。バレてたかな……」  上条は口の中で小さく舌打ちしながら|眩《つぶや》いた。 (財布は学生|寮《りよう》に置きっ放しだしな。コンビニなんか行っても仕方がねえっての)  彼は歩きながら、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。白いバックライトが彼の顔を淡く照らし出した。上条はボタンをいくつか押すと、GPSサービスを使って地図の検索を始める。検索しているのはもちろん、この近くにあるコンビニではない。  上条当麻はアニェーゼ=サンクティスの言葉を思い出す。 『数が多いのがウチの特権なんです。世界一一〇ヶ国以上に仲間がいんですから。日本にだってたくさん教会はありますし、今もオルソラ教会って新しい神の家を建設中なんで。確かこの辺りだったと思いますよ。すぐ近くです。完成すりゃ日本国内では最大規模になるとかって触れ込みだったと思います。野球場ぐらいの大きさがあったはずですけど』  学園都市のGPS機能はとても正確で更新も早く、軍事衛星として機能してるのではとウワサされるほどの精度を誇る。そこには最新の建物はおろか、建設予定地までもが|完壁《かんぺき》に表示されていた。対照的に、『|薄明座《はくめいざ》』跡地のような所は、早くも地図から消されている。  当然ながら建設予定地の建物名はGPS地図には登録されておらず、ただ漠然と『予定地』と表記されているだけだ。が、画面を見ればすぐに分かるだろう。野球場クラスの巨大な建設予定地など一つしか見当たらない。 『はい。あの人は三ヶ国もの異教地で神の教えを広めたってな功績があって、自分の名前を冠する教会を建てる許可を特別にいただいたんで。上手な言葉を使う人だったでしょ?』  上条は携帯電話の画面を眺めながら、その足を速めた。確かに彼女の言葉通り、ローマ正教の拠点、オルソラ教会はこの街の中にある。大人数での移動が集団行動の弱点となり、それを少しでも軽減しようとするなら、最短距離にあるこのオルソラ教会を|要塞化《ようさいか》するのが筋だろう。 建設中だろうが何だろうが、上条の知らない|魔術《まじゆつ》でも使って。  きっとローマ正教の面々はそこにいる。  アニェーゼ旺サンクティスも、そしてオルソラ=アクィナスも。 『教会が完成したら招待状でも送りますんで。ですがその前に、目先の問題を片付けちまいましょう。後味良くて素敵な結末を迎えられますように』  上条はアニェーゼの冗談を思い出して小さく笑った。 「まだパーティの準備も招待状の宛名書きも終わってねえだろうが、飛び入りでお|邪魔《じやぼ》させてもらうとしますかね」  目的地が明確に分かった以上、立ち止まる必要はない。  |上条《かみじよう》の足はさらに速くなり、早足から気がつけば暗い夜道を走り出していた。  彼には戦う理由なんてない。  彼が戦わなくても|他《ほか》の|誰《だれ》かが勝手に決着を着けてくれるに違いない。  目の前の家が火事になって、中に幼い子供が取り残されていたからと君って、上条が飛び込まなければいけないルールなんてない、とインデックスは言った。  誰かに助けを求める事や、決着を任せるのは悪い事じゃないと、言ってくれた。  しかし。  例えば、火事の家の中に取り残された幼い子供が、ずっと上条が助けに来てくれると信じてくれているとしたら、どうだろうか。  確かに一番賢明な選択は一刻も早く消防署に連絡を入れる事だ。  だけど、上条は愚かでもその子供に背中を見せたくない。たとえそれが自分にとって一番楽で安全な選択だったとしても、彼はその|信頼《しんらい》を裏切りたくない。  オルソラ=アクィナスは今でも上条|当麻《とうま》を信じてくれているだろうか?  ここまで愚かな選択を続けた彼を、彼女はまだ子供のように信頼してくれているだろうか? 幸いにして、上条当麻はイギリス清教やローマ正教など、特定の組織に所属している訳ではない。元が一般の学生でしかない|素人《しろうと》なのだから、そういったしがらみは一切ない。インデックスやステイルといったプロの人問に協力を求められないが、その代わりに素人には素人にしかできない事があるのだった。  唯一の不安と言えば学園都市という科学サイドの一員とみなされる恐れがある事だが、おそらく本格的に危険な事態になれば学園都市という組織は自分の存在を退学・|除籍《じよせき》処分にして組織としての|関《かか》わりを抹消するだろう。  それでも構わないと上条は思う。  それでもこの道を選びたいと思える自分自身に、上条当麻は思わず笑ってしまう。  戦う理由もないままに、少年は夜の|闇《やみ》を走り続ける。  事実として、彼には戦わなければならない理由など一つもなかったが、  だけど、戦い続けたい理由ぐらいは胸の内にあったから。      4  オルソラ教会と名のついているものの、それはまだ教会と呼べるような建物ではなかった。 並の学校の体育館を四つも五つも並べられるほどの大きさを持つ教会は、完成すれば日本国内では例を見ないほどの本格的な大聖堂となるだろう。学園都市の|眼《め》と鼻の先に拠点を置く事で科学勢力に対する|牽制《けんせい》という意味合いすら含む。しかし、建設途中の現状ではただ広いだけの空間は寂しさしか生み出さない。  教会はようやく外壁を築き終えた所だが、まだ周囲には鋼鉄の足場や|梯子《はしご》などがそのまま放置されている。内装に至っては何も用意されておらず、まるで無粋な|傭兵団《ようへいだん》にでも略奪された後のようにすら見えた。ステンドグラスがはめ込まれる予定の窓はぽっかりと暗い穴を|覗《のぞ》かせ、巨大なパイプオルガンが設置される予定の場所も今は不自然な空間がわだかまっているだけだ。 大理石の床や壁は新品の輝きを放っていたが、その一方で|説教壇《せつきようだん》の後ろの壁には、本来壁に掛けられる予定の大十字架が無造作に立てかけられていた。  だが、それだけではここまでの不気味な空間は作り出せない。  人工の|灯《あか》りもなく、ガラスのない黒い穴から注ぐわずかな星明りしか存在しない大聖堂の中には、|闇《やみ》に浸したような|漆黒《しつこく》の修道服を着たシスター|達《たち》が何百人と無言で|停《たたず》んでいた。彼女達は輪を作るように、そしてその輪を何重にも取り囲むようにしている。|各々《おのおの》の手には剣や|槍《やり》などの見て分かる武器や、巨大な歯車や|鉤爪《かぎづめ》などの宗教的な|儀式《ぎしき》用具などが握られていて、それがわずかな星明りを浴びてギラギラと光を放っている。その|他《ほか》に人の姿はない。捕らえた天草式の面々は同じ|敷地《しきち》内の別の建物の中に、一〇人ほどの見張りをつけて拘束・管理している。  シスター達の意識は建物の外になど向いていなかった。  彼女達の|眼《め》は、ただ人の輪の中央にぽっかりと空いたスペースへと集中している。  何かを|殴《なぐ》る音が聞こえた。  |誰《だれ》かの押し殺すような悲鳴が聞こえた。 「ったく、手間あかけさせちゃあ|駄目《だめ》でしょう? 私も含めて皆さんお忙しんですよ、残念ながら。あなたの遊びになんざ付き合ってる暇なんてないんです。分かってんなら大人しく処刑を待———おい、聞いてんですか? 聞いてんですかーっつってんでしょうがよ! こら!!」  どす、という重たい袋を|蹴飛《けと》ばすような音。  それと共に、この世のものとは思えない絶叫が闇を引き裂いた。 「ハッ!! 何ですかあその悲鳴は。すっかり女捨てちゃって、みっともないとは思わないんですか?ああくそ、教会の名前も変えなくちゃなんないですね。こんなブタとかロバみたいな名前つけてちゃ笑いものにしかなんねえですから!」  オルソラ=アクィナスは答えられない。  彼女は今、ボロボロになるまで殴られて床の上に倒れていた。まるで馬にロープで|繋《つな》げて引きずられたように衣服は破れ、ファスナーも|壊《こわ》れて布地が大きくめくれ上がっている。  アニェーゼ達は何か特殊な|魔術《まじゆつ》を使ってオルソラを苦しめている訳ではない。ただ単純に彼女の手足や腹を蹴飛ばしているだけだが、それも数が重なれば壮絶な苦痛を生み出す。総数二〇〇人を超す数の暴力は、手加減した今でさえ、なおオルソラを死の|淵《ふち》ギリギリのラインへと追い込んでいく。何せ一人一回殴っても二〇〇発だ。|天井《てんじよう》から落ちる水滴が岩に穴を空けるのにも等しい。床に投げ出されたオルソラの手足は一目で力が入れられない事を|窺《うかが》わせた。  床に投げ出されたまま動かないオルソラの足を、アニェーゼは無造作に|踏《ふ》みつける。厚い靴底が、|万力《まんりき》のように圧迫を加えていく。 「ひっ……!?」 「まぁ、確かに逃げ出したくなんのも分かっちまいますけどね。あなたの末路を知る身としちや、あなたはここで死んどいた方が幸せかもしれません。ねえ、|枢機卿達《すうきなようたち》が出席する|宗教裁判《インクジシヨン》ってどんなもんか知ってます?あはは、本人達は|大真面目《おおまじめ》のつもりなんでしょうけど、ひどいもんですよ。ああいうのはやっぱり本場イギリスには|敵《かな》いやしませんね。実際両方を見比べた私の意見としちゃ、ウチの方はごっこ遊びみてえなもんです。ハッ、はは! あの|歳《とし》になってまだオママゴトをやめられないジジイどもに付き合わされて散らされるだなんて素敵な末路じゃないですか! ねえ!?」 「———ッ!?」  ぎりぎりと踏みにじられる足からの激痛のせいで、オルソラはまともな返事ができない。|迂闊《うかつ》に口を開けば舌を|噛《か》んでしまうような気もする。  どうしてこんな事になったんだろう? とオルソラは、ぼんやりする頭で考える。  |魔道書《まどうしよ》『法の書』の原典は|誰《たれ》にとっても邪魔で邪悪でいらないものだった。誰もがそれを焼き捨てたいと思っていた。手にした者をことごとく破滅へ導く、文字通り|魔 の 道 の 書《li libro di un modo pericoloso.》。でも、原典は人間の手では処分できないようなもので、だから仮処分として魔道書を封印して厳重に保管しておくしかなかった。  オルソラ=アクィナスはそれをどうにかしたかった。  彼女もローマ正教も、悪名高い『法の書』を消したいという気持ちは同じだったはずだ。  それなのに、何で。  何がどう変化したら、ここまで決定的に道が分かれてしまうのだろう?  最後の最後で、彼女は救いを見たような気がしたのに。  どうして、あの少年は自分の身柄をアニェーゼに引き渡してしまったんだろう[#「あの少年は自分の身柄をアニェーゼに引き渡してしまったんだろう」に傍点]? 「それにしても、随分と|頼《たよ》れるお友達が少なかったみたいじゃないですか。まさか、たまたま現地で出会った天草式なんぞに協力を求めちまうとはね」  アニェーゼ=サンクティスは、そんなオルソラを上から|見下《みくだ》していた。  それこそ怪しげな魔道書にでも|魅《み》せられたような表情で、がん、ごん、とオルソラのふくらはぎを|蹴《け》り続ける。骨まで|響《ひび》くような痛みの|嵐《あらし》が、彼女の神経をズタズタに引き裂いていく。 「死の|淵《ふち》まで追い詰められといて、最後にすがったのは小汚い国の見知らぬ東洋人どもとはね。 あっ、ははは!|駄目《だめ》ですよ、あんな聖典も読めない|仔豚《こぶた》さん達なんかに期待しちゃ。私達のルールじゃ洗礼を受けたローマ正教徒以外の人間と結婚したら|獣姦罪《じゆうかんざい》に問われちまうって知ってんでしょうが。同じ十字教なら何でも良いと思っちまってたんですか? 天草式だのイギリス清教だの、あんなのが十字教を名乗るのもおこがましいってなもんですよ。あいつらは人間じゃありません、ただのブタとかロバでしょ? そんなもんに大事な命を預けちまうからこんな目に|遭《あ》っちまうんです。ったく、|獣《けもの》を|騙《だぼ》すのって簡単ですよね。ちょっと手なずければ後は向こうが獲物を口に|唾《くわ》えて持ってきてくれんですから!」 「……、だま、された?」  それまで痛みで|朦朧《もうろう》としていたオルソラの意識が、ゆっくりと外側へ向いた。 「あの、方|達《たち》は……騙、されたので、ござい、ますか……?」  裂けた唇から|溢《あふ》れる粘っく血が、言葉を|紡《つむ》ぐのを阻害する。  それでも、オルソラは問いかける。 「あなた、達に……温力……したの、では、なく……騙され、て……?」 「そんなのどっちでも良いでしょうが。どちらにしても何にしても、あなたはこうして私達に捕まっちまってんだから。くっくっ、あはは!! あーあーそうそう愉快でしたよ愉快愉快! あいつら『|悪《あ》しき天草式からオルソラ=アクィナスを必ず助け出してやる!』みたいな事言っちゃってさぁ!! |馬鹿《ばか》みたいですよねぇ!? 守るべき者をテメェがその手で敵の元へ送り返してちゃあ世話ないってなもんですよ!!」 「……、」  そうでございますか、とオルソラの顔から、わずかに|緊張《きんちよう》が解けた。  彼らは、決してオルソラをローマ正教に売り渡すつもりはなかった。あの笑みも、あの言葉も、一つたりとも偽りではなかった。彼らは真剣にオルソラの事を心配してくれて、彼女を助けるためだけにあんな危険な戦場までやってきてくれた。  たとえそれが失敗に終わったとしても。  その努力は空回りして、逆に彼女の命を|脅《おびや》かしてしまったのだとしても。  彼らは、最後の最後までオルソラ=アクィナスの味方でいてくれた。たったの一度さえ彼女を見捨てず、裏切らず、終わりの終わりまで戦ってくれた、温かく、|頼《たの》もしい、味方だった。 「ナニ笑ってんですか、あなた」 「そう、ですか。私は今、笑っているのでございます、ね」オルソラはゆっくりと、優しい声で、「何となく……思い知らされたので、ございますよ。私達、ローマ正教の本質が……どういうものなのかを」 「あ?」 「彼らは……信じる事によって、行動するのでございますよ。……人を信じ、想いを信じ、その気持ちを信じて、どこまでも駆けつけ、て……くれるので、ございましょう。それに対して、私達の……なんと|醜《みにく》い事、か。私……達は、騙す事でしか、行動できな……い、ので、ございます。協力者の心を騙し、私を、処刑するために……出来試合の、裁判で民衆を騙し、それが、神の定める正しい行いなのだと……自分自身さえ騙して……」 「———」 「もっとも……私にしても、偉そうな事を言えた立場では……ございません。私が、最初から、天草式の皆さんを……信じていれば……こんな大事には発展しなかったでしょう。彼らの計画通りに私は逃がしてもらえて、天草式の方々にも……危険は、及ばなかったはずでございます……。結局、私|達《たち》のこの無様な姿こそが……ローマ正教の本質なので、ございましよう?」  オルソラは、笑う。  ボロボロの顔で、少しも面白くなさそうな表情で。 「……私はもう、あなたの手から逃れる事はできないので、ございましょう。そしてあなたの予定通り……私は、偽りの罪人として……裁かれ、|闇《やみ》に葬られましょう。けれど、私はもうそれで良いのでございますよ……。———私は、自分自身を|騙《だま》せませんし…! まして、私のために……|無償《むしよう》で、力を貸してくれた人々を、騙すなど……絶対に、絶対に……不可能で、ございましょう? 私は、もう二度と、あなたの同類などと、呼ばれたくないのでございます……」 「殉教者の|台詞《せりふ》ですね。もう列聖でもしたつもりなんですか、あなたは」  ごん、と空き缶を|蹴飛《けと》ばすような気軽さで、アニェーゼの厚底によってオルソラの足が|踏《ふ》みにじられる。 「そんなに死にたいならお好きなようにしちまってください。抵抗がない方がこっちとしてもやりやすいですしね。せいぜい、自分をこんな目に|遭《あ》わせちまったあの|馬鹿《ばか》どもを恨みながら死に|逝《ゆ》けばいんですよ」  と言っても、アニェーゼはオルソラの抵抗などないに等しいと考えているはずだ。彼女の周囲には二〇〇人ものシスター達が待機し、さらにこの教会の周囲には強大な結界が|敷《し》いてあるのでまず絶対に逃走はできない。  |朦朧《もうろう》とする意識の中、オルソラの耳には間近にいるはずのアニェーゼの言葉さえ、途切れ途切れにしか聞こえなくなる。しかし、オルソラはほとんど動かなくなった頭を巡らせ、 「一体……何を恨めば、よいのでございましようか?」 「な……に?」 「彼らには、元々……戦う理由などなかったのでございますよ。聞けば、その中の一人はローマ正教でも……イギリス清教でもない、本当に……ただの少年だったとか。それでも、何の力も理由もなくても、彼らは見ず知らずの私のために駆けつけて……きてくれたのでございます。 ほら、これ以上に……|魅力的《みりよくてき》な贈り物が、この世界のどこにあるというのでございましょう……。こんなにも、素晴らしい贈り物をくださった……方々に、私は一体何を恨めばよいというのでございますか?」  そう、恨むものか。  絶対に、恨むものか。  彼らがオルソラを無事に助けられなかったとしても、それは決して責められるような事ではない。|何故《なぜ》なら、彼らにはオルソラを必ず助けなければならない義務などないから。『義務』があるから仕方なく戦っていたのではなく、彼らはオルソラを助けたいという『権利』を使ってわざわざしなくても良い戦いに身を投じてくれたのだから。  戦ってくれただけでも、立ち上がってくれただけでも、存分に感謝に値するはずだ。  だから、オルソラは彼らを決して恨まない。  見ず知らずの自分にそこまでしてくれた人々と出会えた幸福を、彼女は心から誇らしく思う。 最後にそんな人々と接していられた幸運を、神様に感謝しようと思う。  もう、満足だ。  もう、十分だ。  オルソラ=アクィナスはこれ以上の幸せなど両手で抱えきれないと考えているのに。  それでも[#「それでも」に傍点]、彼女の幸福はまだ止まらない[#「彼女の幸福はまだ止まらない」に傍点]。  何故ならば、次の|瞬間《しゆんかん》。  バン!! と何かの砕ける音と共に、教会を包んでいた結界が消し飛ばされたからだ。  アニェーゼは思わずオルソラから視線を外していた。  外さざるを得ないような事態が進行していた。 「こわ、れた……? まさか、おい! あの扉にかけられたアエギディウスの加護の再確認! それから周囲の索敵! くそ、一体どこの組織だってんですか。あれはどう考えても個人で破れるレベルの結界じゃあない。敵の集団はどこから|攻撃《こうげき》を仕掛けてやがるんですか……ッ!!」  矢継ぎ早に下される命令。  しかしその内の一つが実行されるより早く、望んだ答えはやってくる。 「あ……」  オルソラ=アクィナスは見る。  教会の正面入口、|樫《かし》でできた大きな両開きの扉が勢い良く開け放たれる。まるで粗雑な絵本に描かれた王子様がお姫様を助けに来たシーンのように、そこには何者かが立っている。  そこに立っていたのは、ただの少年だった。  彼は何の変哲もない少年のはずなのに、逃げも隠れもせずにやってきた。  それは、|誰《だれ》のために?  それは、何のために?  オルソラを取り囲んでいた二〇〇人以上ものシスター|達《たち》が、一斉に、しかし音もなく、ギョロリと眼球を動かしてその少年を|睨《にら》みつける。ただでさえ何百人という人数は数の暴力となるし、まして彼女達は皆、普通の人間ではないのだ。それに恐怖を感じないはずがない。彼がごくごく普通の平凡な少年に過ぎないのなら、怖くないはずがない。  それでも。  それでも、少年は|怯《ひる》まずに、一歩。  オルソラ=アクィナスを助け出すために、|暗闇《くらやみ》に塗り|潰《つぶ》された教会へと|踏《ふ》み込んだ。  踏み込んで、きてくれた。  もう大丈夫だぞと、断言するように。      5  |上条当麻《かみじようとうま》は、広大な作りかけの教会の中へと踏み込んだ。  ひどい場所だった。  エアコンもない熱帯夜、何百人と人の集まるその場所は、広大とはいえ密室という事もあって異様な熱気に包まれていた。濃密な汗の|匂《にお》いが|暗闇《くらやみ》の奥から流れてきて、まるで巨大な|獣《けもの》の巣穴に|潜《もぐ》り込んだような印象がある。  暗闇に溶けるように何百人という黒いシスター|達《たち》が渦を巻いている。  その中心に一人の少女が倒れているのを見て、彼の自が音もなく細まっていく。  と、そんな上条の感情を知ったのか、|嘲《あざけ》るような笑い声が聞こえてきた。  上条がそちらを見ると、彼が知らないアニェーゼ=サンクティスが立っていた。 「そういやぁ、おかしいとは思ってたんですがね」くすくすと、少女は笑みをこぼし、「|魔術師《まじゆつし》でもないただのド|素人《しろうと》が、どうしてゲスト扱いで戦場へ駆り出されていたのか。……理屈は分かりゃしませんが、結界に対して絶対の力を持つ『何か』があると、そういう訳ですか」 「……、」 「あらまぁ、どうしちまったんですか? 忘れ物ですか、お|駄賃《だちん》が欲しいとか? あーあー、そこに転がってるモノに未練があんなら裸に|剥《む》いちまっても構いやしませんよ」  ジリジリと熱を帯びたような声。まるで悪い酒にでも浸ったような愉悦。 「一応聞くけどよ。もう、ごまかすつもりもねえんだな?」 「ごまかす? 何を!? この状況見て分かんないんですか? 一体どっちが上でどっちが下か。まさかとは思いますが、私とあなたがおんなじ舞台に立ってるだなんて思っちゃあいませんよね? さあ、この人数相手にあなたがどういう選択を取るべきか、|他《ほか》ならぬあなた自身の口で言ってもらいましようか」  確かに、たった一人で二〇〇人以上を相手にするのではあまりに分が悪い。そんな数の人間と正面から戦ったって、上条に勝てるはずがない。アニェーゼもそれが分かっているのだろう。何の警戒もせず、むしろ挑発するように上条の目の前まで無造作に歩いてきた。  アニェーゼは絶対に、上条は自分を|殴《なぐ》れないと思っている。一発でも殴れば、それが勝ち目のない|戦闘《せんとう》を始めてしまう合図となるのだから。 「ったく、本当に|馬鹿《ばか》も馬鹿、大馬鹿ですね。どうやらイギリス清教は賢明な判断をして逃げ帰っちまったようですけど、あなたは一体何なんですか? んー、まぁ良いか。あなた一人に何ができる訳でもないし、逃げるんなら逃げちまっても構いませんよ。ほら、これが最後のチャンスです。自分が何をすべきかぐらい分かっちまってますよね?」  アニェーゼ=サンクティスの余裕の言葉に、|上条《かみじよう》も力なく笑う。 「最後のチャンス。自分が侮をすべきかぐらい分かっちまってるか、ね」  まるで、心のどこかで安心したような声で、 「そうだな[#「そうだな」に傍点]。確かにこれが最後のチャンスだ[#「確かにこれが最後のチャンスだ」に傍点]。良く分かってるよ[#「良く分かってるよ」に傍点]」  ゴッ!! と上条|当麻《とうま》の|右拳《みざこぶし》が空気を引き裂いた。  とっさに両腕をクロスして顔面を守るアニェーゼの足が床から離れた。  ガードごと体を後ろへ|弾《にじ》かれた彼女は狂犬のような目で上条を|睨《にら》みつける。  一秒すらためらわず。  |一瞬《いつしゆん》すら迷いを見せずに、その少年は己の覚悟を目の前の敵へ見せつけた。 「き、サマ。何の|真似《まね》だ、これはァ———————ッ!!」  怒れるアニェーゼ=サンクティスに、上条当麻はそれ以上の怒号を突きつける。 「何をすべきか、だと? なめやがって、助けるに決まってんだろうが!!」  両者の感情が至近距離で激突する。  それは一言で表せば同じ『怒り』であるはずなのに、質も温度も全く異なるものだった。  彼女は|頬《ほお》の筋肉を不気味に|震《ある》わせながら、口の中で何かをぶつぶつと|呟《つぶや》く。それまで|停《たたず》むだけだった黒いシスター|達《たち》が、一斉に上条当麻へ向き直る。彼女達の持つ何百という武器が、行進する兵隊の足音のように|揃《そろ》って無機質で不気味な音を立てる。 「おも、しろい、ですよ。あなた」  アニェーゼは、ぶるぶると声と体を震わせて、 「二〇〇人以上を相手に、この状況で、あなた一人に何がどこまでできんのか! 見せてもらうとしましょうか! ははっ、この数の差なら六〇秒で|挽肉《ひきにく》になっちまうと思いますがね!」  その声を合図に、黒いシスター達は|各々《おのおの》の武器を構える。  対して、上条当麻はたった一人で武器も持たず、己の拳を握り|締《し》めるだけ。  そんな両者が激突する寸前で。  唐突に、何者かの声が飛んできた。 「まったく、勝手に始めないで欲しいね。せっかく結界の穴から上手く侵入できたというのに。 せめて十分にルーンを配置する時間ぐらいは用意させておいてもらいたかったんだけど」 「は……?」  アニェーゼが|呆《ほう》けたような顔で振り返った瞬間、|轟《ごう》!!と炎が酸素を吸い込む音と共に、完成途中の教会を支配していた|暗闇《くらやみ》が、オレンジ色の爆発によって一気に|薙《な》ぎ払われた。  教会の奥、ちょうど|上条《かみじよう》とは正反対の位置。  |説教壇《せつきようだん》の背後にある壁には、二階ぐらいの高さの位置にステンドグラスを|嵌《は》める予定の窓がぽっかりと穴を空けている。おそらくは外壁工事のための足場を伝ってやって来たのだろう、その窓枠に足をかけ、炎の剣を手にしたイギリス清教の神父が立っている。 「……す、ている?」  |煙草《タバコ》を口の端に|嘘《くわ》えた神父の名を、上条|当麻《ヒうヨ》は|呆然《ぽうぜん》と|眩《つぶや》く。 「後の始末は僕ら|魔術師《まじゆつし》が着ける気でいたから|素人《しろうと》には引っ込んでいてもらう予定だったんだけどね。あれだけのウソ説明ウソ説得が全部台無しだ」  上条よりも先に、アニェーゼの方が口を開いた。 「イギ、リス清教? |馬鹿《ばか》な……これはローマ正教内だけの問題なんですよ! あなたが|関《かか》わるというなら、それは内政干渉とみなされちまうのが分かんないんですか!?」 「ああ、残念ながらそれは適応されない」ステイルはつまらなそうに煙を吐いて、「オルソラ=アクィナスの胸を見ろ。そこにイギリス清教の牽字架が掛けられているのが分かるな? そう、そこの素人が不用意に預けてしまった十字架さ」  にやにやと、いたぶるようにステイルは笑って、 「それを|誰《だれ》かに掛けてもらう行為は、そのままイギリス清教の|庇護《ひご》を得る———つまり洗礼を受けて僕|達《たち》の一員になる事を意味している。その十字はウチの|最大主教《アークピシヨツプ》が直々に用意した一品さ。僕の手でオルソラの首に掛けうとの命も下っている。……僕の中では優先順位の低い指示だったから途中からは後回しにして、そっちの男に渡してしまったがね。そこの素人が君達に捕まった際、『イギリス清教という巨大な組織の下にいる人間』だと思わせておけば少しは何らかの保険になるんじゃないかなと考えた訳だが……何がどう転がったのか、今ではちゃんとオルソラの首にある。つまり、今のオルソラ=アクィナスはローマ正教ではなく、僕達イギリス清教のメンバーであるという訳さ」 「そっか。それで……」  上条は、ぼんやりと思い出した。あの十字架を無造作にやると言った時に、オルソラがやけに|大袈裟《おおげさ》に喜んでいたのを。あれには、こんな意味が隠されていたのだ。  アニェーゼは、顔を真っ赤にして口をぱくぱくと動かした後、 「そ、そんな|説弁《きぺん》が通じるとでも思ってんですか?」 「思っちゃいないね、。きちんとイギリス清教の教会の中で、イギリス清教の神父の手で、イギリス清教の様式に|財《のつと》って行われたものでもないし」ステイルは煙草を揺らし、「だが、今のオルソラがとてもデリケートな位置に立っているのに間違いはないだろう? ローマ正教徒のくせにイギリス清教の十字架を受け、しかもそれをやったのは科学サイドの学園都市の人間なんだ。彼女が今、どこの勢力に所属していると判断すべきか、ここは時間をかけて審議すべきだと僕は思う。君|達《たち》ローマ正教の一存のみで審問にかけるというなら、イギリス清教はこれを|黙《だま》って見過ごす訳にはいかないんだよ」  すとん、と。窓から飛んだステイルは、|説教壇《せつニようだん》の前へと静かに着地する。  そして炎の剣の切っ先を、遠く離れたアニェーゼの顔へ突きつけた。 「それに何より、よくもあの子に刃を向けてくれたものだ[#「よくもあの子に刃を向けてくれたものだ」に傍点]」ステイルは歯を|剥《む》き出しにし、 「この僕が、それを見過ごすほど甘く優しい人格をしているとでも思ったのか?」 -「チィッ! 一人が二人に増えたところで、何が……!?」  彼女は憎々しげな声をあげたが、やはりそれも別の人間の声によって遮られてしまう。 「二人で済むとか思ってんじゃねえのよ」 「!?」  野太い男の声にアニェーゼが振り返った|瞬間《しゆんかん》、今度は横合いの壁が爆弾で吹き飛ばされたように砕け散った。もうもうと立ち込める砂煙の中から、大剣を握る大男が歩いてくる。 「|建宮《たてみや》……」  |上条《かみじよう》は材質の分からない真っ白なフランベルジェを手にした大男の名を呼ぶ。  建宮|斎字《さいじ》。  多角宗教|融合《ゆうこう》型十字教術式・天草式十字|凄教《せいきよう》の現・教皇代理[#「代理」に傍点]。  その後ろには、別の建物に監禁されていたはずの天草式の面々が|揃《そろ》っている。その数は五〇程度、おそらくは監禁されていた全員だ。 「|俺《おれ》が戦わなきゃいかん理由は、わざわざ問うまでもねえよなあ?」  上条は|驚《おどろ》いたように、 「お、前。だって、|奇襲《むしゆう》をかけるのは移動中が最適だって……」 「そういう風に言っときゃ納得して帰ってくれると思ってたんだがよぉ[#「そういう風に言っときゃ納得して帰ってくれると思ってたんだがよぉ」に傍点]。せっかくイギリス清教の連中と話し合って、お前さんが動く前に決着をつける手はずを整えようとしていたのに。お前さん、想像以上の|馬鹿《ばか》だよな。ま、見ていて楽しい馬鹿は嫌いじゃねえが」  建宮は|呆《あき》れたように答えた。  最後に、カツンと足音を鳴らして、上条の背後から聞き慣れた自い少女の声が飛んできた。 「まったく、だから決着は|誰《だれ》かが着けるから、とうまは気にしなくて良いよって言ったのに」 「いん、でっくす……」  ボン、と名を呼ぶ上条の肩に、小さな、そして力強い手が置かれ、 「でも、こうなっちゃったなら仕方がないよね。———助けよう、とうま。オルソラ=アクィナスを、私達の手で」  ああ、と上条は|頷《うなず》いた。  そんな彼らの姿を見て、アニェーゼ聾サンクティスは爆発した。殺せ、というただ一言の命令の下、|闇《やみ》に染まる数百ものシスター達が跳ねるように|襲《おそ》いかかってくる。 最後の戦いが始まった。 不条理なお話に決着を着けるために集まった者達の、最後の戦いが。 [#改ページ]    行間 二  |神裂火織《かんざきかおり》は深夜のビルの屋上にいた。  目の前に広がる夜景の中に、建設途中のオルソラ教会がある。その建物は教会という印象からはほど遠く、静寂など一切なく、人が暴れる音や何かが|壊《こわ》れる音で満たされていた。  彼女は教会から遠く離れた場所に立っていたが、それでも鋭敏な耳は彼らの言葉を聞いていた。たった一人の少女のために立ち上がった人々の言葉を、聞いていた。  神裂は、天草式の味方をするつもりも、彼らと敵対するローマ正教を|斬《き》るつもりも、最初からなかった。そんな暴力を振るうために事件直後に|失踪《しつそう》した訳ではなかった。  ただ、真意を見届けたかった。  彼女が抜けても天草式はやはり天草式のまま、何も変わらずそこにあるという事を、見届けたかった。  そして彼女は今、信じていた通りの真意を見せてもらった。 自然と、彼女は|懐《なつ》かしいものでも眺めるように、優しげに目を細めてしまう。  もう帰れない場所。  しかし、それ|故《ゆえ》にいつまでもいつまでも大切にしておきたい場所が、そこにあった。  そんな神裂の背後で、隠そうともしない足音が聞こえた。 「にゃっはー。感謝感激感動の極みってトコですかい神裂ねーちん。いやー良かったじゃん、かつての仲間|達《たち》が私欲で『法の書』を使うためにオルソラを|誘拐《ゆうかい》した訳じゃないって分かって」 「|土御門《つちみかど》」  神裂は慌てて表情を消してから、振り返った。しかし土御門のニヤニヤとした笑い顔を見る限り、表情を消す事などできなかったようだ。  彼女は照れを隠すために、|敢《あ》えて硬い口調で、 「そちらは、終わったのですか。確かこの機に乗じて『法の書』の原典を横から|掠《かす》め取るという話でしたが」 「さあってねー。成功したのか失敗したのか」 「……、」 「冗談だぜい。そんな目で見るんじゃねーぜよ。大体、事の|顛末《てんまつ》は知ってんだろ。天草式は『法の書』なんて盗んじゃいなかった。それはローマ正教が仕組んだ|冤罪《えんざい》だった。なら、そもそも日本に本物の『法の書』を持ち込む必要なんかねーですたい。日本に持ち込んだ『法の書』は偽書だろうよ。原典は今もバチカン図書館の奥の奥さ」  |土御門《つちみかど》は失敗の報告をするが、その声はやけに明るかった。仕事に対してそれほど熱意がないのか、あるいは語った内容は|嘘《うそ》で、やはり『法の書』を奪うのに成功したのか。|神裂《かんざき》にはいまいち、どう受け取るべきか判断がつかない。  彼は神裂の|隣《となり》まで歩いてくる。金属でできた落下防止用の手すりに両手を置いて、神裂が見ていたものを静かに眺めてから、 「んで、満足できたのかい?」 「……、ええ。予想以上の結果です」神裂は、もう一度教会を見る。「彼らがいるなら、私がいなくても天草式は正しき道を進めるでしょう。彼らは、とても強くなりました」 「うむむ。おそらく苦戦してるだろうけど、助けに行かんでいいのかにゃー?」 「私には、彼らの前に立つ資格などありません。それに、今の彼らには私の力はもう必要ないでしょう。私は自転車の補助輪のようなものなんですよ」  神裂|火織《かおり》は、わずかに寂しそうに、しかし誇らしげに言った。  彼女の返答には、一秒たりとも迷いがない。  と、そんなシリアスな彼女を見て、土御門は笑いをこらえている。 「何ですか、土御門」 「いや、ねーちんさあ。何でも良いけど、カミやんを巻き込んじまったトコまでは予想できてなかったろ。大体、結局この前の『|御使堕し《エンゼルフオール》』や禁書目録争奪戦についても礼を言ってないままだし。そんな状況でさらに自分の問題にまで|関《かか》わらせちまって、実は後でどう|詫《わ》びようかビクビクしてたんじゃないのかにゃー?」 「い、いいえ。別にあなたが想像しているような事など何もありません」  神裂は極めて|真面目《まじめ》な顔で返したが、何を思ったのか土御門はついに爆笑した。眼下のオルソラ教会にまで届くのではと心配になるほど巨大な声でひとしきり笑い続けると、土御門は笑いの涙を目元に浮かべながら、 「ところでさー、その手にある包帯はなーんなーのさー? まさか戦いが終わった後に気絶した仲間にこっそり手当てでもしてやるつもりだったとか? 手当てが終わった後に頭をそっと|撫《な》でて小さく|微笑《ほほえ》んで静かに立ち去ろうとか考えてんの? ぷっ、くくっ! もう、ねーちんってばベッタベタの王道なんだからっ! 良くそんな恥ずかしい事を真顔でやろうと思えるよなホントに!」 「…………ッ!?」 「ん? おお、どうしたねーちん、無表情のままコメカミを器用にピクピク動かして……って待て待て待て待て! こっちは素手ですよ、七天七刀は|流石《さすが》に|洒落《しやれ》にならんぜい! ってかヤツらより先に包帯巻かれるのはオレの方なのかにゃーっ!?」 [#改ページ]    第四章 天草式十字凄教 AMAKUSA_style_Remix_of_Church.      1  オルソラ教会は七つの聖堂で構成されている。  十字教における七つの|秘儀《ひぎ》をそれぞれの聖堂が担当する。聖堂の大きさは均一ではなく、使用頻度や重要度によって、建物のサイズや金のかけ方も変わってくる。ちなみにオルソラ|達《たち》のいた場所は結婚式にまつわる『婚姻聖堂』で、一番収入が大きくなる予定なので建物も巨大だ。二番目は葬式にまつわる『終油聖堂』で、『叙品聖堂』『堅信聖堂』など、宗教的には重要であるものの|上条《かみじよう》のような『一般客』からの収入が見込めない所は建物も小さい。これらの小さな建物は彫刻や絵画、ステンドグラスなどの芸術品で飾って、半ば美術館や博物館、観光コースとして追加収入を得るつもりらしい。  ここまでが、上条が携帯電話上のホームページで調べた情報の限界点だった。オカルト側の人間が自ら教会のホームページを開設しているというのも不思議な話だが、観光ガイドのつもりなのか完成予定図や内部見取り図まで公開されていたのは拾い物だったと言える。……もちろん、それは『客に見せる範囲』でのレベルだろうが。 「チィッ!!」  上条は傷ついたオルソラの体を抱き上げて『婚姻聖堂』の裏ロから外へ飛び出す。草木一本ない、完全に平らな石造りの地面に足がつくと同時、裏口から次々と武装したシスター達が現れてくる。  何十人という天草式の面々が正面からローマ正教のシスター達と激突した|瞬間《しゆんかん》を見計らって、上条はオルソラを連れて『婚姻聖堂』から逃げ出したのだ。できればインデックス達とも離れたくなかったが、人の波に寸断されてしまってどうしようもなかった。  上条は走りながらもオルソラの顔を見て、 「悪いな、遅れちまって。体は|大丈夫《だいじようぶ》か?」 「……ええ。こんなもの、全然、平気でございますよ」  オルソラの衣服はボロボロに|擦《す》り切れ、ファスナーも金属部分が|噛《か》み|干切《ちぎ》られたように|壊《こわ》されている。わずかに体が揺れるだけでもぎゅっと身を硬くする所からも、相当のダメージを負っているのが推測できた。  しかし、彼女の顔には疲労こそあれ、苦痛のようなものはない。  オルソラは今にも泣き出しそうな顔をしていた。両手で抱き上げられたまま上条の顔を見上げ、迷子がようやく自分の親を見つけた時のように。 (くそ、何だよ。戦う理由なんてこんなに分かりやすいものがあったんじゃねえか)  |上条《かみじよう》はオルソラの体を抱えながら走り続ける。  いくら広いとはいえ、『婚姻聖堂』の中であれだけの数の人間と戦うなど自殺行為だ。強い弱い以前に、人の洪水によって押し流されてしまう。それに何より、上条はただの高校生でしかない。ケンカで勝てるのは一対一まで、一対二なら危ういし、一対三なら迷わず逃げる。その程度の腕しかない。  しかし。  しかし、迷わず逃げるからと言って、それが敗北を意味するとは限らない[#「それが敗北を意味するとは限らない」に傍点]。 「ふっ……!!」  |追撃者《ついげきしや》の無数の手が上条の背中を|掴《つか》む前に、聖堂の屋根の上から天草式の男女が剣を手に飛び降りてきた。上条の体を貫こうとしていたローマ正教の武器が天草式の剣に切断され、続く凶悪な|蹴《け》りが最前列の黒いシスターを吹き飛ばす。  ざあっ! と波が引くような音と共に、ローマ正教のシスター|達《たち》の何割かが一つの生き物のように動いて天草式の男女を取り囲もうとする。 (さんきゅー……っと!)  上条は走りながら、足元に転がっていた作業員が飲み捨てた空き缶をカカトで蹴り上げた。当然ながらそんな物を飛ばした所で、黒いシスター達を|薙《な》ぎ払えるはずもない。  が、視界の隅を何かが横切れば、嫌でも視線はそちらへ向く。 「!?」  シスター達が気を取られた|瞬間《しゆんかん》を|狙《ねら》って、天草式の男女は包囲網を切り崩し、上条へ|会釈《えしやく》をしながら彼らもそれぞれがひとまずの逃げの姿勢に入る。  上条もそれを最後まで確認している暇はない。いかにシスター達が重たい武器を抱えていても、それは人の体重以上という訳ではないだろう。わずかに開いた距離を詰めるべく、再びローマ正教の|刺客《しかく》達が上条の背中を追い駆ける。  背後に迫るシスターが|松明《たいまつ》を振り回す。その先から飛び出るソフトボールぐらいの大きさの溶岩の塊を、上条はオルソラの身を抱き寄せるようにして|避《さ》けつつ、『婚姻聖堂』の裏手にあった細長い『叙品聖堂』を取り囲む、建設工事用の鉄パイプの足場へ一気に走り抜け、斜めに掛かったハシゴを使って二階部分まで駆け上がる。不用意に後を追ってきた松明のシスターを上条は右足で蹴って地上へ|叩《たた》き落とし、どういう理屈か地上から二階部分へ一跳びで|跳躍《ちようやく》した別のシスターが不安定な足場へ着地すると同時、上条はその足を払って彼女を転落させる。 「———————」  地上からは、足場にいる上条達を見上げる何十人というシスター達の目が無機質に観察している。  彼女|達《たち》もそろそろ気づき始めているはずだ。 確かに何十人もの人間が取り囲んで一斉に|攻撃《こうげき》すれば、|上条《かみじよう》達は逃げ道を失ってしまう。 しかし逆に言えば、常に一対一で戦うしかない場所や状況を用意してやれば活路は|見出《みいだ》せる。  上条の立っている足場は鉄パイプでできた細長く不安定なもので、それ|故《ゆえ》にシスター達は全方位から一斉に|襲《おそ》いかかる事はできない。彼の後を追って細い足場を通れば、自然と彼女達はお|行儀《ぎようぎ》良く一列に並ばざるを得なくなってしまう。どころか、あまりたくさんの人間が一斉に足場に乗れば、重さに耐えられずに足場が崩れてしまうだろう。玉砕覚悟ならともかく、自分達まで|犠牲《ぎせい》になりかねない状況では数の戦術は使えない。  |漆黒《しつこく》のシスター達はその意味を無言で考え、  一言すら言葉を交わさず意見を一致させると、地上から一斉に武器を構える。  |杖《つえ》、|斧《おの》、十字架、聖書から時計台に使われそうな巨大な長針まで、種々様々な武器の切っ先がピタリと彼女達の頭上にいる上条|当麻《とうゆロ》へ集中する。その切っ先が、それぞれ赤や青や黄や緑や紫や茶や白や金など色とりどりの光を放ち出す。 (や、っば……!?)  上条は事情を理解していないオルソラの体を抱き直して慌てて鉄パイプの足場の上を全力疾走すると同時、|極彩色《ごくさいしな》の光の羽が次々と|襲《おそ》いかかってきた。羽ペンの切っ先に|鐵《やじり》を付けたような輝く武器が、|一瞬《いつしゆん》前まで上条とオルソラの走っていた場所を続々と追い駆け、|撃《う》ち抜いていく。光の羽の|嵐《あらし》は聖堂の外壁や足場を容赦なく|破壌《はかい》していった。ゴドン! と|一際《ひときわ》大きく足場が揺れたと思ったら、シスターの一入が上条ではなく足場の根元を撃ち抜いていた。  彼女達がオルソラの身など心配している様子はない。ようは『殺してはならない』だけで、脳と心臓が動いていれば後はどうなっても構わないとでも考えているのだろう。  上条達の走る足場そのものが、沈没していく船のように斜めに|傾《かし》いでいく。  当然ながら、地上に落ちれば何十人というシスター達のど真ん中に飛び込む羽目になる。 「う、ァァああああああああああああああああああああああああああ!?」  意味もなく叫んでしまう。足場が斜めに傾いていくため、彼の進行方向の足場がどんどん上り坂になっていく。上条は刻一刻と垂直へ近づいていく足場を駆け抜ける。二階部分を走っていたはずの足場はいつしか三階建ての聖堂の屋根にまで届いていた。  上条はオルソラを抱き上げる両手に力を込め、全力で跳ぶ。  彼の足が大理石でできた聖堂の屋根に着地すると同時、鉄パイプと金具を組み合わせた|檻《おり》のような足場がガラガラと崩れ落ちていった。 彼は自分がついさっきまで走っていた足場が崩れていく音に背筋を凍らせながらも、オルソラを抱えたままようやく立ち止まって大きな息を吐く。 「だっ、|大丈夫《だいじようぶ》でございますか?」  彼女は自分は重荷だと感じているのか、上条の顔を見上げながら不安そうな声を出した。 「いや、問題ねえよ」  |上条《かみじよう》は適当に答えながら、改めて自分が抱えるオルソラの格好を見る。度重なる暴力で黒い修道服のあちこちが|擦《す》り切れ、衣服のファスナーが|壊《こわ》れてスカート部分の布地が大きくめくれ上がっている。普通なら多少|興奮《こうふん》してもおかしくない光景だが、腐った果実のように|太股《ふともも》を青黒く変色させる内出血の|痕《あと》がそんな気持ちをまとめて吹き飛ばす。 (……、ちくしょう)  彼は声に出さず、しかし歯を食いしばって心の中で叫ぶ。 (大の男が正面から立ち向かえないほどの人数で寄ってたかってオルソラを|殴《なぐ》り続けたってのか。アニェーゼ=サンクティス!!)  本当なら今すぐにでも敵陣に突っ込みたい上条だったが、それよりオルソラの身が心配だ。 一刻も早く彼女を手当てして、どこかで休ませてあげないと、と上条は|焦《あせ》る頭で考える。  しかし、だからと言ってこの場でじっとしている訳にもいかない。  彼はできるだけ地上からの|狙撃《とげき》を|避《さ》けるために、屋根の縁から中央へと移動する。下から見上げても建物の壁が死角になるはずだ。 「となると……」  上条が抱き上げていたオルソラを一度建設途中の屋根の上に降ろすと、近くに転がっていた工具箱を両手で|掴《つか》んで、  ダン!! と。  次の|瞬間《しゆんかん》、|凄《すさ》まじい音と共に地上から三人のシスターが一気に飛び上がってきた。  上条は体ごと振り回すような感じで重たい工具箱を投げつける。それは三人のシスターの一人に当たって、バランスを崩したシスターはそのまま地上へ落下していった。  残った二人のシスターは音もなく屋根に着地し、それぞれの手にある大時計の長針と短針を構える。グリップのためか根元近くに包帯を巻いていた。  |跳躍《ちようやく》能力を持たない後続部隊が、建物内部の階段から屋根を目指している足音が上条の真下からバタバタと聞こえてくる。  上条は不利な状況を感じながら、首を動かさずに目だけを動かして逃げ道を探そうとする。 ……と、そこで見た。屋根の上から一望できる広大なオルソラ教会の|敷地《しきち》の中を、白い修道服を着た少女が走っている事に。  彼女の背後には、やはり上条と同じく数十人もの|漆黒《しつこく》のシスター|達《たち》が走っている。  しかし上から見れば絶望的に分かる。白い少女の逃げる先からは、別のシスター達の集団が近づきつつある。お互いに向こうから敵がやって来ている事にはまだ気づいていないようだが、あのまま進めば激突は避けられない。 「インデックス!!」  上条が思わず叫ぶのを合図に、左右から大時計の針を持った二人のシスターが|襲《おそ》いかかる。  彼の声は、地上を逃げる少女に届かない。      2 『婚姻聖堂』と『洗礼聖堂』の間にある中庭で|建宮斎字《たてみやさいじ》は剣を振るっていた。『洗礼聖堂』は『婚姻聖堂』に対して斜めに配置されているため、三角形状の中庭が形成されているのである。  彼は一番最後まで『婚姻聖堂』で剣を振るっていた。天草式の面々が最初にオルソラを逃がすために時間稼ぎをした後、今度は天草式が『婚姻聖堂』から飛び出すために、建宮が同じように時間稼ぎをしたのだ。今、数十名の仲間|達《たち》は散り散りになって戦っている事だろう。  草木一本ない磨かれた石の庭のあちこちに、彫刻のための台座のようなものが置かれていた。 おそらく教会が完成すれば天使なり宗教上の偉人・聖人なりの彫像が整然と並ぶのだろうが、台座だけのこの状況では空虚という印象しかない。まるで異教徒から|襲撃《しゆうげき》を受けて、宗教的な芸術品を残らず|破壊《はかい》された後の|廃境《はいきよ》のような感じがする。  建宮斎字は、|上条当麻《かみじようとうま》のように逃げながら戦いなどしない。  それは彼が上手く敵の|攻撃《こうげホ》のタイミングを外しているからだ。決して一方的に攻め込まず、決して一方的に防戦に追い込まれず、ちょうど中間の位置を絶えず維持し続ける。  シスター達が攻め込もうと|踏《ふ》んだ|瞬間《しゆんかん》に建宮は一歩だけ前へ出る。  シスター達が一度|退《ひ》いて態勢を整えようとした瞬間に建宮は一歩だけ後ろへ下がる。  予測が外れて自然と拍子抜けしてしまう敵の集団は、その瞬間わずかに足並みが乱れる。そこを|狙《ねら》って、建宮は容赦なく剣を振るう。シスター達が慌てて防御した所で、彼の重たい剣はその守りごと敵を後方へ|弾《はじ》き飛ばす。  建宮はそこで追い討ちを仕掛けない。一度攻撃を繰り出したら、再び根気良く後ろへ退く。 攻めるでも守るでもなく、ひたすら両者のバランスを保ち続ける事で『|膠着《こうちやく》状態』という本来あるはずのない、見えない壁を意図的に築き上げる。 (とはいえ、この方法だっていつまでも|頼《たよ》ってられるもんじゃねえのよな……)  建宮は屋根から屋根へ飛び移りながら剣を振るう自分の仲間を視界の端で|捉《とら》えながら、そんな事を思う。  彼は優勢の笑みを見せるふりをしながら、しかし内心では|緊張《きんちよう》していた。今はシスター達が状況の分析ができるぐらい、心に余裕があるから付け入る|隙《すき》ができているだけだ。彼女達が本格的に玉砕を覚悟し、心のバランスを失い、同士討ちも相打ちも覚悟で一斉攻撃を仕掛けてきたら建宮のプランは一気に崩れてしまう。  攻撃にしても防御にしても、どちらか片方にバランスが偏ればその瞬間に心理的な壁は崩れ、建宮は集団という巨大な波に|呑《の》み込まれる。  これは釣りのようなものだ、と建宮は考えながら剣を振るう。|無闇《むやみ》に|竿《さお》を引き続けても魚は暴れて糸を引き|千切《ちぎ》って逃げ出すだけ。上手に釣りたければある程度魚の動きに逆らわず、遊ばせ、彼女|達《たち》に勝機があると思い込ませなければならない。  と、そんな|建宮《たてみや》の耳に、バタバタという足音が聞こえてきた。 「新手!?」  建宮はギョッとしたが、それは彼を|狙《ねら》う足音ではなかった。  彼の戦う中庭は『婚姻聖堂』と、斜めに配置された『洗礼聖堂』の間にある三角形状のものだ。そして三角形の頂点、二つの聖堂のわずかな|隙間《すきユ》の奥に、白い修道服を着たイギリス清教のシスターがいた。  彼女はローマ正教のシスター達から逃げてきたようだが、別方向からの集団とぶつかったらしい。建宮が相対する敵の優に二倍を超す人数に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている。 「くそ。この|俺《おれ》につまらん場面を見せつけんじゃねえのよ!」  建宮は慌てて加勢に入ろうとするが、彼を取り囲む何十人ものシスター達が、一つの生き物のように動いて人の壁を作り出した。彼女達にすれば、敵が一人倒れるたびに、そこに割かれていた人員が援護に回ってくれるのだ。攻めあぐねている相手と戦っているからこそ、|他《ほか》の所の|戦闘《せんとう》は一刻も早く終わって欲しいのだろう。  建宮とシスター達は|睨《にら》み合う。  その向こうでは、インデックスが無数の人聞の渦に|呑《の》み込まれ、徐々にその姿が見えなくなっていく。 「なめ、てんじゃ……ッ!!」  建宮は大技を振るうために呼吸を整え、ゆらりと大剣を構え直した所で。  ふと、頭上から男の叫び声が飛んできた。 「よせ! 今のあの子の元へは不用意に近づくんじゃない!!」  建富が頭上を仰ぎ見た|瞬間《しゆんかん》、『洗礼聖堂』の二階部分の窓が炎の爆発によって内側から砕け散った。|壊《こわ》れた窓から砲弾のようにローマ正教のシスターが吹き飛ばされる。彼女はかろうじて足のバネを使って着地の|衝撃《しようげき》を殺したようだが、そこまでが限界のようだった。気を失ったその体が、ごろごろと地面を転がっていく。  窓には炎の剣を持つステイル=マグヌスが立っている。  彼は言う。 「状況にもよるが、今のあの子は一人の方が強い。僕達が近づいてはその強さを奪ってしまうんだ。君だってあんなものに巻き込まれたくはないだろう♪・」  は? と建宮が|誘《いぶか》しげな声をあげた瞬間、  ゴッ!!と、インデックスのいた辺りから、爆発が起きた。  何十人、いや下手すると二〇〇人単位の人間に三六〇度|隙間《すきま》なく包囲されていたはずのイン。デックスの姿が、見えた。つまり、包囲の一部が崩れたのだ。Cの字のように、分厚い人の包囲網の一角だけが、見えざる力で|薙《な》ぎ払われるように無造作に吹き飛ばされた。|直撃《ちよくげき》したのは一〇人前後のシスターらしいが、何十メートルと離れているはずの|建宮《たてみや》のすぐ足元まで、吹き飛ばされたシスターの一人が転がってきた。自分の頭上を軽々と飛び越えた己の味方の姿に、建宮と向き合っているはずのシスター|達《たち》さえインデックスのいる方を振り返ってしまう。  ドンッ!! と、再び見えない爆発が起きて、シスターの何人かが宙を舞った。 「……。何なのよ、こりゃあ」  建宮は足元に転がったシスターを見る。その顔は絶望の一色に塗り|潰《つぶ》され、体を赤ん坊のように丸めて両手で頭を押さえつけたまま硬直し、気を失ってなお悪夢に|怯《おび》えるようにカタカタと|震《ふる》えている。見れば、シスターの足の筋肉が断裂していた。あの爆発的な|跳躍《ちようやく》は、シスター自らの足で行ったものだったのだ。体のリミッターを外し、それでもインデックスの|側《そば》から逃げようと生存・防衛本能が暴走したかのように。  トン、とステイルは二階の窓から建宮のすぐ|隣《となり》へ着地した。 「君も十字教徒なら分かっているだろう。十字教の様式には、それぞれ弱点がある。矛盾とも言うべきかもしれないけどね。それら弱点・矛盾を直すために様々な十字教宗派が生み出され、それがさらに別の弱点・矛盾を作り上げてしまっている。いわゆる宗派の特色というヤツだ」 「……、それが何だってのよ?」  建宮は巨大な剣の切っ先を軽く振るい、シスター達との間合いを計る。 「あそこに流れているのは全世界の|叡智《えいち》、一〇万三〇〇〇冊のあらゆる知識を使って、十字教、その教義の信仰の『矛盾点』を|徹底的《てつていてき》に糾弾する『|魔滅の声《シエオールフイア》』さ。十字教というOSに従って動いている人間にとっては、その教義の矛盾点、つまりセキュリティホールを的確に貫く『|魔滅の声《シエオールフイア》』はまさに天敵と言っても良い。あれを聞けば一時的とはいえ人格をパズルのように崩されるぞ」  もっとも、十字教と全く関係のない人問には何の効力もないし、アウレオルスのような|魔道書《まどうしよ》の著者は自分で書いた原典に意識を冒されないように特殊な|防壁《プロテクト》を構築している。もちろん『原典を書ける人間・書いても身を滅ぼさない人間』など世界でも極少数しかいないのだが。 「魔道書は単に読むだけのものじゃない。『|強制詠唱《スペルインターセプト》』や『|魔滅の声《シエオールフイア》』など、あの子は魔力がなくとも魔道書を使いこなす。魔道書図書館としてあれほど|相応《ふさわ》しい人材は|他《ほか》にないだろうね」  |呆《ほう》けているシスター達が統制を取り戻す前に、ステイルと建宮は彼女達に切りかかる。炎剣を爆破し、その爆風で薙ぎ倒されるシスター達を建宮が器用に気絶させていく。その間にも、離れた場所ではインデックスの何気ない『ささやき』が、彼女を取り囲んでいる無数の少女達を吹き飛ばしていく。  |建宮《たてみや》は感心半分|呆《あき》れ半分といった顔で、 「しっかしまあ、あんな隠し玉があんなら何で最初っから使わんかったのよ? そんなもん食らってたらこっちも|洒落《しやれ》にならんかったのに」 「あの|攻撃《こうげき》には|繊細《せんさい》で面倒な一面があるのさ。宗教的な洗脳は個人個入に行うより集団に向けて一気に実行した方がかかりやすい。君も知っているだろう? あの『|魔滅の声《シエオールフイア》』は科学で言う集団心理ってヤツに働きかけて心の防壁を突破する足がかりにしているって訳だ」  ステイルは炎剣を爆破し、にじり寄ってくるシスター|達《たち》を|牽制《けんせい》する。|隙《すき》を見て飛びかかろうとしていた少女は|頬《ほお》に|灼熱《しやくねつ》の熱波を浴びて慌てて後ろへ飛び|退《の》く。 「『|魔滅の声《シエオールフイア》』発動の上で問題になるのが集団心理の『純度』でね。『同じ思想を持つ純粋な一集団』にはかかりやすいが、『複数の思想を持つ混線した一集団』にはかかりづらい弊害がある。また、集団にならない個人戦では全く効果が上がらない。……ちなみに君らとの|戦闘《せんとう》では僕や|上条当麻《かみじようとうま》が障害となって一集団の純度が下がり『|魔滅の声《シエオールフイア》』は上手く機能しなかったって訳だ。そういう例外があるから、僕のような護衛がいるという事さ」  つまり今君があそこに突っ込むと『|魔滅の声《シエオールフイア》』の使用条件が満たされなくなってしまうという訳だ、とステイルはつまらなそうに言った所で、|無駄話《むだぱなし》が不意に途切れた。  ザン! という新たな足音。  仰ぎ見れば、中庭を挟む二つの聖堂の屋根にそれぞれ何十人というシスター達が立っていた。      3  |暗闇《くらやみ》に包まれた『婚姻聖堂』の中で、アニェーゼは大理石の柱に背中を預けていた。  アニェーゼの周囲には護衛のために一〇人ぐらいのシスター達が控えていたが、彼女達は爆発音や激突音が|響《ひび》くたびに肩を|震《ふる》わせ、忙しくあちこちを見回している。対してアニェーゼは腕を組んだまま軽く目を閉じていて、どちらが守られているのか分からないような光景だ。 「|騒《さわ》いでんじゃないですよ。|馬鹿《ばか》みたいに見えちまいますよ。特にシスター・アンジェレネ」 「し、しかし、アニェーゼ様」  明らかな皮肉の言葉に、シスターの一人は過敏に反応した。まるで沈みかけた船の上で救世主を見たような顔だった。おそらく|誰《だれ》かと話す事で|緊張《きんちよう》を紛らわしたいのだろう。 「もう|戦闘《せんとう》が始まってから一〇分以上も|経《た》っております。お、オルソラを数に入れても、あれだけの人数差、ですよ? こんなのは普通じゃありません。ほ、ほら! 今の爆発だって、どちらが放ったものなのですか? もしかしたら、ヤツらが攻勢に回っているのかも…-ッ!!」 「……、」 「わ、私達も動きましょう。少しでも人数が多い方が……」 「意味がないからやめときなさい」  アニェーゼは心底つまらなそうに言った。 「で、ではどうするのですか? オルソラも連れ去られてしまいましたし、このまま再び逃げられては……」 「逃げられやしませんよ」  遮るように、アニェーゼは言う。  確信しているが|故《ゆえ》に、それをいちいち説明するのが|億劫《おつくう》だという声で、 「逃げられるはずがありません。そういう風にできちまってんです、このくそったれな世界は」  バランスの|崩壊《ぱうかい》はいきなり起こった。  きっかけはインデックスだった。彼女が一〇万三〇〇〇冊の|魔道書《ゑどうしよ》から十字教徒の精神に|悪影響《あくえいきよう》を及ぽす場所だけを再編成した鯛|魔滅の声《シエオールフイア》』でローマ正教のシスター|達《たち》に|攻撃《こうげニ》している最中に、それは起きた。突然、シスターの中の一人——確かテーマパークで車輪を使って|上条《かみじよう》を|襲《おそ》った、シスター・ルチアとかいう人物だ———が何かを叫んだのだ。 「|攻撃を重視、防御を軽視《Dia puiorita di cima ad un attacco.》! |玉砕覚悟で我らが主の敵を繊滅せよ《Il nemico di Dio e ucciso comunque.》!!」  シスター達の動きがピタリと止まる。  彼女達の表情が音もなく消え|失《う》せ、まるで軍隊が敬礼するように呼吸を合わせて衣服の中から何かを取り出す。左右の手に握られたのは、高級そうな万年筆だった。 (……?)  その時、インデックスは何らかの|魔術《まじゆつ》攻撃による集中砲火を予想していた。  だが、彼女の予想は大きく裏切られる。  次の|瞬間《しゆんかん》。  インデックスを取り囲む�〇〇人近いシスター達は、迷わず万年筆で己の両耳の鼓膜を突き破った。  ぐちゅり、というブドウの粒を指で|潰《つぶ》すような音。  耳の穴からだらりと|溢《あふ》れる真っ赤な鮮血。  彼女達は両耳の奥まで突き刺さった二本の万年筆を一斉に投げ捨て、再び武器を構えた。  その表情は激痛に|彩《いろど》られながら、それ以上の|破壊欲《はかけよく》によって壮絶な笑みの形を作り出している。地聞に転がる万年筆の|尖《とが》った先端に、血に|濡《ぬ》れた白い糸のようなものがべたりとこびりついていた。人間の鼓膜だ、  インデックスは体の奥から、猛烈な吐き気が込み上げるのを感じ取った。 「ま、さか……『|魔滅の声《シエオールフイア》�を、|回避《かいひ》するために……?」  声が届かなければ『|魔滅の声《シエオールフイア》』は効果を生まない。インデックスが|戦懐《せんりつ》の事実に気づくと同時、彼女の周りを取り囲んでいたシスター|達《たち》が一気に|襲《おそ》いかかろうとした。 「くそっ……!?」  いち早くこれに気づいたのはステイルだった。彼は慌ててインデックスを助けに行こうと|焦《あせ》ったために、それまで|建宮《たてみや》との連携で上手くいっていた|戦闘《せんとう》のリズムが|一瞬《いつしゆん》で崩れてしまう。  ステイルは炎剣を次々に爆破していき、その爆風でシスター達を転倒させ、爆炎によって目を|眩《くら》ます。が、それもインデックスの元へ|辿《たど》り着くのが限界だった。何度も同じ|攻撃《こうげき》を繰り返した結果、シスター達は慣れてしまい、対処法まで見つけてしまったのだ。 「こっちだ!!」  そこへ、手近な建物『終油聖堂』の両開きの扉を開け放って、|上条当麻《かみじようとうま》が叫んだ。彼の後ろには傷だらけのオルソラもいて、彼女は包帯を巻いた大時計の針[#「包帯を巻いた大時計の針」に傍点]を|杖《つえ》代わりにしていた。手負いの彼女を連れて逃げながら戦うのに限界を迎え、とりあえず身を隠していたのだろう。  インデックス、ステイル、建宮の三人はかろうじて聖堂の中へと飛び込む。上条が急いで扉を閉めると同時、厚さ五センチを超す|黒樫《くろかし》の板が、無数の刃に次々と貫通された。  とりあえずローマ正教のシスター達を|締《し》め出す事には成功した。  が、あの程度の扉では、何分|保《も》つかも分からない。三匹の子豚で言うなち、ワラの家に立てこもるようなものだ。  上条はへなへなと冷たい大理石の床に座り込みながら、 「とりあえず、全員無事みたいだけど……おい。歩けるか、オルソラ」 「心配性で、ございますね。そこまでひどい|怪我《けが》は、負っていないのでございます」  オルソラは手も足も修道服によって完全に隠れているので一見分かりにくいが、体に相当のダメージを負っているようだ。それでも、彼女は弱々しく|微笑《ほほえ》む。上条はズキリと胸が痛んだが、彼にできる事など何もない。仕方がないので、せめて強引に話題を切り替える。 「……で、どうするよ。これから?」  その問いに、答えられる者はいなかった。今まで危ういバランスを保ってきた戦局は一気に傾いてしまった事に、この場の|誰《だれ》もが気づいていた。  外で戦っている天草式の面々も、それぞれが|奇襲《きしゆう》や逃走劇などを繰り返す事で、かろうじて|均衡《だんこう》を保っている。自分の世話で手一杯の彼らに助けを求めるのは難しいだろう。  ガスッ! ゴスッ! という木に|鉄杭《てつくい》を打ち込むような音と共に、聖堂の扉に次々と風穴が空けられていく。インデックスは少し顔を青くしながら、 「私の『|魔滅の声《シエオールフイア》』も、あ、あんな風に耳を|潰《っぷ》されちゃ効果が、でな、出ないと思うし」耳を潰す光景を思い出したのか、彼女は青い顔で、「『|強制詠唱《スペルインターセプト》』だって一度に一人しか相手にできないよ。|流石《さすが》に何百人もの相手が出す何百通りもの術式へ同時に割り込むのは無理かも」 「???」  さも当然のように自分の|戦闘《せんとう》能力について分析するインデックスだったが、上条には何が何だかサッパリ理解できない。そもそもインデックスはどういう原理で何をやったのだろう? と、今度は|建宮《たてみや》が、 「ウチの部下も頑張っちゃいるようだが、難しそうってなもんよ。人間、自滅覚悟で|襲《おそ》いかかってくるのが一番怖いよな。あれだけの数が洪水みたいに襲ってきちまったら、もう技量で埋められるもんじゃねえよの。軍隊アリの大軍が|猛獣《もうじゆう》を食い散らかすようなもんなのよな」  苦々しい調子で言う建宮の言葉に重なって、ぎこぎこがりがりと扉に刺さった刃が引き抜かれる音が聞こえる。ズタズタに空いた穴の向こうから、無数の眼球がこちらを|覗《のぞ》いている。  |上条《かみじよう》の胃袋が冷え切った。  あの扉が破られれば、土石流のように何百人という武装シスターが|雪崩《なだ》れ込んでくる。猶予は打よそ数分。その問に打開策を見つけなければ|餌食《えじき》となるだけなのだが、意見を交わせば交わすほど袋小路に追い込まれていくような|錯覚《さつかく》すら覚える。じりじりと、頭の奥が|焦《あせ》りの感情で焼け付くのを上条は感じていたが、どうする事もできず、 「はぁ、もしも……もしも、この場に『法の書』があれば、私の解読法と合わせて活路が|見出《みいだ》せるかもしれないのでございますけど」  ふと、オルソラ=アクィナスが言った。  その場の全員が彼女の顔を見る。 『法の書』。  その場の|誰《だれ》もが失念していた、今回の事件の発端となった一冊の|魔道書《きどうしよ》。エドワード=アレクサンダー……世界最大の|魔術師《まじゆつし》クロウリーによって書き記された、『天使の術式』すら自在に操れるとまで言われ、開けば十字教が支配する今の世界が終わりを告げるとまでウワサされる、絶大な力の知識を封じる究極の禁書。  確かに『法の書』がそれだけ危険な|代物《しろもの》なら、その封を解くと宣言するだけで交渉に使えるかもしれない。 「しかし『法の書』が盗まれたってのはウチらをハメるための自作自演だったよの。となると、本物の『法の書』が日本に持ち込まれたって所からもう怪しいかもしんねえのよ。持ち込まれたのが偽書で、原典は今もバチカン図書館にあるって話なら、もう打つ手は」 「「ある!」」  上条とインデックスは同時に言った。  そう、『法の書』の原典はすぐそこにある。 「確か、インデックスでも『法の書』は解読できなかったんだよな。つまり、解読するために一度は目を通してみた事があったはずだ[#「解読するために一度は目を通してみた事があったはずだ」に傍点]。それならお前の|記憶《きおく》の中に『法の書』の原典がそのまま保管されてないと治かしいだろ」「うん。解読されてない暗号文のまま放ったらかしにされてるけどね」  その言葉に、今度はステイルが顔色を変えた。 「|駄目《だめ》だ! それをやればこの子が『法の書』の中身を|記憶《タおく》してしまう。そうなれば今以上に大勢の|魔術師《まじゆつし》が彼女の身柄を|狙《ねら》って|襲《おそ》ってくる羽目になるんだ!」 「??? 心配してくれるの?」  インデックスが『赤の他人として』首を|傾《かし》げて尋ねると、『かつての彼女を良く知る』ステイルは|一瞬《いつしゆん》だけ不意打ちを食らったように顔を赤くしたが、即座に|忌々《いまいま》しそうに舌打ちして打ち消した。魔術師に追われるのが当然だと思っている[#「魔術師に追われるのが当然だと思っている」に傍点]インデックスには何を言っても止められないとステイル本人が良く理解しているのだろう。そしてこれ以外に、現状を打破する方法が思いつかないのも。  ステイルは心底苦い顔をした後に、唐突に叫ぶ。 「|上条当麻《かみじようとうま》!!」 「な、何だよ!?」 「今以上に強くなれ! この件が尾を引いて彼女が倒れたら、灰も残さず君の体と心と魂を焼き尽くしてやるからな!!」  くそっ、と舌打ちしてステイルは背を向けた。インデックスは相変わらずキョトンとしたまま『だから何であなたが怒ってるの?』という顔を浮かべている。|建宮《なてみや》は複雑な表情で上条とステイルを交互に眺めていた。そんな目で見るな、と上条は思う。  インデックスは不思議そうに首を傾げたまま、 「それで、『法の書』の解読法ってどういうものなの?」 「あ、はい。それでは、今からお伝えするのでございますよ」  少女の問いに、オルソラはすらすらとよどみもなく話を進めてしまおうとする。  ぶわっ、と上条の額に汗が浮かぶ。  今まで夢物語だと思っていた事がいきなり現実として目の前に訪れて、上条は今まで大して考えてもいなかったリスクが次々と浮かんでくるのを感じ取った。  魔術師にとってはウワサや憶測の域を出ない『天使の術式』というものがどんな|代物《しろもの》なのか(皮肉な話だが)上条だけは実際に肌身に|染《し》みて理解している。かつて四大天使の一角『神の力』が放った『一掃瞼は数十億発もの光弾を使い地球の地表の半分を焼き尽くそうとしたのだ。  確かにあれを使えれば、こんな状況など一変できるだろう。  だが。  あんなにも壮絶な力は、不用意に人が手を出して良いのか?  と、オルソラはそんな上条の様子に気づいたのか、 「実際に『法の書』の力を行使するというのではございません。ようは『法の書』を私が解読し、それをいつでも使えるぞという意思表示ができればよいのでございましょう。私としても、できればこんな力は使いたくないのでございますよ」  オルソラは真剣な声で言う。  そう、そもそも彼女が『法の書』を調べようとしたのは、そこに書かれた知識の封印にある。 今のような展開はオルソラの望む所ではないだろうし、ひとまずここを切り抜けたとしても、今度は『法の書』の知識を求める世界中の|魔術師《まじゆつし》に身柄を|狙《ねら》われるかもしれない。  そこまで|考慮《こうりよ》に入れての、決断。  彼女は自分の望まぬ行動を起こし、それに伴う身の危険まで考えて、それでも|上条達《かみじようたち》のために力を貸してくれると言っているのだ。  今まで歴史上、|誰《だれ》にも解けなかった『法の書』の解読法。  一〇万三〇〇〇冊を収めるインデックスすら読めなかった禁書が|播《ひもと》かれる|瞬間《しゆんかん》。 「基本はテムラー、つまり文字置換法なのでございますが、変則ルールとして行数が深く|関《かか》わっているのでございます。まずはヘブライで使われる二二文字を二列に配し、その上で行数に着目して———」  上条には何を言っているのかサッパリ分からないが、インデックスにとっては重大な意味を含むのだろう。その顔色が見た事もないような真剣なものになる。  今のインデックスの頭の中では誰にも読めない|魔道書《まどうしよ》が次々と旙かれ、それは最強の兵器の設計図として組み直されているはずだ。上条はそれが不思議に思えると同時に、何か自分が取り返しもつかない場面に出くわしているような寒気がする。 「———つまり文字がページ内の何行目に書かれているかによって文字置換パターンが変化するためややこしく見えるだけで、現にページ数が変わっても同じ行数の文章には同じ法則で置換が行われているのがお分かりでございましょう? さらに———」 「行数文字置換パターンを駆使して変換された文節を、今度はページ数に合わせて並べ替える。 そうする事によってようやく一つの文章ができる。タイトルは『二つの時代の終わり』。収録内容はエノク言語を用いた肉体の天使化術式」  不意に、インデックスが遮るように言った。まるでオルソラの知識を先んじて言ってしまったかのような|台詞《せりふ》だった、。現にオルソラは目を白黒させている。 「もう良いよ。大体全部分かったから」  自分しか知らないはずの解読法の説明を途中で断ち切られたオルソラは『は?』と固まり、 「あの、何が分かったというのでございましょうか?」  うん、とインデックスは重たい声で、 「これ、正しい解読法じゃないの、トラップとして用意されたダミー解答だよ」  な……っ、とオルソラの全身が一瞬で凍りついた。  対して、インデックスは本当に|辛《つら》そうな顔で彼女の顔を見て、 「ごめんね。私もここまでは|辿《たど》り着けたの。ううん、|他《ほか》にもダミー解答は山ほどある。『法の書』の怖い所はね」インデックスは息を吐いて、「解読法が、一〇〇通り以上ある事なの[#「一〇〇通り以上ある事なの」に傍点]。しかも解読法ごとに違う文章になって、その|全《すべ》てがダミーなんだよ。『法の書』は|誰《はれ》にも読めないんじゃない。本当は、誰でも読めるけど、誰もが間違った 解読法[#「解読法」に傍点]に|誘導《ゆうどう》されてしまう|魔道書《まどうしよ》なの」 「そ、」  ……んな、とオルソラの|喉《のど》が干上がった声をあげる。 「間違った解読法でも一応は『文章』として読める形になるように工夫されている。だからこそ、間違った解読法を編み出しても、それが正解だと思い込んでしまう。残念だけど、あなたが気づかなかったとしても、それは仕方がないのかも。『法の書』の表紙にはタイトルと共に、ある一文が英語で記されているの。覚えていない?」  インデックスは、過酷な真実を伝えるために苦しそうな顔になって、 「『|汝《なんじ》の欲する所を|為《な》せ、それが汝の法とならん』———つまり『法の書』は本人が正しいと思い込んだ解読法則[#「正しいと思い込んだ解読法則」に傍点]によって、無数の『偽りの正解』の文書が浮かび上がってしまう恐るべき魔道書なんだよ」  オルソラ=アクィナスの顔から、あらゆる希望が消えてしまった。  無理もないだろう。彼女が命を|賭《か》けてまで解読に挑み、そこで得た知識はみんなを幸せにできると信じて、諸悪の根源である魔道書の原典を必ず処分すると誓い続けてきたのに。  胸の中に抱えていた最大の宝物である『解読法』では、何もできなかった。  魔道書の原典を|壊《こわ》す事も、この|土壇場《どたんぼ》で仲間を助ける事も、何も。 「考えようによっちゃあ、救われたのかもしんねえのよ。なあ、今からやっぱり解読法なんて分かりませんでしたっつったら、連中許してくれると思うよの?」  |建宮《たてみや》が尋ねると同時に、ドォン!! と聖堂の扉に|衝撃《しようげき》が走った。 「無理、だろうね。ここまで暗部を見せてしまった以上、もう彼らも引き下がれない」  ステイルは絶望的な状況に、かえって|薄《うす》く笑いながら答えた。  やるべき事はなくなった。  |掴《つか》むべき希望は永遠に失われた。  逃げなければ、と|上条《かみじよう》は強烈な|焦《あせ》りに|襲《おそ》われる。彼はインデックスやオルソラを裏一へ誘導しようとして、炎剣を構えるステイルとぶつかる。バラバラと、必殺であるはずのルーンのカードが力なく床へ落ちていく。  バゴン!! という|一際《ひときわ》大きな衝撃音と共に、『終油聖堂』の両開きの扉が|破壊《はかい》され勢い良く倒れかかってきた。上条|達《たち》が二、三の言葉を交わすと同時、葬式にまつわる|儀式《ぎしき》を行う教会の中へ、何百という|漆黒《しつこく》のシスター|達《たち》が宗教的な武器を構えて|雪崩《なだ》れ込んできた。      4  さらに一〇分が経過した。  |暗闇《くらやみ》に包まれる『婚姻聖堂』には、司令塔たるアニェーゼ=サンクティスしかいなかった。 彼女の護衛を申し出ていたはずの一〇人のシスター達は|緊張《きんちよう》に押し|潰《つぶ》されそうな顔をしていたので、護衛の任を解いて戦列に加わるように命令したのだ。直接|戦闘《せんとう》に出向く方が危険は増すはずだが、彼女達はむしろ明るい顔で戦場へ向かって行った。よほど見えない恐怖というものに|縛《しば》られ続けていたのだろう。 (それほど慌てる必要もないのに、どうして緊張しちまうんですかね)  アニェーゼは小心な部下達の様子を思い出してため息をつく。今も建物の外からは爆発音や激突音が聞こえてくるが、彼女の顔に不安はない。多少場数を|踏《ふ》んでいれば、音を聞いただけで分かるのだ。先ほどまでと違い、敵が統制を崩して防戦一方になっている事実が。 (おや?)  と、彼女の耳はふと戦闘のリズムに合わない、異質な雑音を聞き取った。  それは一つの足音となり、足音の主は教会の両開きの扉を勢い良く開け放った。  バン!! という大きな音。  そこには|上条当麻《かみじようとうま》が立っていたが、アニェーゼ!! サンクティスは顔色一つ変えなかった。 むしろ、笑みすら浮かべていた。つい先ほど、同じ構図で入って来た時とは随分と様子が違い、彼の顔は疲労にまみれ、その体は傷だらけになっていたからだ。 「どう考えたってあれだけの人数を相手にしちまいながら、自由に|敷地《 しきち》内を移動できるとは思えないんですけどね」  大理石の柱に悠々と背を預けるアニェーゼに、上条は荒い息を吐きながらも笑って、 「まぁ。ちよっとばっかり、作戦があるからな」 「作戦? ああ」彼女は塩目を閉じて、「なるぽどなるほど、そういう訳なんですか。なあんだ。あれだけ格好付けて登場しておきながら、あなた、仲間を囮にしちまったんですか[#「仲間を囮にしちまったんですか」に傍点]。確かに、ウチの戦力がまんべんなくあなた達を|襲《おそ》っちまったら、|誰《だれ》もここまでたどり着けなかったでしょうけど、でも、ねえ?」 「……、」  意味ありげな語尾上がりの声に、しかし上条は無言を貫く。  図星を突いたと思ったのか、アニェーゼはますます愉快そうに笑って、 「くっくっ。オルソラ=アクィナスは言ってましたよ。彼らは|騙《だま》すのではなく信じる事で行動する、とか何とか。あはは! まったく笑っちまいますよね、結局あなたは今こうして誰かを|騙《だま》して|囮《おとり》に使って息を吸ってるってんですから」 「いや」  |嘲《あざけ》りの声に、|上条《かみじよう》は正反対の悪意ない笑みを浮かべ、 「|俺《おれ》は信じてるよ、お前と違って。あいつらにはあいつらにしかできない事があって、俺にはそれができないから、|他《ほか》の役を与えてもらった。そんだけさ」  上条は、右の|拳《こぶし》を硬く握り|締《し》め、 「できればあいつらにも信じてもらえると|嬉《うれ》しいけどな。何の心配もしなくても、こっちの問題はこっちで片付けられるって」 「……、司令塔たる私を|潰《つぶ》せば全|攻撃《こうげき》を停止できると?良くもまあ、そんな都合の良い想像ができますね。羊飼いの手を離れた子羊の群れは暴走するって相場が決まっちまってんのに」  アニェーゼ=サンクティスは冷たい大理石の柱から背中を離す。  彼女は床に転がっていた銀の|杖《つえ》を|爪先《つまさき》で|蹴《け》り上げ、宙を舞う武器を片手で|掴《つか》み取ると、 「まぁ、良いでしょう。こっちも暇を持て余しちまってた所です。怠惰は罪ですからね、ここは一つあなたの|希望《げんそう》を打ち砕いて|手慰《てなぐさ》みといきましょうか!」  上条|当麻《とうま》は周囲の状況を確認する。  アニェーゼとの距離はおよそ一五メートル。工事中で内装が空っぽのため、間に障害物となるような物は何もない。外ではあれだけの人間が暴れ回っているというのに、この|閉鎖《へいさ》された空間には上条と彼女の他に|誰《だれ》もいなかった。  彼女の手には銀の杖が握られていた。細い柱の上に天使がロダンの『考える人』のようにうずくまっているデザインのもので、六枚の|翼《つばさ》がカゴのように天使を包み込んでいる。  かん、かん、という硬い音。  アニェーゼ=サンクティスの厚底のパーツが左右両足とも外され後方へ飛んでいく。 「|万物照応《Tutto il paragone>》。|五大の素の第五《Il quinto dei cinque elementi.》。|平和と秩序の象徴『司教杖』を展開《Ordina la canna che mostra pace ed ordine.》」  彼女が両手で杖を抱き、祈りの言葉を発すると杖の先で|屈《かが》む天使の羽が花のように開いた。 六枚の羽は時計の文字盤のように、正確に円を六等分する形で配置されていく。 「|偶像の一《Prima.》。|神の子と十字架の法則に従い《Segua la legge di Dio ed una croce.》、|異なる物と異なる者を接続せよ《Due cose diverse sono connesse.》」  言いながら、アニェーゼは軽く杖を振る。  カツン、と杖の先が横合いにあった大理石の柱に軽くぶつかる音が鳴る。 (……?)  上条は明らかに間合いの外で振るわれた一撃に内心で|眉《まゆ》をひそめていたが、  ゴン!! と。  次の|瞬間《しゆんかん》、上条の視界が九〇度真横に折れ曲がった。 「が……っ! だ!?」  何か重たい金属で頭の横を|殴《なぐ》られた、と気づいた時にはすでに硬い大理石の床に倒れ込んでいた。ぐらぐらする頭を必死に動かして視界を確保すれば、アニェーゼはくるくると回した|杖《つえ》の底で、トン、と大理石の床を|叩《たた》いていた。  ぞっとする|悪寒《おかん》と共に|上条《かみじよう》が床を転がった|瞬間《しゆんかん》、直前まで彼の頭があった所に見えざる|衝撃《しようげき》が|襲《おそ》いかかった。ゴバッ腿 という鈍い音と共に、|金槌《かなづち》で打たれたように床に|窪《くぼ》みと|亀裂《きれつ》が生じる。 (座標、|攻撃《こうげき》?|空間移動《テレポート》を応用したようなタイプの技か?)  上条は理解もできないまま、とにかく立ち止まるのはまずいと考えた。その間にもアニェーゼは|懐《ムところ》からナイフを取り出し、まるでギターの|弦《ロ》を|掻《か》き鳴らすように杖の側面をメッタ切りにしていく。 ゾザザザガガギギロ という異音と共に、逃げる上条を追って空気が見えざる何かに切り裂かれていく。 「その杖……ッ!?」 「ははっ。そりゃ|流石《さすが》に気づいちまいますか。天草式のヤツらが使ってた地図の術式に似てるってのが気に食いませんけどね。コイツを傷つけると連動して|他《ほか》の物に傷がつく。こんな風にね、っと!」  続けてナイフを走らせると見せかけ、一転、くるりと回した|杖《つえ》を床に|叩《たた》きつける。|上条《かみじよう》は突然真上から|襲《おそ》ってきた|衝撃《しようげき》に対処できず、左肩が不自然に落ちかけた。ズン! という重い打撃音が、後から|響《ひび》いてくる。 「……ッ?」  アニェーゼの攻撃は|幻想殺し《イマジンブレイカー》を使えば打ち消せるのだろうが、『どこから攻撃が来るのか』が分からない以上、攻撃に対して右手を合わせられない。  足の止まった上条に、アニェーゼは天使の杖をくるくる回すと手近な大理石の柱へ、フルスイングで叩きつける。 (ま、ず……ッ!?)  上条は慌てて横へ跳ぶ。不幸中の幸いで、彼女の攻撃は命令から発動まで一秒に満たない若干の余裕がある。従って、常に動き続けていれば攻撃が当たるはずはないのだが、  パガッ!! と。  当たらないはずの一撃が上条の左腕ごと|脇腹《わきばら》にめり込んだ。 「ぎ……っ!!」  |横殴《よこなぐ》りの一撃を受け、押し倒された上条の体は床を滑った。脇腹の中、体の|芯《しん》のような所からギリギリとした痛みが噴き出してきた。打撃の着弾点と脇腹の間には左腕があったはずなのに、腕ごとまとめて脇腹に衝撃がぶち当たった。挟まれた左腕は関節が外れてしまったように力が入らず痛みの感覚も消えていて、ただじんわりとした熱のようなものに包まれている。  アニェーゼは杖の先で床を叩く。  上条はとっさに転がって移動したが、構わず衝撃が少年の胸に叩きつけられた。げほっ、と体内の酸素を強引に吐き出された彼は、それでも跳ねるように後ろへ下がろうとする。そこヘアニェーゼはすかさず杖をナイフで傷つけると、上条の背中が斜めに切り裂かれた。  ぶちぶちと、筋肉の|繊維《せんい》が断ち切れていく感触。  |何故《なぜ》だか痛みが爆発するまで、落雷の光と音のように一秒の間が開いていた。 「がっ、ば……ァァああああああああああああっ!?」  焼き付くような背中の痛みにのた打ち回る上条に対し、アニェーゼは杖を横に振った。大理石の柱に杖がぶつかると同時、彼の体が水面を走る飛び石のように床を飛ぶ。 「いつまでも単調に|避《さ》けられるとは思わねえ事です」アニェーゼは退周そうな顔で杖をくるくると回して、「命令と発動までにタイムラグがあんなら、そいつを計算に入れて攻撃位置を修正すりゃプラスマイナスゼロになんでしょうが。あなたの|回避《かいひ》位置を考えた上で、先読みして回避ポイントを|狙《ねら》って空間に|機雷《こうげき》を『設置』しちまえば、そっちが勝手に|攻撃《こうげき》範囲内に飛び込んできてくれる。大したタネでもねえですよ。今までの空振りは誤差修正用のサンプルを採ってたって気づいちまわなかったんですか?」  |上条《かみじよう》は痛みで焼け付く頭を動かし、かろうじてその言葉を聞いていた。じくじくと痛む背中を気にしながら、よろよろと立ち上がる。  アニェーゼはすでに勝利を確信しているのか、自慢の|杖《つえ》に|頬《ほお》ずりしながら、 「近代西洋|魔術《まじゆつ》では火、風、水、土、エーテルの|五大元素《エレメンタル》にそれぞれ|象徴《シンボル》たる武器を用意しているのはご存知ですかね。火は『杖』、風は『短剣』、水は『杯』、土は『円盤』といった具合にですね、属性武器ってもんがあるんです」アニェーゼはニタリと笑って、「ちなみに私が持つのはエーテルの|象徴武器《シンボリツクウエポン》『|蓮の杖《ロータスワンド》』です。こいつには面白い特性がありましてね、エーテルを扱うと同時に、|他《ほか》の四大元素|全《すベ》ての武器としても使用できる、という特色があんですよ」  ヒュン! とアニェーゼは杖を斜めに振り下ろす。  床に杖が激突した|瞬間《しゆんかん》、|悪寒《おかん》に|襲《おそ》われた上条は真後ろへ跳んだ。しかし、それすらも計算に入れ先読みして設置された一撃が真上から上条の頭に衝撃を叩きつける。がくん、と|膝《ひざ》が折れかける。体の|芯《しん》がぐらぐらと揺れるのが分かる。  |闇雲《やみくも》に右手を振るっても、それを|嘲笑《あざわら》うように別の角度から腹の真ん中へ打撃が襲いかかる。 視界の明るさがゆっくりと明滅する。足は早くも笑い始めていた。 (き…ぎ……。ちくしょう、触れれば消せるんだ。触れる事ができれば。どうする。どうやってアニェーゼの攻撃の方向・角度を見極める? タイミングだけなら|掴《つか》めるんだ……)  必死の形相を浮かべる上条に対し、アニェーゼは楽しそうに唇を|歪《ゆが》めて、 「五大元素は万物|全《すべ》てを形作るもの。これに『偶像の理論』を当てはめちまったらどうなると思います? あの|魔道書《まどうしよ》図書館が言ってたでしょ、|伊能忠敬《いのうただたか》の地図と同じですよ。あれは『地図』と『地形』の関係でしかありやせんでしたけどね。何にでも当てはまる五大元素の杖は、つまり何にでもその法則を適用できるんですよ[#「つまり何にでもその法則を適用できるんですよ」に傍点]。例えば空間そのものに作用させるとか、ね!」  アニェーゼは|杭《くい》のように杖を柱に|叩《たた》き込む。反応の遅れた上条の腹に鈍い|衝撃《しようげ 》が|弾《はじ》け、彼はそのまま後ろへ転がった。上条は起き上がろうとして、そこでだらりと口の端から血が垂れている事にようやく気づいた。  彼は口の中の血を吐き捨てながら、 「つ…が……ッ。———チッ。『法の書』だの魔術だの……嫌ってる割にゃ、テメェはバンバン使うんだな———」  だらだらと話を続ければ上条の体力が回復するかもしれないのに、アニェーゼは特に気にする様子も見せない。 「あはは。|殴《なぐ》られてご立腹なんですか。でも高位聖職者が持つ司教杖ってのは敵の|鎧《よろい》を叩き|潰《つぶ》すのに使ってたメイスって武器が変化しちまったものなんですよ。殴るための道具を殴るために使って何が悪いんですかね。はは、それにしても平和と秩序の象徴が|鋼《はがね》の|棍棒《こんぽう》ってのは笑っちまいますが」  アニェーゼはうっとりした表情で舌を出すと、|杖《つえ》の側面をベロリと|舐《な》める。全身に伝わる異様な感触に、|上条《かみじよう》は慌てて飛び下がった。彼女はその反応を見てくすくすと笑う。  大体、とアニェーゼは小さく|繋《つな》いで、 「二〇世紀に基盤の固まった近代西洋|魔術《まじゆつ》なんてな十字教の裏技的な側面を持つって前に言ったでしょ? |錬金術師《れんさんじゆつし》風に言うなら『あくまで十字教の語られざる深部であゑですよ鳳  杖が振り下ろされる。  上条はとっさに|避《よ》けようとするが、足の動きが意識に追い着かない。ゴッ、と重い|衝撃《しようげき》が頭の奥で|弾《はじ》け飛ぶ。 「っづ……ッ! こっちに……言われてもな。……|俺《おれ》は、魔術師じゃない」 「同じでしょう。神に祈らないくせに神の恵みを受けている。そんなのは許されやしないんです。当たり前でしょう? 私|達《たち》は私達のために働いてんですよ。何だって働きもしないあなた達のために私達の税金が使われなきゃなんねえんですか。英国や天草の異端どもも同じです。 ローマ以外の教えなんてな教えじゃないんですよ。あんなのは仕事の内に入りやしません。っつーか邪魔だなあ。文句を言わずにさっさと流れ作業で死んでくださいってば」 (くる……)  上条は歯を食いしばる。  ステイルの炎剣や|建宮《たてみや》の|斬撃《ざんげき》のような派手さはないものの、アニェーゼの攻撃にしたって生身の体でそう何度も受け止められるほど易しくはない。がくがくに|震《ふる》える足は、すでに彼の限界が近い事を示している。  攻撃のタイミングは分かっている。  アニェーゼの攻撃が魔術的なものなら、右手で触れただけで打ち消せる。  後は。  攻撃の角度と方向さえ|掴《つか》めれば。  確実に、アニェーゼの一撃に右手を合わせられれば。 (来る!!)  アニェーゼは表情を消すと、天使の杖を棒術のパフォーマンスのように振り回した。やはり『一歩先』に先読み設置されたその攻撃は上条の足では|避《さ》けられない。右手を振り回す暇もなく|殴《なぐ》り飛ばされ、床を転がりながら、しかしそのまま跳ねる勢いを殺さず一気に起き上がる。  ダン! と上条は両足に力を込め、|渾身《こんしん》のカで一歩でも前へと駆ける。  両者の距離はおよそ七メートル。  上条の足なら二歩か三歩で|懐《ふところ》へ飛び込める距離だが、アニェーゼの顔に|焦《あせ》りはない。一直線に向かってくるなら、むしろ先読みが簡単だと判断したのだろう。彼女は両手で力強く天使の杖を握り|締《し》めると、スイカ割りのように思い切り床へと|叩《たた》きつける。  ゴッ!! という重たい激突音。  その|衝撃《しようげき》が真上から落ちれば|頭蓋骨《ずがいこつ》の粉砕は|避《さ》けられないほどの一撃。  だが[#「だが」に傍点]、 (その攻撃を———)  |上条《かみじよう》は靴底を削るように急停止する。  一歩先の場所へ先読み設置された攻撃は、一歩前へ進まなければ当たらない[#「一歩前へ進まなければ当たらない」に傍点]。 (———待ってたんだよ!!)  そして、上条は握り|締《し》めた右の|拳《こぶし》で『一歩前』の空間を思い切り|殴《なぐ》り飛ばす。  バン!! という風船が割れるような|轟音《ごうおん》。見えない巨大なシャボン玉を砕くような感触と共に、そこへ|襲《おそ》いかかるはずだった攻撃が跡形もなく吹き飛ばされていく。 「なっ!?」  その異常は単なる|素人《しろうと》の上条よりもプロであるアニェーゼの方が良く分かるのだろう。  上条は何もなくなったただの空間を、一気に弾丸のように駆け抜ける。  アニェーゼは慌てて天使の|杖《つえ》を思い切り振るう。  だが、予期せぬ状況を前に満足な力を出す事もできず、  上条の体がアニェーゼの|懐《ふところ》へと飛び込み、  アニェーゼの杖が大理石の柱へとようやく直撃し、  甲高い音と共に上条の首が真横へ|弾《はじ》かれ、  それでも、  それでも[#「それでも」に傍点]、上条当麻は絶対に握った拳を開かない[#「上条当麻は絶対に握った拳を開かない」に傍点]。  ゴン!!  という鈍い打撃音。  アニェーゼ=サンクティスの背中が、後ろにあった大理石の柱へ|叩《たた》きつけられた。  ぐらり、とアニェーゼ=サンクティスの意識が揺らぐ。  空白に染まりかけた彼女の心は、封じたはずの|記憶《きおく》の断片を|緩《ゆる》やかに浮上させる。 (ぎ、ぁ……ま、さか)  アニェーゼは必死にそれを封じようとしても、腹の奥からマグマのように|湧《わ》き出す吐き気がそれを|邪魔《じやま》してしまう。 (戻、るのか)  思い出されるのはミラノの裏通り。|陽《ひ》の光を|全《すべ》て表の観光街へ奪い取られ、レンガの地面に人とネズミと羽虫とナメクジが|一緒《いつしよ》になってうずくまる、希望の消えた小さな集まり。 (もう一度、あそこへ)  記憶が破裂する。断片が心に刺さる。レストランの裏手、ゴミ箱の中、捨てられた肉の残りから、 |這《は》いずるナメクジを落とし、ネズミの|死骸《しがい》の抜け毛を落とし、ゴキブリのもげた羽を落とし、ぐちゃぐちゃと、ぐちゃぐちゃと、|噛《か》み|潰《つぶ》して、噛み潰して、噛み潰すだけの日々に。 (い、やだ)  白く裏返りかけた意識が、己の言葉によって回復する。  |痺《しび》れて力の抜けた手の先から、握った武器が離れていく。それは天使の|杖《つえ》を傷つけるのに使っていたナイフだ。自分の戦う象徴、敵を倒す武器が手元から離れてカツンと床に激突する。  しかし。  しかし、ナイフは手放しても、天使の杖だけは決して手放さない。 (いや、だ! 戻って、たまる、か。絶対に……ッ!!)  ギチリ、と。まるで銀の杖を握り潰すように、アニェーゼは己の手に力を込める。  意識が戻る。  彼女は戦う意志を取り戻す。 「「!!」」  |上条当麻《かみじようとヒマは》とアニェーゼ=サンクティスの二人はお互いの顔を|睨《にら》みつける。  二人の距離はおよそ五メートル。近距離の|拳《こおし》でも遠距離の杖でも、どちらも|一瞬《いつしゆん》で届く距離。 互いが睨み合うその姿は、さながら時代劇の居合いや西部劇の|早撃《はやう》ちの瞬間を連想させた。  両者の|頬《ほお》にぬるい汗がゆっくりと伝い、  両者の神経がジリジリと焼き付き、  両者の呼吸がはたと止まって、 「ふん」  と、アニェーゼはつまらなそうに息を吐くと、唐突に天使の杖の構えを解いた。あまつさえ、上条から視線を外して辺りをゆっくりと見回す。  一応はチャンスだが、しかし上条は安易に動かない。チャンスの中に|潜《ひそ》んでいるかもしれない危険を探っている彼に、アニェーゼはジロリと目玉だけを動かしてその顔を眺め、 「努力しようと頑張ってる最中申し訳ありませんけど、もう終わっちまったみたいですよ」  上条は一瞬、何を言われたか理解できなかった。  そして、遅れて気づく。  静まり返った『婚姻聖堂』には、物音がなかった。あまりにも、|完壁《かんぺき》に、音らしい音は つ残らず消え去っていた。まるで一人きりで|閉鎖《へいさ》された映画館の真ん中にポツンと立ち尽くしているような———耳が痛くなるような静寂が頭から胸へと一気に突き剃さる。 それは単に、上条とアニェーゼが動きを止めたから、だけではない。  外。  二五〇人ものローマ正教のシスター|達《たち》と、せいぜい五〇人強のイギリス清教と天草式の混合部隊。双方合わせて三〇〇人以上の人間がこの『婚姻聖堂』の外にいるはずなのに、周囲を取り囲む|音響《おんきよう》が|全《すべ》てまとめて消えていた。  それが示す意味は。  意味は。 「………………………………………………………………………………………………… 、」  |上条《かみじよう》の全身の肌がビリビリと痛みを発する。  まるでその痛みを永遠に止めるかのように、アニェーゼ=サンクティスはさらに告げる。 「どうも、彼らが|囮《おとり》となって粘っている間に、あなたが司令塔たる私を倒して話を収めるつもりだったようですけど」 |嘲《あざけ》り、|罵《ののし》り、最後に一っ哀れんで、 「あなたの描いた|幻想《よそう》より、あっさりコトは終わっちまったようですね」  上条は、その言葉を聞いていた。  呼吸すら忘れて、聞き入っていた。  握った|拳《こぶし》から力が抜ける。戦うべき理由が消失する。もはや自分がここに立っている理由すらなくなったとでも言いたげに上条はぼんやりと立ち尽くす。  じりじりと、頭の奥から|誰《だれ》かの顔が浮かんでくる。  上条はそれらを|噛《か》み|潰《つぶ》すように、告げる。 「ああ、」  上条|当麻《とうま》は、最後に絶対の自信と共に告げる[#「最後に絶対の自信と共に告げる」に傍点]。 「その通りだ。お前の幻想は終わっちまったよ、アニェーゼ=サンクティス」  は? と彼女は|眉《まゆ》をひそめた|瞬間《しゆんかん》、  バン!! と。上条の背後で『婚姻聖堂』の両開きの扉が勢い良く開け放たれる。  彼と向かい合っているアニェーゼ=サンクティスは、上条の肩越しに見た。  恐る恐る[#「恐る恐る」に傍点]、確かめた[#「確かめた」に傍点]。 『婚姻聖堂』の入口から入ってくる人影を。それは見慣れた自分の部下達ではなく、イギリス清教の禁書目録とステイル=マグヌス、天草式牽字|凄教《せいきよう》の|建宮斎字《たてみやさいじ》と彼に抱き上げられたオルソラ=アクィナス、そして建宮の伸間達。  それから、もう一つ。  オレンジ色の炎に包まれた、人の形をした化け物がステイルの横に|停《たたず》んでいる。  アニェーゼはその化け物の正体を知らない。  知る者が見れば、それの名をこう呼んだはずだ。 『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』と。  摂氏三〇〇〇度を超す炎の怪物。発動したが最後、爆破と再生を繰り返し、いかなる|攻撃《こうげき》も障害物も焼き払い溶け落として敵を|繊滅《せんめつ》する、攻撃は最大の防御の理念を貫いた好戦攻撃術式。  だが、仮にその術式を知っている者が見ても目を疑ったはずだ。  それはもはや通常の『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』ではない。炎の密度が違い、威圧感が違う。全身から放たれる熱波は周囲の空気を|歪《ゆが》め、その巨大な背から透明な|翼《つばさ》が無数に生えているようだ。 「使用枚数は四三〇〇枚」  赤い髪の神父は歌うように告げる。 「数の上では大した事はないが[#「数の上では大した事はないが」に傍点]……いや、天草式ってのは|馬鹿《ばか》にできないね。ルーンのカードの配置を使ってさらに大きな図形を描き、その図形をもって|敷地《しきち》全景の|魔術《まじゆつ》的意味を変質させ、このオルソラ教会そのものを一個の巨大な|魔法陣《まほうじん》に組み替えるなんて。一応、そいつの|右手《ヘヘへももへ》に干渉されないよう、この建物だけは効果圏内から除外してあるけどね。……そこにある物を|全《すべ》て利用した多重構成魔法陣———こういった小細工は、僕には学びきれなさそうだ」  ごうごうと、勢い良く燃え上がる炎の塊を自慢げに眺め。 「皆にはカードの配置を手伝ってもらった。ま、と言っても元々完成寸前だったジグソーパズルに残りのピースをはめ込むようなものだ。ああ、そう言えば紹介するのが遅れたね。元々、僕は次々と場所を変えて攻め込むより、一ヶ所に拠点を作って守る方が得意なんだ。とある事情で[#「とある事情で」に傍点]そういう魔術を欲していたからねし  大きく開け放たれた扉の向こうに、外の景色が見えた。草木一本ない石造りの平たい庭園のあちこちから魔力の炎がくすぶり、黒い修遵服のシスター|達《たち》が|覆《おお》い|被《かぶ》さるように倒れている。  彼女達の体が炭化したり|酷《ひど》い|火傷《やけど》を負っているようには見えない。  何度も聞こえた爆発音は、おそらくあの炎の化け物が起こしたものだ。空気を押し出す|衝撃波《しようげおは》の壁を使ってシスター達の体をまとめて|薙《な》ぎ払ったのだ。  倒れている者は皆気絶しているだけらしい。  |戦闘《せんとう》不能に追い込まれたシスター達はせいぜい全体の五分の一ぐらいのはずだ。が、それで円|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』の|破壊力《はかいりよく》は証明されたのか、武器を構えたままのシスター達は距離を取って|歯軋《はぎし》りをする。不用意に近づけば爆風・爆炎の|餌食《えじき》になるのが目に見えて分かるのだろう。 「言ったろ。作戦があるって」|上条《かみじよう》は|檸猛《どうもう》に笑いながら、「こいつらは|囮《おとり》になるために逃げ回ってたんじゃない。単にステイルの秘密兵器を使うための準備として、カードを敷地内に配置してたってだけの話さ。……魔術師じゃねえ|掩《おれ》にはあんまり良く分からない理屈だけどな」  上条は右手の『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』があるため、ルーンのカードをばら撒くという作業は手伝えない。 そこで彼は単独でアニェーゼを|狙《ねら》う役割を負ったのだ。本当の狙いであるルーンを|潰《つぶ》されないよう、みんなを囮に使って玉砕覚悟で上条がアニェーゼを狙ってきたと勘違いさせるために。  いちいち細かく説明しなくても、アニェーゼは大体の|顛末《てんまつ》を予測できたらしい。  そして同時に、これから自分がすべき事も。  アニェーゼは油断なく|杖《つえ》を構えたまま、『婚姻聖堂』の外にいるシスター|達《たち》に叫ぶ。 「何をやっちまってんですか! 数の上ならまだ私達の方が断然多いんです! まとめて|潰《つぶ》しにかかりゃあこんなヤツら、取るに足らねえ相手なんですよ!!」  そう。  何をどう考えた所で、ローマ正教と|上条《かみじよう》達の人数差は絶対だ。それでも彼らが生き残っているのは、単に様々な奇策を使って逃げ回っていただけだ。逃げ道を作らないように周囲を取り囲み、一斉に|襲《おそ》いかかれば簡単に潰せる。その過程で何十人というシスターは倒れるだろうが、その死体を|踏《ふ》み潰して残る一〇〇人以上の仲間達が上条達を|叩《たた》き潰すだろう。  プロの|魔術師《まじゆつし》であるはずのステイルが殺しを行っていないのも、単に虐殺を行えばシスター達がパニックを引き起こし、玉砕覚悟で突っ込んでくる危険性を生んでしまうからに過ぎない……はずだ。あれだけの術式を使えば、もはや敵を殺さない方が難しいのだから。  なのに。  数の上で圧倒的に有利であるはずのシスター達は、動かない。 「何を……!?」  アニェーゼは当たり前の理屈が分からない部下を怒鳴りつけようと思ったが、彼女自身も気づいていた。  不審。  シスター達は、それが理論的に正しい事を理解していながら、心のどこかでそれを信じられないのだ。争うべきか逃げるべきか、彼女達の心は揺らぐ|天秤《てんびん》をじっと眺めている。|誰《だれ》か一人でも動けば、集団心理が働いて一気に流れが変わるだろう。  アニェーゼ=サンクティスはオルソラの言葉を思い出す。  ———彼らは、信じる事で行動する。  ———それに比べて、私達ローマ正教のなんと|醜《みにく》い事か。 「……、面白い、じゃないですか」  彼女は|傭《うつむ》いて、奥歯が砕けそうになるほど|顎《あご》を|噛《か》み|締《し》めた。  天秤がギリギリの|均衡《きんこう》を保っているなら、それを強引に傾けてしまえば良い。目の前の上条を叩きのめして、アニェーゼの優勢を見せつけてやれば良い。  シスター達を使って上条を潰しても、それでは圧倒的な優勢を見せつけられない。しかし、それは上条も同じだ。もしも彼が仲間にすがってアニェーゼを倒したとしても、それは上条が自分の|焦《あせ》り、|緊張《きんちよう》、恐怖———劣勢を見せつける羽目になる。そうなれば|膨大《ばうだい》な数のシスター達の心のタガは外れ、人間の|雪崩《なだれ》に巻き込まれるはずだ。  詰まる所、一対一。  |上条当麻《かみじようとうま》とアニェーゼ=サンクティス。  双方合わせて三〇〇人を超す人聞に取り囲まれながら、両者は限りなく孤独だった。  お互いの距離は五メートル。  当然ながら天使の|杖《つえ》の間合いの中。ただし、この距離はほんの一息|踏《ふ》み込めば上条の|拳《こぶし》が十分届く領域でもある。二人の条件は五分。つまり、先に己の|攻撃《こをげき》が届いた方がそのまま必殺の栄誉を得る。 (どう、———する……)  じりじりと間合いを計りながら、しかしアニェーゼの額には汗の|珠《たま》が浮いていた。  この一撃が、先に届くのか?  |焦《あせ》るな、とアニェーゼは自分の言葉を|喉《のど》の奥へ|呑《の》み込む。『|蓮の杖《ロータスワンド》』の利便性は単なる握り拳の比ではない。フルスイングの一撃を、先読み設置すればあんな一般人など一撃て粉砕できる。 (どうする……、何を———どうすれば……ッ)  しかし、安直なフルスイング一発に|全《すべ》てを任せて良いのか。もしも|避《さ》けられたら? 万が一先読み設置を読み間違えたら? それなら保険としてまずは小刻みに速い攻撃を何度か繰り出し、足を止めてからフルスイングしてはどうだろう。だけど、たかが小刻みな一撃で足を止める事はできず、構わず突っ込んできてしまったら?  だが、けど、しかし、けれど、いや、なれど、それでも、されど、でも、だけど。  次々と否定文が並んでいく。  詰まる所、彼女はたくさんある手札のどれを切って良いのか決断できない。 (方法は———タイミングは、武器は……踏み込みは、……何をどう選べば良い!!)  対して。  対して、上条当麻は切り札の使い道を迷わない。すでに自分の右手の拳に全ての力を注ぎ込み、ただ一撃に己の生命を|欠片《かけら》も残さず預けている。  彼は、信じている。  どれだけ傷をつけられても、死の一歩手前まで追い詰められても、信じている。  己の持つ武器の強さを、己の武器を作ってきた道のりの正しさを、己の武器が確実に敵を打ち負かす光景を、己の勝利の先に素晴らしい未来が待っているというその予想図を。  上条当麻は、信じているから行動できる。 「終わりだ、アニェーゼ」迷いのない、声。「テメェももう自分で分かってんだろ。テメェの|幻想《じしん》は、とっくの昔に殺されてんだよ」  ステイルはロに|哩《くわ》えた|煙草《タバコ》を指で|摘《つま》むと、無造作に横合いへ投げた。  両者の視界の端で、そのオレンジ色の光が床へ落ちた|瞬間《しゆんかん》、|火蓋《ひぶた》は切って落とされた、  ダン!! という壮絶な足音。  上条当麻は鉄岩のような拳を握り、アニェーゼの|懐《ふところ》へ揺るぎなく突撃する。 (何を……何をすれば———ぁ、うァァあああああああああああああああああああ!?)  アニェーゼ=サンクティスの心の中で、何かが|弾《にじ》け飛んだ。  激突の|瞬間《しゆんかん》は間近に迫っているのに、ぐらぐらと揺らぐ|天秤《てんびん》はいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも結論を出してくれない。満足な答えも出ていないのに選択を迫られたアニェーゼは、半ば泣き出しそうな顔で思い切り|杖《つえ》を振るう。  己の必殺に|全《すぺ》てを|賭《か》けきった者と、どれに賭けるかその時点で迷った者。  |彼我《ひが》の優劣など、わざわざ問うまでもない。  ゴガン!! という壮絶な激突音。  アニェーゼの体が吹き飛び、背後にあった大理石の柱を|掠《かす》めて床の上を転がった。  あまりの|衝撃《しようげき》にアニェーゼの手から天使の杖が離れ、何メートルも床の上を跳ね転がった彼女は、体の中の酸素を全て吐き出してようやくその動きを止めた。  アニェーゼは、そのまま気を失っていた。  それで、インデックスやステイル|達《たち》と、彼らを取り囲むローマ正教のシスター達の問の|均衡《きんこう》も一気に傾いた。自分達では勝てないと思ったシスターの一人が武器を足元へ落とすと、続いて一つ、また一つと音が重なり、やがて豪雨のような|大音響《だいおんきよう》になっていった。  戦いは終わる。  たった一人の少年の|拳《こぶし》が、二〇〇人を超す敵勢の心をねじ伏せた事で。 [#改ページ]    終 章 行動終了 The_Page_is_Shut.  思ったより|上条《かみじよう》の体には大きなダメージがかかっていたらしい。  途切れがちな|記憶《きおく》はあやふやな場面と場面を強引に|繋《つな》げていく。  分かったのは『婚姻聖堂』で倒れた事、インデックスが叫んで駆け寄ってきた事、救急車に乗せられた事、特別対応とかの書類上のやり取りで時間を食った事、結局進路を変えて学園都市へ運ばれた事、カエル顔が|覗《のぞ》き込んでくるのを機にブツリと意識が断ち切られ、気がつけばふかふかのベッドの上で寝転がされていた事。 (……いつもの病室か。うっ、部屋の|匂《にお》いで分かっちまうなんて。やだなあ)  上条が目を閉じたままぼんやりする頭で考えていると、ふと近くに人の気配があるのに気づいた。小さな吐息や衣服がわずかに|擦《す》れる音などが耳に届く。温かくて柔らかい手が、上条の前髪を軽く|撫《な》でるのが分かった。 「|土御門《つちみかど》は腹を抱えて笑っていましたが———」  |誰《だれ》かの声が聞こえる。 「———やはり、こういうものはいい事だと思います」  わずかに名残惜しそうな声色と共に、前髪を撫でる手の動きが音もなく止まり、上条の頭から離れた。|掌《てのひら》の体温が消えていく。  上条はやたらと重たいまぶたをゆっくりと開けて、 「ん。……|神裂《かんざき》か?」 「お、起きてしまわれましたか。このまま立ち去るつもりだったのですが」  神裂は上条の声に、ほんの少しだけ|驚《おどろ》いて身を引いた。彼女は今までベッドの近くに置いてあった見舞い客用のパイプ|椅子《いす》に座って彼の顔を覗き込んでいたようだった。  上条は上半身をベッドから起こし、眠気を飛ばすために首をぶんぶんと振り回す。  時聞は明け方のようだった。蛍光灯を切った暗い病室に、窓からの朝焼けの光が木漏れ日のように差し込んでいる。ベッド横のサイドテーブルには何か高級そうなお菓子と書き置きらしきメモがある。上条があちこちに視線を漂わせていると、神裂はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。元々長く居るつもりはないようだ。 「……、あー」  上条はぼーっとする頭の歯車をくるくると回す。改めて神裂の姿を見ると、彼女はいつも通り、おへそが見えるように|脇《わき》を絞った|半袖《はんそで》のTシャツに片方だけ|太股《ふともも》が見えるようカットされたジーンズという格好だった。絞っているためTシャツは余計に胸の大きさを強調しているし|太股《ふともも》はかなり|際《きわ》どい根元まで見えているし相変わらずエロいなーと思ったが口に出すと|殴《なぐ》られそうだ。|上条《かみゆよう》は意識を|他《ぽか》に移し、サイドテーブルにあったメモに目をやり、 「とりあえず、書き置き……?」  言った|瞬間《しゆんかん》、ビュバッ!! と恐ろしい速度で|神裂《かんざき》の手が書き置きの小さな紙切れを奪い取った。スポーツ工学的に言ってありえない新記録だった。神裂は顔を真っ赤にすると目をあちこちに揺らしつつ体中から変な汗を出してグシャグシャグシャグシャ!!と小さなメモを極限のスピードで丸めていく。 「べっ、別に何でもありません。こうして直接話す機会ができたのですからこの書き置きはもう必要ないでしょう?」 「??? でも……」 「良いでしょう、もう。こういうものは改めて目の前で読まれると知ると途端に恥ずかしくなってくるものなのです」  神裂は丸めた書き麗きをゴミ箱へ投げようとしたが、ふと思い|留《とど》まってズボンのポケットに突っ込み直した。そこまで読まれたくないものなんだろうか、と上条は首を|傾《かし》げる。神裂は豊かな胸に片手を当てて一度だけ深呼吸すると、元の表情へ戻っていく。 「お体の方は|仔細《しさい》ないでしようか?」 「なんつーか……|中途半端《ちゆうとはんぱ》に麻酔が残ってて痛むトコとか分かんねーし」 「すみません。天草式には食事による術的な回復方法もあるのですが、どうもあなたには上手く作用しないようですので」 「……何でお前が謝ってんだか。って、|寿司《すし》とかハンバーガー食べたら傷が治るのか。すげーな天草式、RPGの回復アイテムみたいだ」 「はぁ……???」  たとえが良く分からないのか、|神裂《かんざき》は珍しく|曖昧《あいまい》かつ適当な返事をする。 「ところでステイルのヤツは?」 「すでに街を出ています。何でも|煙草《タバコ》の買えない街には長居したくないとか。ここは年齢確認が厳しくてやりづらいといつも|愚痴《ぐち》を言っていますよ」  それが普通なんです、と|上条《かみじよう》は心の中でツッコミを入れつつ、 「でも、それならお前が買ってやれば良いんじゃねえの?」 「私も一八ですから、煙草は買えません」  ………………………………………………………………………………………………………。 「|何故《なぜ》そこで信じられない顔をするのです? その耳掃除のジェスチャーは何ですか?」 「うっそだぁ! そりゃいくら何でもサバ読みすぎだろ、お前どう考えたって結婚適齢期を過ぎちゃってるようにしか見えなひいいぃぃぃっ!?」  言い終わる前に超高速の神裂パンチが上条の顔面のすぐ横を突き抜けた。身構える事すら追いつけずにぶるぶると|震《ふる》える上条に、神裂はいつも通りの平静な顔のまま、 「一八です」 「一八ですよね! 女子学生なのに攻略可能なアダルティ! 神裂センパーイ!!」  がちがちと歯を鳴らしながら必死に笑顔を作る上条に、神裂はものすごく疲れたようなため息をついてグーを引っ込める。 「……やはり書き置きで済ませておけば良かったような気がします。このままではいつまで|経《た》っても話が本題に入りません」 「本題?」 「はい。事後報告というか……オルソラ=アクィナスの動向などを伝えに来たのですが、余計なお世話でしたでしょうか?」 「聞く! 是非に!!」  上条が身を乗り出して即答すると、話題に対する食いつきの良さに神裂はほんの少しだけ肩から力を抜いて、 「オルソラ=アクィナス、及び天草式本隊はイギリス清教の|傘下《さんか》に入る事で話を収めました。これはローマ正教の報復・暗殺を防ぐという役割が大きいようです」  上条はアニェーゼと、その下についていたシスター|達《たち》の姿を思い出す。 「って事は何か、これからもオルソラの危険な立場は変わらないってのか?」「いえ。裏では|狙《ねら》う素振りを見せるでしょうが、裏の裏では狙う意義は|薄《うす》いでしよう。イギリス清教側は、オルソラの持っていたニセの『解読法』を|魔術《まじゆつ》世界中に公開しました。それが誤訳と分かれば彼女が『法の書』|絡《がら》みで追われる心配もなくなるかと思われます」  そうなると、もしオルソラが本当に『法の書』の暗号を解いていたらまさしく全世界から狙われていた訳だ。|怪我《けが》の功名とでも言うべきか、と|上条《かみじよう》は冷や汗をかく。 「ん?でも、天草式もイギリス清教の|傘下《さんか》に収まるんだよな?」 「はい。いくら本拠地が隠されているとはいえ、真っ向からローマ正教と敵対してもメリットはありません。まったく、どうも彼らは心のどこかでこの展開を望んでいた節があります。例えば……覚えていますか? |建宮斎字《たてみやさいじ》の着ていたTシャツ。白地に、|歪《ゆが》んだ形で赤い十字架が描いてあったでしよう」 「……、そうだっけ? 言われてみればそんな感じもするけど」 「描いてあったんです。そして赤の十字架は|聖《セント》ジョージの印———つまり、イギリス清教のシンボルです。それをまとって戦う事で、イギリス清教に属する私の元につくという意思表示でもしたかったんでしょう。私の後は追うなときつく厳命しておいたはずなんですが」 「そっか……。お前もイギリス清教の一員だもんな」  上条が感心したように言うと、|神裂《かんざき》はもう一度『まったく』と口の中で|眩《つぶや》いた。その顔がどこか親離れのできない子供を見ている母親のような表情をしていると、彼女は気づいているだろうか。 「でも、神裂的にはそれで良いのか? 天草式だって小っちゃいけど、きちんと独立した一派だったんだろ。それが大企業に吸収合併されるみたいな形になっちまって」 「傘下と言っても天草式の聖典や教義を捨てうと言うほどのものではありません。いわば大名の下に武家がつくようなもので、『天草式』という枠組みは残りますよ。それに、元々天草式は時代時代に合わせて最も適した形に変化する事で歴史の中に隠れ|潜《ひそ》んできた宗派です。一つの形にこだわる必要はありませんから、彼らが住みやすいのであればどんな風になっても構いません」  それでも、神裂は今まで自分がトップとして君臨していた小さな社会を、守るべき人々のために何のためらいもなく手放したのだ。こういう所を見てると、大人ってカッコイイなーと上条は思う。一応一八歳らしいけど上条にとっては一八歳も立派な大人だ。  と、つらつらと考えている上条の前で、神裂は姿勢を正して深く頭を下げた。 『ぺこり』とか|可愛《かわい》らしいものではない。彼女は頭を下げっ放しにしたまま、 「ええと、あの、今回は、その、すみませんでした」 「は? え、何が? 何で頭下げてんの? 何がすいませんでしたなの?」  寝起きでいまいち頭が良く回っていない上条としては、『女の子が自分に向かって頭を下げている』という光景がとんでもなく怖い。自分がなんかすごく悪い事をやってるような気分にさせられる。  と、|神裂《かんざき》は珍しく歯切れの良くないような責で、 「ですから、あの、今回は、つまり、一身上の都合で、色々ご迷惑をおかけしてしまった、というか……」  ものすごく慣れていない感じの|台詞《せりふ》だった。ぼーっとしている|上条《かみじよう》の頭は、とにかく神裂は今困っているらしい、という核のみを切り取って状況を判断すると、 「あれ、ごめん神裂。|俺《おれ》なんかお前に迷惑かけてる? だったら謝るけど」 「い、いえ、違うんです。ここであなたに謝られては本格的に私は立つ瀬がありません。ええと、そうではなくて、話を本題に戻すと、つまりですね———」  よほど言いにくい事なのか、神裂は前髪を指でいじりながら口の中だけで自分の言葉を|呑《の》み込んでしまっている。  と、神裂が意を決して何かを言おうとした|瞬間《しゆんかん》、夜明け時だというのに病室のドアがズバーン!! とノックもなしに勢い良く|叩《たた》き開けられた。  そこにいるのはアロハシャツに青いサングラスの大男。  |土御門元春《つちみかどもとはる》は何か見舞い品らしき物が入ったビニール袋をぐるんぐるん振り回しながら、「ふーんふふーんふふーん!! カミやーん、遊びにきたぜい。メロン一個は高すぎるから小さなカットメロンの乗ったコンビニデザートの豪華プリンで我慢せよ」  上条は神裂から土御門の方へと視線を移動させつつ、 「うーす。お前もうあと何時間もしない内に学校始まるけど寝なくて|大丈夫《だいじようぶ》なのか? あ、ごめん神裂。なに言おうとしてたんだっけ」  うっ、と神裂は彼の言葉を受けてわずかに|怯《ひる》んだ。それから横目で土御門をチラチラと見ながら、こいつの前で言うのか、何でこのタイミングでやってくるんだというオーラを発信する。  と、土御門は土御門でこの場の空気を敏感に感じ取ったのか、 「おおう。何だねーちん、ついにカミやんに平謝りする時が来たって感じですかい? どうせまたべッタベタの王道的にも『今までかけた迷惑の借りを返します』とか『何でも言いつけてください』とかって進言するつもりだぜい。ぷっ、だっはっはっはー!! やーい、このツルのエロ返しー」 「ちっ、違います! |誰《だれ》がこんな常識知らずの子供にそんな台詞を吐きますかッ!!」 「……、こんな、じょうしき、しらずー〜……」  ごーん、と上条が効果音つきでうな垂れると、神裂がビクッと肩を|震《ふる》わせて、 「あ、いえ、だからそういうつもりで言ったのでは……。そうではなくて、今のは土御門の暴言を|撤回《てつかい》させるためだけに使った言葉ですので、恩を返すという部分は、ええと……」 「でも結局ねーちんは脱ぐんでしょ?」 「ぬ、脱ぎませんよ! 結局ってどういう意味ですか!?」 「え、じゃあお|詫《わ》びにどんな服でも着るっていう方向で? サービス精神満点だなぁ」 「あなたはちょっと|黙《だま》ってなさい! そういう風に|歪《ゆが》んだ解釈をするからややこしくややこしくなっていくんでしようが!!」  ぎゃあぎゃあと(|上条《かみじよう》から見ると)楽しそうに|大騒《おおさわ》ぎしている二人をやや遠巻きに、上条はぽーっと眺めていたが、ふと頭の中の歯車が変な所でカチリと|噛《か》み合う。  ……、お詫びにどんな服でも? (い、いや|駄目《だめ》ですよ|神裂《かんざき》さんはなんか|真面目《まじめ》な話をしようとしてるっぽいですよ茶化せる|雰囲気《ふんいき》じゃないですよほらほら年上のお姉さんに夏の海でインデックスが着てたみたいなバカ水着を着せたらどうなるかとか五秒で浮かぶテキトーな妄想はとっばらってとっばらって!!) 「……、何か、そちらからもドロドロと煮詰まったオーラを感じるのですが」 「いや何でもねーです! 冷静に考えたらあんなもんを男の手でレジまで持ってくだけでわたくし上条|当麻《とうま》の人生は|崩壊《ほうかい》するに決まってますとかそんなのは全然考えてませんってば!!」 「???」  神裂は意味不明なワードに対処しきれず首を|傾《かし》げていたが、|土御門《つちみかど》はニヤニヤ笑いながら、 「くっくっくっ。さあ|汝《なんじ》の望みは何だ! 年上の|膝枕《ひざまくら》で母性本能丸出しの耳かきか! お姉様の意外にも小さくて|可愛《かわい》らしいお手製弁当かッ!!」 「やめてーっ! 野郎同士の|馬鹿《ばか》トーク中ならともかく女の子の前で|俺《おれ》のピンポイントを暴いていかないでーっ!!」 「土御門。何だか状況は理解できませんが、|怪我人《けがにん》を悪い方向に刺激しているだけみたいですのであなたはちよっと病室から出てってください」 「あ、二人っきりになってナニすんの? おっ、まさかーっ!」ピッカァ!! と土御門の両目が輝いて、「ここはねーちんがウサちゃんカットしたリンゴを優しく食べさせてあげるシーンか! ごめんなんか|配慮《はいりよ》が足りなくて!」 「違います! 勝手に解釈して勝手に気まずくならないでください」 「え、なに。じゃあ口移し? でもリアルでやるとあれはちょっとグロいっすよ?」 「良いから|黙《だま》って消えなさいッ!!」  |建宮斎字《たてみやさいじ》辺りが聞いたらどんな顔をするか予測もできないような大声が飛ぶと、土御門は笑って病室から飛び出して行った。  途端に、しーん、と静まり返る早朝の病室。  怒りでぜーぜーと息を吐いている神裂の後ろ姿を見ながら、上条はぶるぶる|震《ふる》えて思う。土御門、ああ土御門。お前はきっと場の雰囲気を少しでも|和《なご》ませようと思ってそんな事を言っていたんだと思うけど、いくら何でも投げっ放しはないんじゃないか、と。 「あ、あのー、|神裂《かんざさ》さーん? よ、よろしいですかー?」 「……、何ですか。|何故《なぜ》敬語なんですか」 「ま、まさかと思いますけど、恩を返すとか貸しとか借りとか、そんなアホみたいな話は|土御門《つちみかど》の冗談の中だけですよね?」  土御門と同じように怒鳴られるかと思って身構えていた|上条《かみじよう》だったが、意外にも神裂はポツリポッリと歯切れの悪い声で答えた。 「ですが、|他《ほか》に、どうしろと言うのですか……。あなたは本来、私|達《たち》に守られるべき一般人であるはずなのに、こんな手傷を負わせてしまって。もう、単に頭を下げれば許される次元をとっくに過ぎている事ぐらいは私にも分かります。ですから……」  自分の言葉が自分に刺さるのか、神裂の|台詞《せりふ》は長引いていくにつれてどんどん弱く細くなっていく。意外にもそれが困った時のくせなのか、神裂はまたしても前髪を軽く指先でいじくり回した後に、疲れたように自分の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に|撫《な》でて、重たい息を吐く。ボツ作文を丸めてゴミ箱へ捨てるような動作に似ていると上条は思った。  上条としてはこういう事後の関係はずるずると引きずらず、土御門みたいに『おつかれー。じゃっ♪』と無責任に立ち去ってくれた方がありがたかったりするのだが、神裂的道徳心ではそういう訳にもいかないらしい。  仕方がないので、上条はため息を一つ。  頭の中のギアを、ちょっとだけ|真面目《まじめ》なものに切り替える。 「っつか、本題ってこういう訳だったのか」 「はい。生来、私は他人様に迷惑をかけやすい性質なのですが、とかくあなたに関しては毎回毎回毎回ありえないほどの重しを背負わせてしまって、そのたびに身が縮む思いをしています。 しかも今回は私のみならず天草式全体を含む私達の問題[#「私達の問題」に傍点]にまで巻き込んでしまって」 「うーん。でも気にする必要もねーんじゃねーの? その俺達の問題[#「俺達の問題」に傍点]は、とりあえず無事に済んだんだし、|俺《おれ》達の申にも目立って傷を負ったヤツもいなかったんだから」  その言葉に、神裂は|驚《おどろ》いた顔をする。  彼女は両目をぱちぱちと|瞬《またた》かせてから、 「俺達、って……?」 「ん? だから、俺と天草式。あー、イギリス清教もそうか。後はオルソラとインデックスとステイルと、それからお前。とりあえず、これが今回の『俺達』だろ」 「……、」  神裂|火織《かおり》は、|呆然《ぼうぜん》とその言葉を聞いていた。  まるで絶対に解けないと思っていた難解な問いを、目の前で|一瞬《いつしゆん》で解かれたように。 「何を驚いてんだか。イギリスとかローマとか、そっちは色々大変みたいだけど|素人《しろうと》の俺にゃ正直あんま区別できないし。|馬鹿《ばか》で無知な子供の意見としちゃ組織なんざどうだって良いじゃんと言いたい」  対して、|上条当麻《かみじようとうま》はろくに考えもせずに続けた。  まるで深く考える必要もないほど簡単な問題だとでも言うかのように。 「別に|俺《おれ》はイギリス清教所属のインデックスの味方をしてる訳じゃねーんだよ。インデックスがイギリス清教に所属してるから、とりあえずそこの味方をしてるだけだ」  廊下の方から、パタパタと足音が聞こえてくる。  おそらくインデックスだろうな、と適当に考えながら上条は先を続ける。|誰《だれ》の味方でいて良かったか、それを今確かめるように。 「多分、今度アニェーゼが助けてって言ったら俺は助けに行くそ。今回はたまたま[#「たまたま」に傍点]アイツが悪かったけど、アイツがこれからもずっと悪くあり続けなきゃいけないなんてルールはどこにもないんだからな」  上条は笑って断言する。  |神裂《かんざき》は思わず|驚《おどろ》いたような顔をして、それから困ったように小さく笑った。  彼の行動理由はこれ以上ないぐらい単純で、|馬鹿《ぼか》馬鹿しく聞こえるかもしれないが。  それ|故《ゆえ》に、上条当麻は決して己の道を迷わない。  絶対に。  イギリスには雨季や乾季といったものはないが、代わりに年中通して天気がコロコロと変わりやすい。四時間程度で天気が変わるというのがこの街の常識であって、良く晴れた日にも折り畳み傘を持って歩いている人は珍しくもなかった。  そんなこんなで現在ロンドンの街は夕方から一転した夕立の雨粒に|叩《たた》かれている。とはいえ、この街の人々には雨だからお出かけは中止、という考えはない。ただでさえ狭い歩道には色とりどりの傘がぎゆうぎゅうと押し詰められている。  うっすらと湿る|霧《きり》のような雨の中を、ステイル=マグヌスとは並んで歩いていた。ステイルはコウモリのような黒い傘を、ローラは白地に|金刺繍《きんししゆう》の紅茶のカップみたいな傘を差している。 「別にランベスの宮へ帰るだけなら運転手でも回してくれば良いでしょうが」 「雨の|厭《いと》い人はこの街に住んでいられずなのよん」  ローラは楽しそうにくるくると傘を回しているが、それは間違いなく偏見だ。現にステイルはこの|霧《きり》のような雨があまり好きではない。傘を差しても体は|濡《ぬ》れるし|煙草《タバコ》は湿気るし、悪い事ばかりだ。  ステイルは火の|点《つ》きにくくなった煙草の先端を見つめてため息をつく。  今は自宅へ帰宅途中のローラの後をステイルが追って、帰る道すがらに、ある一件の結果報告をしている所だった。好きな時間に大聖堂へやってきて好きな時閻に大聖堂から帰っていく自由奔放なこのイギリス清教|最大主教《アークピシヨツプ》サマは、どうも一ヶ所でじっとしているのが苦手らしく、報告なり作戦会議なりは街を歩きながら、というパターンが非常に多い。  ステイルとしては、いちいち|奇襲《きしゆう》や傍受を防ぐための細工をするのが面倒で仕方がない。今も二人の傘には細工がしてあって、電話ボックスのような機能がつけられていた。お互いの声は傘の布地が|震《ムる》える事でその振動を『声』に変換し、同時に傘という『枠』の外側には決して『声�が漏れないようになっている。 「———以上が本件の概要となります。ローマ正教側は、この件はアニェーゼ=サンクティス以下二五〇名による武装派閥の独走、という形でケリを着けるつもりですね。あくまで彼女|達《たち》が勝手にやった事で、ローマ正教全体としてはオルソラを暗殺する気はなかったと弁明したいようです」 「内の部下の|手綱《たづな》を|掴《つか》みきれねばお|咎《とが》めナシとはいかないはずなんだけどね」  ローラは苦笑しながら指先で髪をいじっていた。|荘厳《そうごん》と呼ぶべき美しい髪は、雨滴を受けた|蜘蛛《くも》の糸のような|妖艶《ようえん》さを|醸《かも》し出している。  ステイルはチラリと目だけを動かして|隣《となり》のローラの顔を見ながら、 「……、あそこまでする必要はなかったのでは?」 「んふふー。気になりたるのかい、ステイル。私がオルソラ=アクィナスと天草式十字|凄教《せいきよう》の棒組どもをイギリス清教の正式メンバーとして呼び迎えし事を」 「わざわざ僕達の手で守らなくても、向こうが正式に『やるつもりはなかった』と声明を出している以上、今後オルソラ達には不用意に手は出せないでしょう。今の状態で彼女達が不自然な死を遂げれば国際教会レベルの問題に発展すると思いますけど」 「じゃ、不自然でない死を|果遂《かすい》せしめるのかしらね」  ローラはニヤリと海賊みたいに野蛮な笑みを浮かべた。その顔と表情のギャップにステイルは声が詰まりかけた。 「思えば、あなたはローマ正教の真意は全て知っていたようですね[#「あなたはローマ正教の真意は全て知っていたようですね」に傍点]。だったら何で最初からオルソラ=アクィナスをローマ正教から助けうと命を下さなかったんですか。ややこしい」 「全部ではないわ。まさかオルソラの解読法が誤っていようとまでは思ってなかったの」 でも、とローラは続けて、 「私としては、別にいずれでも良かったのよ」  ステイルはローラの顔を見た。  彼女は純白の傘をくるくると回しながら、 「仮に、よ。ステイル。今回の件で私達がオルソラ救出に失敗したる所で、何か事態は変化せしめたかしら? 彼女がローマ正教の元へ帰されたれば、どうせ後には処刑が待っているわ。成功しようが失敗しようが[#「成功しようが失敗しようが」に傍点]、どの道[#「どの道」に傍点]『法の書[#「法の書」に傍点]』が解読されし事はないでしょうに[#「が解読されし事はないでしょうに」に傍点]」  だからどちらでも構わなかった、とローラは結論を告げる。  オルソラが死のうが生きようが、そんな小さな問題など知った事ではないと。  ステイルはつまらなそうに息を吐いてから、 「だったら何で最大主教自らがオルソラに十字架を渡せなんて指示を出したんですか[#「だったら何で最大主教自らがオルソラに十字架を渡せなんて指示を出したんですか」に傍点]。あれだけ差し迫った状況下で作戦数をさらに増やしてまで。なんだかんだ言って最初っから助ける気まんまんだったんじゃないですか?」 「うっ」 「増援がやけに少なかったのも気になりますね。まあ大方、日本海の洋上の辺りにでもこっそり『|必要悪の教会《ネセサリウス》」の大部隊でも配麗していたからこちらへは人員を割けなかったんでしょう? 『十字架の一件』を口実にして、オルソラを連れてローマへ移動するアニェーゼ部隊を|強襲《きようしゆう》するために。まったく何をこそこそ恥ずかしがっているんだか」 「ううっ! ち、違いたるわよ違いたるわよ! 私がこの件に|横槍《よこやり》を入れたるはあくまでイギリス清教側の利益のためなのよ!!」  頭から湯気でも出しそうな顔でローラは否定の言葉を吐くが、ステイルは特に反論もしない。一人でムキになっているのが余計に頭に血を上らせるのか、ローラの顔がぐんぐん赤みを増していく。 「で、利益というのは?」 「……、早々に受け流してくれちゃって。|神裂火織《かんざきかおり》よ」ううう、とローラはむくれながら、「今回の件で良く見知ったでしょ。神裂は強大な力を持ち、良質な正義感を持つが|故《ゆえ》に、独断専行で動きかねなきものなのよ。今回の 件だとて結局何も起こらねども、実は相当危険な所まで|踏《ふ》み込んでたの。今後あれを止めたるための、新たなる|足枷《あしかせ》が必要になりけるでしょうね」  ステイルの顔からふざけた表情が消えた。  ローラの表情も、いつの間にか大人びたものに変わっている。 「あれは暴力によりて強引に止められずでしょ。いや、止めようと思えば止められるけど、こっち側にも相応の被害が出るのは必至。|騎士団《きしだん》の|馬鹿《ばか》どもが海岸線でいかような目に|遭《あ》ったか、報告は受けてるでしょ」  ステイルは別働隊からの報告書の内容を思い出す。  完全装備の騎士一=名は独断専行で天草式のメンバーの殺害を計画したが、何者かの手により一方的に|戦闘《せんとう》不能状態に追い込まれていた。 「そこで暴力以外の足枷が必要になりけるのよって訳。天草式という『|絆《きずな》』は大いに益体する。さも、『言う事聞かねば危害を加えたる』というマイナスの足枷ではなし、『言う事聞きし内はローマ正教から守りたる』というプラスの足枷が使えるの。私|達《たち》が天草式に対してマイナスなる事を強要すれば神裂も反発せしめたでしょうけど、プラスなる事を勧めたれば反発などするはずがない。ね、かくも|美味《おい》しい利益はないでしょう?」  にっこりと|微笑《はほえ》むローラに、ステイルは内心でゾッとした寒気に|襲《おそ》われた。  一見能天気な少女に見えるかもしれないローラ=スチュアートだが、彼女はやはりイギリス清教のトップであり、あの禁書目録の仕組みを築き上げた冷酷なる管理者なのだった。  一年おきに|記憶《きおく》を失わなければならないルールを作り。  イギリス清教のメンテナンスを受けなければ生きていけない体を作り。  しかもメンテナンスは教会の善意によるものだと|騙《だま》してインデックスの裏切りを防ぎ。  そうしなければインデックスは死んでしまうと騙してステイル|達《たち》の反発をも防いだ。  人の感情・理牲・損益・倫理という様々な『価値観の|天秤《てんびん》』を|掌《てのひら》の上で転がすという行為にこれほど|手馴《てな》れた人間は|他《ほか》にいないだろう。ステイルは改めてこの少女に対する警戒心を高めたが、かと言って彼にできる事などたかが知れている。|迂闊《うかつ》な行動を取れば、ローラは迷わずステイルではなく[#「ではなく」に傍点]インデックスへ制裁を加えるだろう。彼女はそういう人間だ。  ドン、とステイルの肩に通行人の体がぶつかった。  ステイルとローラの間を無理に通り過ぎようとした学生のものだった。  おっと、とステイルの体が揺れた時には、もうローラの姿はなかった。  傘と傘を|繋《つな》いでいた通信用の術式はすでに途切れている。  慌てて辺りを見回せば、どういう方法を使ったのか、遠く離れた所にかろうじて紅茶のカップみたいな白地に|金刺繍《きんししゆう》の傘がくるくると回っているのが見えた。それもやがて人の波の中に|呑《の》み込まれ、完全に消えてしまう。 「……、」  すっかり調子を狂わされたステイルは、ごくりと|唾《つば》を飲み込んだ。  |曲者揃《くせものぞろ》いの|魔術師《まじゆつし》達を束ねる|得体《えたい》の知れないトップの姿に、彼は改めて寒気を感じながら、しかし思う。  天草式を助けたのは|神裂火織《かんざきかおり》を上手に|縛《しば》り付けるためのものだった。  それは分かる。  ならば、オルソラ=アクィナスを助けた理由は、結局何だったのだろう?  それは分からない。  オルソラが考えていた『法の書』の解読法はただの間違いだったため、無理に『保護』する必要はない。また、オルソラを助けた事で神裂のように縛られる人問はいない。確かにオルソラは布教活動で功績を挙げ、彼女の名前がついた教会を建ててもらえるほどになっていたが、かと言って神裂のような組織・集団を束ねるほどのカリスマ性を持っていたとは思えない。もしそうなら、暴動や離反を恐れて、簡単に暗殺なんて|企《くわだ》てられるはずがないからだ。 「……あの|女狐《めぎつね》めが」  ステイル=マグヌスは憎々しげに舌打ちした。  ここで一つでもオルソラ=アクィナスを助けた打算的な理由が思いつけば、ステイルはローラを悪人と断ずる事ができただろう。が、ここがローラの難しい所で、彼女は善人なのか悪人なのか判断するための材料がいまいち少ないのだ。というより、彼女は善と悪のどちらの行いも均等に実行するのである。さながら、|天秤《てんびん》の釣り合いを保つように。  当然、天秤がどちらにも傾かず、ピタリと正確に|平衡《へいこう》を保ってしまうと善とも悪とも判別できなくなってしまう。たとえ、天秤の左右の皿にどれほどの|錘《おもり》が乗っていようとも。 結果として、ステイルはどちらとも判断できないまま、ずるずるとイギリス清教の下で働いていく羽目になる。  あるいはそれが|狙《ねら》いなのかもしれないな、とルーンの|魔術師《まじゆつし》はとりあえずの予測を立てながら、|霧雨《きりさめ》の街へと消えて行った。 [#改ページ]    あとがき  七冊もまとめて読んでも苦にならない読書家の|貴方《あなた》は初めまして。  一巻からこつこつとお付き合いいただいている貴方はお久しぶり。  |鎌池和馬《かまちかずゑ》です。  のんびりとやっている内に気がつけば七冊目です。本編の日付は九月八日と相も変わらずのゆったりペースで進んでおります。これまで個人戦主休でお届けしてきた本シリーズですが、今回はちよっびり組織間のやり取りを含んでいたりします。  今回のオカルトキーワードは『|魔道書《まどうしよ》』です。というか、魔道書図書館という役目を持つヒロインが|活躍《かつやく》する本シリーズなのでもっと早くにやっておくべきだったかなという気がしないでもないですが、とにかくいろんな場面に『魔道書』を登場させてみました。  その他にも各組織間の特色のようなものを強く出してみました。それぞれの組織の使うトンデモ|攻撃《こうげき》とその背景にある思想やら事情やらをもやもやと想像していただけると幸いです。  イラストの|灰村《はいむら》さんと編集の|三木《みき》さんにはいつもいつもお世話になっております。いつまでも進歩のない鎌池ですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。  そして本書を手に取ってくださった読者のみなさん。いつまでもいつまでも進歩のない鎌池ですが、じりじりと前へ進もうとする悪あがきをこれからも温かい目で見守ってくれると助かります。  それでは、七冊もの冊数を刊行できた幸運に感謝して、  ここで立ち止まる事なくこれからも書き続けられる事を願って、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。  |魔術《まじゆつ》主体の話になると|美琴《みこと》も|小萌《こもえ》先生も出番ナシ![#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録12 鎌池和馬 発 行 2007年1月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 久木敏行 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十九年一月ニ十七日 入力・校正 にゃ?